男は走っていた。
黒い水のしたたる暗いくらい地下水路を、ただひたすらに走っていた。
この水路を抜ければ仲間が待っている。
そうすれば変わる。全てが変わるのだ。
閉ざされたこの国の未来も、変わる――……!
「――そんなに急いでどちらへお出掛けですか?
レコルテ公爵家ご子息、ルード様?」
暗闇の先、突如現れた灯火。
揺らめくあかりに浮かび上がった声の主の姿が、青年――ルードの瞳に絶望となって映し出された。
カルマの坂
「お、お前達は……と、特務部隊のっ!」
「覚えて頂けていたとは光栄です。
会議で何度かお目にかかったことがありましたね、ルード様」
声を震わせる若き公爵家の令息を前に、部下ひとりと共に彼を待ち伏せていたイオスは寄りかかっていた水路の壁から背中を離す。
イオスの手に握られているのは愛用の銀槍ではなく一本のレイピア。それは、彼が隠密行動をする時にのみ使用する獲物だった。
ぬらりと光る鋭い切っ先が、ルードが胸に抱きかかえているものへと向けられる。静かに剣を突きつけられた青年の背を冷たい汗が伝った。
「……元老院議会にのみ閲覧が許された軍事報告書など持ち出して……一体どちらへ行かれるおつもりだったのです?」
イオスが静かに詰問する。
ルードが密かに持ち出した書類。それは、スルゼン砦に関して軍に下された命令の「真実」を詳細に記録したものだった。
トライドラの糾弾に対し頑なに沈黙を通しているデグレアにとってはまさに最高級の軍事機密。決して外部に漏れることがあってはならない代物だ。
それを、議会にも名を連ねているある有力貴族のひとり息子が持ち出した。
取り返し、相応の制裁を与えよ、と――これが、今回イオス達に下された任務だった。
――特務部隊、黒の旅団。
彼等には、デグレア軍精鋭部隊という表の顔とは別に、もうひとつ裏の顔がある。
個々が飛びぬけて優秀な兵士の集まりである彼等は、秘密裏に元老院議会の命令を受けて国内の反逆者を暗殺するという、デグレアの暗部をも担っているのだ。
イオス達がここに現れた意味を十分すぎるほど理解していたルードは、しばらく硬直した後、突如顔を上げるなり力一杯叫んだ。
「た、――頼む! 見逃してくれ! このまま行かせてくれ!」
「命乞い、ですか」
「違う! そうではないっ!」
冷たく言い放つイオスにルードはかぶりを振って否定する。
公爵家の跡取り息子は、すがりつくようにイオスを見上げた。
「お前達だってこの国の体制が狂っていることくらいよくわかっているだろう!?
否――いつもいつも理不尽な命令に虐げられているお前達こそ議会の被害者じゃないか!
いいか、よく聞いてくれ……。この証拠をトライドラに届ければ、デグレアは周辺諸国全てから非難を浴びることになる。閉ざされていた情報が国民にも流れ、全ての者が真実を知ることになる。議会支配の愚かさに気付く時がやってくるのだ!
その時、我々は議会の絶対支配からこの国を救う準備を整えている。各国の協力もすでに取り付けてある。あとは私がこれを持って仲間のもとへ行くだけなのだ!」
ランタンの光を受けたルードの瞳が熱く輝く。
若き理想に燃える瞳。必死に訴えかけるその姿は、あらゆる者の心を動かすカリスマ性を備えていた。このまま齢を重ねれば、なかなかの政治家になるのだろう。
だが、まっすぐすぎるその瞳を見下ろすイオスは、無表情のままぴくりとも動かなかった。
「私は、我々は、この国を間違った支配から解き放ちたいだけなのだ!
何が正義か、お前達ならわかってくれるだろう!? 頼む、このまま行かせて――」
「――わかりませんね」
ルードの言葉を遮るつめたい声。
彼の演説にも全く動じることなく、やはり剣を下ろす気配のない特務隊隊長の様子に、ルードはぎりっと唇を噛み締めた。
ならば、と青年の手が腰に帯びた長剣へと伸びる。ついに、彼は勢いよく剣を抜き放った。
「このままではデグレアはいずれ滅びるのだぞ!
