「……名前の呼び方、ねぇ」
 少女の問いかけに、イオスはふむ、と考え込んだ。





ファースト・コール・マイ・ネーム






 異世界の召喚獣――もとい、少女――を召喚してしまってから十日。あの日泣き崩れていた少女は、そんなことは夢であったかのようにすんなりと黒の旅団に解け込んでいた。
 料理と言う特技を持っていた彼女にすっかり胃袋を掴まれてしまった旅団員達は、今ではちゃん、ちゃんと朝から晩まで何かと彼女に付きまとってはあれこれ騒いでいる始末だ。
 ――仮にも精鋭部隊である黒の旅団の野営風景としてこの雰囲気はどうなのか……といささかひっかかる部分はあるものの、がこの世界の生活に馴染めるならばと、イオスも、そして総指揮官であるルヴァイドも、少々浮き足立っている隊内の空気には目を瞑っているところだった。


 そんな中。ふいにが問いかけてきたのだ。
 イオスのことを、イオスさんと呼んでいていいのか、と。


「何気なくイオスさん、って呼んでいましたけど、他の皆さんはイオス隊長って呼ぶでしょう?
イオスさん、ここでは立場が上の方(かた)じゃないですか。私だけ違う呼び方をしていたら、雰囲気を乱すんじゃないかなと思って……」

 初めて身を置く場所で迷惑をかけないようにと、どうやら彼女なりにあれこれ必死に考えているらしい。
 健気な姿を微笑ましく思いつつ、そんなに気を遣わなくても良いのにとはがゆい気持ちにもなりつつ。イオスはそうだなあ、と腕を組み思案する。

「まあ、確かに僕はこの隊では一応上から二番目に当たる人間だからな。
ルヴァイド様以外は全員部下になるからそういう敬称になるが……。
でも、それを言うなら、僕が君を、と呼ぶのもまずいんじゃないのか?」
「え?」

 この切り返しは想定外だったのか、大きな黒い瞳をまるくして驚くに、だってそうだろう、とイオスは続けた。

「君をここに喚(よ)んでしまったのは僕の落ち度だぞ?
何もかも僕が悪いのだから、本来僕は君を呼び捨てに出来るような立場じゃないだろう」

 年下だとわかったこともあり、自然とイオスはのことを名前だけで呼ぶようになっていたが、彼女を巻き込んだ状況を考えれば、本来イオスはに対しもっと頭を下げて接するべきなのだ。
 だが、肝心の少女はとんでもない! と慌てて首を横にふった。

「わ、悪いだなんて、そんなこと……!」

 イオスの言葉をは懸命に否定する。
 ――イオスが口にしたことはまぎれもない事実で、だからこんな風に彼女がそれを否定するなどおかしな話なのだが。卑屈でもなんでもなく、この少女は本心からそう思っているのだと、この何日かでイオスもようやく気がついた。


 自分の隣……こんな場所にいるには優しすぎる存在。その想いに答えるためにも、無事元の世界に帰すまで、何としてでも護ってやらねばならない――……。


「……あの、イオスさん?」

 ひとり物思いに耽っていたイオスは、怪訝そうに名前を呼ばれ慌てて会話に戻った。

「あ、ああ、ごめん。
だから、つまり僕だって君を呼ぶのならもっと敬意を込めて呼ぶべきだろうってことだよ。
例えば――さま、とか?」

 イオスの提案に、ええええ!? とが素っ頓狂な声を上げる。

「や、やめてくださいそんなの! む、無理です無理です!」

 とんでもない、と少女は顔を真っ赤にしてうろたえる。
 千切れるんじゃないかと思うくらい何度も頭を横にふりながら必死の形相で却下され、イオスはこみ上げる笑いを堪えながらわかったわかったと頷いた。

「立場を考えたら、君がそんなに遠慮することでもないんだがなあ。
うーん、それなら、、さん?」
、さん、ですか……」

 落ち着きは取り戻したものの、イオスの言葉を反芻した少女は今度は困ったように首を傾げた。

「……それもちょっと、変な感じ、です」
「……僕もちょっと、そう思った」

 眉間に皺を寄せ合い、イオスも首をひねる。
 様、はさすがのイオスもおふざけを含んでいたが、おそらく通常の候補であろう「さん」付けが、彼女の言うとおり想像以上にしっくりこなかった。
 考えてみれば、女性をさん付けで呼んだことなどもう長い間記憶にない気がする。
 そもそも、軍隊生活にどっぷり浸ってきたイオスにとって、まさか今更こんな年頃の少女と密に過ごす機会が訪れるなど夢にも思わなかっのだ。この異世界の少女にどう接していけば良いのか、部下達とは別の意味で、イオスも未だ模索中なのだった。

 しかし、「さん」が駄目となると、残る候補はいよいよ限られてくる。

「……呼び捨て以外でって言ったらあとは他の連中と同じ呼び方しかないが……。
それより、君だって僕の呼び方をどうする気なんだ? この流れでいくなら、もう呼び捨て以外の選択肢はないぞ?」
「え、ええっ!?」

