「イオスさん、できました」
にぶい茜色の夕陽が差し込む図書室の片隅。鉛筆を置いたがようやく顔を上げると、向かいに座るイオスはいつの間にか寝息をたてていた。
あらら、とちいさく呟いたが再び声をかけるものの反応はない。腕を組み、背もたれに身体を預けたイオスは結構深く寝入っているようだった。
眠 れ る 森 の 王 子 様
用語や組織、法律のことなど、デグレア軍について勉強中のにイオスは時間を見つけては付き合ってくれる。今日も、図書室に籠もっていたのもとへひょっこり顔を出した彼は、解けたら採点してあげるからと言って軍学校用の問題集を差し出したのだ。
あれから一時間……否、一時間半は経っただろうか。きっと彼は待ちくたびれてしまったのだろう。窓の外を見れば、明るかった筈の空はすでに日が沈みかけていた。
時間をかけすぎちゃったかな、とは申し訳ない気持ちになる。
もう一度名前を呼びかけて、ふと口をつぐんだは、改めて目の前のイオスの様子を窺った。
ゆっくりと上下する肩。誰もいない静かな部屋に、彼の呼吸する音だけが聞こえる。
起こすのがためらわれるほど、それはすこやかな眠りだった。
――眠り姫。そんな言葉が思い浮かぶ。
もっとも、正確には姫ではなく王子なのだが……。
王子様は当分目覚めそうにない。
本とノートを閉じたは、少しの間迷ってから、思い切って――けれど決して音をたてないように細心の注意を払って――席を立つと、そっとイオスの隣の椅子へと腰を下ろした。
それでも、彼は起きなかった。
だから、はちょっとだけ大胆になれる。
精一杯気配をひそめつつ。少女は、じっとイオスを観察――もとい、見つめてみた。
一緒に過ごすようになって何カ月も経つが、こんなに近くでまじまじと彼の顔を見るのは初めてのような気がした。 顔と顔が近づいたことは何度もあるものの、それはいつも泣きたいくらいに恥ずかしくて、懸命に目を逸らすしかなかったのだ。
こんな風に長い間見つめ続けるなんて。彼が眠っているから、知らないからこそ出来る、奇跡のようなことだった。
くせひとつない見事な金の髪。陶器のように白い肌。凛と引き締まった輪郭。軍人としては華奢なのだろうが、決して頼りないわけではない肩幅。細くて長い指が黒いシャツにひときわ映えて見える。
「……きれいだなあ」
――これを言うと、彼はとても不機嫌そうな顔をするのだが……。斜陽に浮かび上がるイオスの姿はただひたすら綺麗、のひとことに尽きた。
とても綺麗で。それでいてどこか無防備なイオスの寝顔。
三つも上、と思っていた年の差が、三つしか違わないとさえ感じられる、何だか子供みたいな寝顔だ。
まぶしいくらいに格好良いイオスも、眠るときはこんなにも可愛らしくなるということを知って、はとても満ち足りた気分になる。またひとつ、新しく知ったイオスの秘密がただ嬉しかった。
ちょうど図書室の一番奥にあたるこの席は、周りを天井まで届く背の高い書架に囲まれており、細長い窓からの限られた日差しが唯一の明かりだ。夕暮れの終わり、次第に濃くなる闇色と最後の茜色とに彩られ、イオスの長いまつげが絵画のように美しい影を落としている。
いつまでも、いつまでもこのまま、見つめていたくなる、彼の寝顔。
夕陽を受け、マゼンタ色の光を踊らせる金髪に吸い込まれるように手をのばして――指先をすべった絹糸のような感触に、我に返ったは慌てて右手を引っ込めた。
起こしてしまったかとおそるおそるイオスの様子を窺う。けれど、変わらず紡がれる規則正しい吐息に、少女はほっと胸をなでおろした。
本当は、あまりゆっくりとはしていられない。仕事が残っているであろうイオスはもちろん、も夕食の配膳の手伝いにいかなければならない時間だった。 だから、そろそろイオスを起こさなければいけないのだが――それでも、あともう少しだけ、は彼の寝顔を見ていたかった。
それにしても、うたた寝の筈なのになんと深い眠りだろう。これだけが近くにいるというのに、彼は未だに起きるそぶりすら見せない。
人の気配に敏感なイオスにしてはなんとも珍しいことだった。
「……よく寝てるなあ」
――人前でこんな風に寝入ってしまうくらい、きっと、本当はとても疲れているのだ。
それでもこうして自分と過ごす時間を作ってくれる、やさしいひと。
「……よし、よし。いいこ、いいこ……」
いつだって頑張っている彼を誉めてあげたくて、はそっと、子供をあやすようにイオスの頭を撫でてみる。
それでもイオスは起きそうになかったので、今度は彼の頬へと触れてみた。
ほっとするような暖かさを感じて、の胸がつまる。
今度は、時々、彼がそうするように白い頬を手のひらで包み込んでみる。自分の手にはおさまらないイオスの顔。独り占めしていることが夢のように、綺麗だった。
切ないほどに恋い焦がれている人の輪郭をそっと覚えておきたくて、は天使の羽に触れるかのようにひそやかに、イオスの顔へと指を伸ばしてゆく。
今だけ。目覚めるまでのほんの一瞬だけでいい。彼はこうして自分が触れることがゆるされる、こんな自分でも手の届く存在なのだと、夢を見させて欲しかった。
ひとつずつ。指先に記憶を刻むように、なぞる。瞼。鼻。頬。
そして――唇。
ほんの僅かに開かれ深い呼吸を繰り返す唇。もう何度か、この唇が自分の唇へと重ねられていたことを思い出し、の頬が熱を帯びた。
――自分とイオスはまだ恋人ではない。想いを打ち明けたこともない。それなのに、彼は時々にキスをする。何の断りもなく、理由を説明することもなく。
どうしてそんなことをするのか、彼に聞いたことはまだ、ない。答えを聞いた瞬間、大好きなこのひとを失う可能性があって、怖かったからだ。 答えを問える日は――まだ当分、かなり、よっぽどのことが無い限り――先のことだと思う。
でも、どうして彼はキスをするのか。どんな想いで唇を重ねてくるのか、その瞬間のイオスの気持ちを知りたいのもまた本当だった。
狂おしいほどに気になる、彼の想い。
恋人でもない相手に。自らキスをするというのは、一体、どんな気持ちがするものなのだろう。
同じことをしたら、もしかして、彼の気持ちがわかるのではないだろうか――……。
静まり返った図書室には、彼の吐息と自分の心臓の音しか聞こえない。
彼はまだ、深く眠り続けている。
……もし。今、眠っているのが自分で、それを見つめているのが彼だとしたら。どうするのだろう。
眠る自分をみて、彼は何を想うのだろうか。
夢の向こうで、私は、どうして欲しいと――何を、願うだろう?