その運命からこの国を救うため革命を起こそうとしているのに……それがお前にはわからないのかああっ!」
怒りに身を任せてそう叫ぶやいなや、ルードは立ちはだかるイオスへと躍りかかる。
だが、渾身の力を込めて振り下ろした長剣は、イオスのレイピアによりあっさりと弾き返された。
「う、うああああっ!」
そのまま腕を斬られ、バランスを崩したルードは無様な格好で湿った水路の床へと転がった。
歯をくいしばって痛みを堪え身を起こしたルードのもとへ、コツ、コツと軍靴を響かせてイオスが歩み寄る。
「――成功しない革命など」
血と泥にまみれた青き反逆者の鼻先に再び剣先を突きつけたイオスは、侮蔑の篭った眼差しで言い放った。
「ただの、反乱だ」
反乱分子はすみやかに始末する。
それが、イオス達黒の旅団に与えられたもうひとつの役割だ。
役割。存在意義。
黒の旅団がデグレアで生き残っていく為の――唯一の方法。
「――くっ!」
イオスの言葉に血の滲むほどきつく拳を握り締めたルードは、驚くほどの速さで身を翻すなり水路の脇道へと駆け出した。
胸に抱えた書類が赤と黒に染まる。斬られた腕からとめどなく血が溢れ出す。それでも走る彼の瞳に宿るのは、どうあってもこの証拠だけは仲間のもとへ届けなければという最後の執念だった。
走り去る背中を見やるイオスの瞳がすっと細められる。
そろそろ、時間だ。
「――アル」
無機質な声で名を呼ばれ、ずっと後ろに控えていたイオスの部下は、すみやかに手にした銃を構える。
火を吹く銃口。狙い違わず、放たれた弾丸は逃げるルードの足を撃ち抜いた。
闇の地下水路に銃撃の残響と青年の悲鳴が木霊する。
「――っああああああああっ!」
倒れ込み激痛に悶えるルードの瞳に映ったのは、暗闇の中でなお鮮やかに輝く金の髪。
心臓めがけ振り下ろされる剣。最後の瞬間、イオスの瞳を真正面から捕らえた反逆者が絶叫した。
「こ――この、議会の犬がああああああああああああああっ――……!」
どす、と身体に埋め込まれたレイピア。
無表情のままイオスが静かに剣を引き抜くと、勢いよく血飛沫があがった。
血と泡を吹き痙攣する身体から書類を取り上げたイオスは、そのまま青年の身体を乱暴に地下水路へと蹴り飛ばした。
ざぶん、と大きな音を立てて、ルードの身体は黒い濁流へと飲み込まれ、消える。
轟音をたてて流れる下水を見下ろしながら、イオスがぽつりとつぶやいた。
「――犬で結構。
だったら、その犬にやられているお前らは虫ケラ同然だ」
成功しない革命など意味がないのだ。
こうして自分達に終止符を打たれるような革命など、デグレアにとって何の意味も持たない。
歴史に残ることすらない、所詮は愚者の夢。
あまりに――愚かな。
ふう、とイオスが小さく息を吐く。
明日になれば。聡明なことで有名だった公爵家長男の突然の「病死」が発表されるのだろう。また、ひとり息子の死を悼むあまり、父である公爵は家屋敷を全て国に寄付し「田舎」へ一家揃って隠居してしまったということも。
――本当は、この水路の先に死体を回収する部隊がいることも。今この瞬間に公爵家では一家の処刑が行われていることも。そんな真実なんて、もはやイオスにとってはどうでもいいことだった。
いつものこと。決まりきっていること。……もう、慣れた。
自分達の役目はこれで終わった。――全てはそう、ただそれだけのことだ。
「……今、何時だと思う?」
「えっ!?