 呼び捨て、という言葉にはあからさまに動揺し始める。

「だってそうだろう。僕は君を様、でも、さん、でもない言い方で呼ぶんだぞ? 立場に見合った呼び方をと言うのなら、君だけが僕に敬称をつけていたらそれこそおかしいじゃないか」
「そ、そんな……!
でも……あれ? 結局イオスさんは私のことを何て呼ぶんですか?」
「いや、だから、他の連中と同じやつしかないかなと」
「同じって……?」
「――あー、まあ、とりあえず一度呼んでみるか? 新しい呼び方で」

 堂々巡りになりそうな会話を打ち切って実践を促す。
 ……何やらおかしなことになっている気もするが、今更やめるわけにもいかない。
 無理です、と口をぱくぱくさせる少女を目で制して、いくぞ、とイオスは息を吸った。

 ――彼女は、自分を呼び捨てにすることにずいぶんとうろたえていたが。
 イオスだって、これから試そうとしている呼び方はそれなりに覚悟がいるのだ。


 年下の少女に対し、部下の旅団員達が自然に呼び始めたそれ。
 「様」も「さん」も不可となれば、残る選択肢はあとひとつ――……。


「イオ、ス?」
、ちゃん?」


 ……呼び合って、互いの目を見つめて。
 そのまま金縛りのように硬直していたふたりは、たっぷり一分後、はっと同時に顔をそむけた。
 急に頬が熱を帯びたような気がして、反射的にイオスは口元を手で覆った。

(何だ、今のは……!?)

 心がむず痒いような、ひどく落ち着かない感覚。
 たかが呼び方ひとつで何をこんなにも動揺しているのだろう。
 柄にもなく鼓動が速くなっていることに戸惑いながら、慌ててイオスは言った。

「――や、やっぱり、今まで通りでいいんじゃないか?」

 自分がうろたえていることを悟られはしないかと不安になりながら話しかけたのだが――……。

「そ、そうです、ねっ!?」

 返ってきた少女の声はものの見事にひっくり返っていて、イオスは思わず吹き出してしまった。
 ……どうやら、戸惑っているのは彼女も同じらしい。

「――っく! はははは……!
何だ、いくらなんでも動揺しすぎだろう!」
「だ、だってだって……! その、何だかすごく変な感じっていうか落ち着かないっていうかっ……!」

 恥ずかしさのあまり泣き出しそうに瞳を潤ませる少女にごめんごめんと謝って、イオスは彼女の頭をぽんぽんと撫でた。

「まあ、一度決めてしまった呼び方を変えるのはなかなか難しいってことだろう。
だから、このままで……僕も気にしないから、君も気にしなくていい。それじゃ駄目か?」

 馴染んだ形で行こうと提案し、黒い瞳を覗きこむ。だが、少女はあっけにとられたかのようにぼんやりとイオスを見つめたまま反応を示さなかった。
 一体どうしたというのだろう。

「……?」

 もう一度名前を呼ぶと、は幾度か瞬きをしてからはっとしたように息をのんだ。

「――あ、ご、ごめんなさい! そ、そうですね、それじゃあ呼び方は今まで通りでお願いします!」
? どうかしたのか? ……何か気がかりなことがあるなら隠さず言ってくれ」

 どこか様子のおかしい彼女に、余計な遠慮をしているようではいけないとイオスが問い質す。
 すると、は恥ずかしそうにもじもじと視線を泳がせながら口を開いた。

「い、いえ、あの。……ただ、頭、ぽんってされて、びっくりしただけで……」
「ああ。ごめん、つい……。嫌だったか?」
「い、いえっ!」

 間髪入れずに否定され、今度はイオスが驚く番だった。

「い、嫌じゃないんです。ただちょっと、びっくりしただけで……その、むしろ、あの……」

 ちょっと嬉しかったです、と。うつむいたが蚊の鳴くような声で呟く。
 思いがけない反応にしばし目を瞬いて。ややあって、イオスはゆるりと微笑んだ。

「……そうか」

 ――ほんの十日前にはイオスの前で泣き叫んでいた少女が、こうして見せてくれるようになったやわらかな感情の数々が、何故だろう、不思議と愛おしいものに思えてならない。
 こんな表情を見せてくれるのならば。これからも、折を見てを頭を撫でるようにしよう。そう秘かに誓いながら、イオスは改めて少女へと向き直った。

「それじゃあ。
呼び方はこれで決まりということで――改めて、よろしく。
「……はい、イオスさん」

 名前を呼んで頬笑みあえば、心にあたたかな想いが満ちてゆく。
 どうしてこんな気持ちになるのだろうと不思議に思いながら、イオスはもう一度、口の中だけでそっと彼女の名前を呟いてみる。


(……


 ずっと忘れていた何かが、イオスの中でひそやかに動き始めていた。




END

back