窓から差し込む夕陽が短くなっていた。
もう、時間がない。
王子様は眠っている。
そして、ここには今、誰もいない。
だれも、いない。
◆◆◆
「――さん、イオスさん」
重い瞼を開けると、テーブルを挟んだ向こう側に立ったが自分の名前を呼んでいるのが見えた。
どうやら随分と長い間瞳を閉じていたらしい。まいったなと、イオスは慌てて思考にかかった霞を振り払った。
いつの間に時間がたっていたのだろう、窓の外では今まさに西の空に太陽が沈もうとしていた。
「あ……ごめん、寝ていた、か?」
「はい。気持ちよさそうでしたよ?」
くすり、と笑う気配がする。明かりのない図書室の奥はすでに薄暗く、の表情はもうよく見えなかった。
「……ごめん。自分から先生役を買っておいて、居眠りしてたら話にならないよな」
面目ない、と手を合わせるイオスを見て、は慌てて両手をぱたぱたと振った。
「そ、そんなことないです! あの、教えてもらえて、嬉しかったですし……!」
「問題は解き終わったんだよな? 後で採点しておくからノートは置いておくといい。
それより、もう結構な時間だろう? 夕食の準備があるんだよな?」
「あ! はい、そうなんです。ごめんなさい、それじゃあまた後で……」
ぺこりと頭を下げたは、本だけを抱えると急ぎ足で入り口の方へと向かう。
だが、書架の向こうに消える前、少し離れた所で足をとめた彼女は突然くるりと振り向いた。
探るように、イオスの瞳を見つめる。
「あ、あの。イオスさん。 起きてなかった、です、よね……?」
「――うん? 何のことだ?」
意味が分からず眉を寄せたイオスを見て、は猛烈な勢いで何度も首を横に振った。
「い、いえっ、なんでもないです! あ、今日の夕食って確かイオスさんの好きなチーズのスープが出ますよ、楽しみにしててくださいね! それじゃあ失礼しますっ!」
妙に大きな声を夜の帳が降りた図書室に響かせて、少女はばたばたと廊下の向こうへ走り去っていった。
◆◆◆
どう考えても「逃げ出した」少女の足音が完全に聞こえなくなってから、イオスは再び椅子に深く身を預ける。暗がりの中、長いため息をついて、天井を仰いだ。
「……気づかれたくないなら、あんな聞き方するな、馬鹿」
もし部屋が明るかったならきっと真っ赤に染まった顔が見えたのだろう。そんなことが容易に想像できる程挙動不審だった去り際の彼女に毒づいて、イオスは右手で顔を覆う。
たとえ起きていなかったとしても、自分は気付いただろう。そのくらい、少女の態度は明らかに「バレバレ」だった。
もっとも、暗がりに助けられたのは自分も同じだが、とイオスはひとりごちる。
手のひらに触れる己の顔が明らかに熱くて、何だか悔しかった。
――ちょっとからかうつもりで寝たフリを続けたのに、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。
本当は、最初に彼女に名前を呼ばれた時から起きていたのだ。だが、戸惑う彼女の気配が面白くて、眠りを装った。そのうちいきなり目を開けて驚かせてやろうと思っていたのに――……。
あの瞬間。心臓がとまるほど、驚いた。
ほんの一瞬、壊れものにふれるようにそっとかすめただけだったが、それが彼女の唇であることくらい、すぐにわかった。
――その後も演技を続けた自分の理性を誉めてやりたい。
「まさか、こうくるとは思わなかったよ、……」
一本とられたな、とひとりごちて、イオスはが残していったノートをめくる。小さくて可愛らしい文字が几帳面に並ぶ紙面がいかにも彼女らしくて自然と笑みがこぼれた。
ずいぶんと一生懸命問題を解いたようだが、最後の一件で、今日一日の勉強なんてすべて吹き飛んでいるのではないだろうか。おそらくこの後の夕食では決して目を合わそうとしないであろうの姿を想像したら、イオスは楽しくてたまらなくなってしまった。
可愛くて、愛おしくて。本当は、午後の数時間抜け出してしまった分の仕事の埋め合わせを急いでこなさなければならないというのに、頭の中は彼女の事でいっぱいだ。
――あともう少し、時間と順序を踏みたいからと。必死に押しとどめている想いを今夜にでも伝えてしまいたくなる。
「悪いお姫様だよ、まったく」
ひとしきり幸せそうに微笑んで。ノートを抱えたイオスは静かに席を立った。
END
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