え、ええと……お、おそらく五の刻を少しまわったくらいかと思いますが」
唐突な上司の言葉に驚きながらも、若き旅団員・アルが返答する。
そうか、と頷いたイオスは、地下水路を見つめたまま嬉しそうに笑った。
「じゃあ、何とか夕食には間に合うな。
今日はが久しぶりに食事を作るんだって張り切っていたから――早く戻ってやらないと」
楽しみだな、と言って、イオスはそれはそれは幸せそうに微笑む。
だが――黒い水に向けられたままの瞳は何も映していなかった。
血を塗りつけた赤いガラス玉。ビスクドールの瞳のように冷たく感情のない瞳。
声は、口許は、あんなにも優しく和らいでいるのに。その瞳に光は、ない。
――この人の、こういう所が怖いのだと。
傍らに佇むイオスの忠実なる部下は、密かに背筋を震わせた。
***
湯を使って身体を洗った後、軍舎の食堂へと入る。
野営をしていた頃以来の、随分久しぶりとなるお手製の夕食とあって、食堂はいつにも増して賑やかな、そして明るい笑い声で満ちていた。
奥のテーブルに腰掛けているルヴァイドと目が合ったイオスは小さく会釈をする。それだけで、ルヴァイドには任務の完了が伝わったようだった。
……これで、全ては終わった。さて自分はどの席に座ろうかとイオスが辺りを見渡したところで、背後から鈴を転がすような可愛らしい声が響いた。
「あ、イオスさん、アルさん!
もう、どこに行ってたんですか? ごはん出来ましたよーってずうっと探してたんですよ?」
振り返れば、そこにはエプロン姿でぷうっと頬を膨らませているの姿。
もう見慣れた筈のその姿が、何故だか一瞬とても眩しく見えて、イオスは何度か瞬きを繰り返した。
「あ――ああ、ごめんごめん。ちょっと用事があってな。
それより――何だかものすごくいいにおいがするけど?」
くんくんと鼻をならす仕草をするイオスに、はえへへと笑った。
「今日はね、イオスさんが好きなクリームシチューなんですよ!
デグレア伝統のホワイトソースの作り方を教えてもらってね、頑張って作ったんです!」
隠し味にチーズを入れて、野菜もちょっと飾り包丁を入れたりして……と嬉しそうに説明するに対し、つられてイオスも笑顔を見せる。
「僕の好物かあ。それは嬉しいな。
ありがとう、」
そう言って、イオスはいつも通り少女の頭を撫でようとする。
も、頬を染めつついつも通り彼の手のひらを受けようとする。
だが、伸ばされた手は、少女の黒髪に触れる直前でぴたりと止まった。
「イオス……さん?」
動きを止めてしまったイオスにが不思議そうに首を傾げる。
少女の声でイオスははっと我に返った。
「あ、ご、ごめん!
そういえば手を洗ってなかった。ちょっと行って来る」
「えっ? イ、イオスさん……!?
あ、あの! さめちゃいますから早めに戻って下さいねー!」
突然踵を返して食堂の外へと向かうイオスの背中に慌ててが声をかける。
「た、隊長?
手ならさっき洗って――……」
足早に食堂を後にする上司に対し、手どころか身体、髪まで洗ったのに何を、と部下・アルは怪訝そうな表情を浮かべる。
全てを知る年下の部下とすれ違う瞬間、イオスは小さく呟いた。
「触れられるわけないだろう。
――こんな、手で」
かすれた声で告げられたその言葉に、アルははっと顔を上げる。
その意味に気付いた彼が振り返った時には、イオスの姿はすでに消えていた。
***
ざあ、と勢いよく蛇口をひねる。
寒冷地であるデグレアの水は、夏の盛りである今でさえとても冷たい。
石鹸をつけて、ごしごしと洗う。ただひたすらに、イオスは己の手を洗った。
……目に見える汚れは何もない。だが、そこには、イオスの手には確かに何かがついていた。
こびりついて取れない――何かが。
の笑顔が脳裏をよぎる。何も知らず、無邪気に自分の名を呼ぶあの声が耳を刺す。
たまらなくなって、イオスはダン! と拳を洗面台へ打ちつけた。
荒い石肌に皮膚がこすれ、白い泡の合間に一筋の血が混じる。
あかい、あかい、血――……。
――こんな、手で。彼女に触れるなど―― 一体誰が許してくれるというのだろう。
この手に刻まれているもの。それは、もはや決して取れることのない、血と罪の刻印。
「赤い、な」
食堂から漏れる明るい喧騒を遥か遠くに聞きながら。己の手をひとり見つめて、イオスはただ静かに肩を震わせた。
-END-