――ぐきゅるるるるるるる。


 肩に雪が積もるのも厭わず、そのまま身を寄せていた二人だったが。ふいに響いた不可解な音に互いの顔を見合わせる。
 それが彼女の腹の音だとわかった次の瞬間、イオスは娘を腕に閉じ込めたまま笑み崩れた。

「――ック……ハハハハハハ! すごい音だな!」
「ちょ……わ、笑わないでよ! 仕方ないじゃない、何日食べてないと思ってるの!」

 大体アナタは笑える立場なのと眉を吊り上げられ、痛いところを突かれたイオスはすまないと素直に謝罪を口にした。
 むうっと赤くなった頬を膨らませて、娘はぷいとそっぽを向く。

「色々、吹っ切れたら……お腹すいたのよ」
「それは結構。
――じゃあ、まずは暖かい部屋に戻って食事をしよう」

 な? と微笑んだ顔。思いがけず柔らかな目元が遠い誰かと重なって、唐突に娘の胸を切なくしめつけた。

 再び泣きそうになるのを隠すため慌てて俯き、うん、と首を縦に振る。


 ――こんな切なさにも慣れて、生きていかなければならない。


 気の遠くなるようなこの思いを胸に秘めて。この世界で、生きていかなければならないのだ。
 娘は、小さく唇を噛み締めた。



 戻ろうと言って、雪の上に座ったままの彼女の身体をイオスはいともたやすく抱き上げる。彼は、そのまま雪道を戻りだした。
 お姫様抱っこなんて初めてのことだ。びっくりして自分で歩くと言い張る娘を、イオスはそんな体力残ってないだろうとやんわり諭した。
 ――言われてみれば、確かに身体中だるくて、足に力も入らない。雪道を歩くのはさぞかし骨の折れることだろう。
 まあいいかと、娘はそれ以上抵抗せず、されるがままに抱きかかえられる格好になった。

 心も身体も、疲れきっていて。
 誰かに甘えたい気分だった。

「食事といっても、何日も食べてなくて胃が弱ってるからな……何か軽いものを……。
食べたいものは、あるか?」

 問われ、彼女はそうだなあ、とぼんやり考える。

「……オニオングラタンスープが食べたい」
「おにおんぐらた……?」

 試しに言ってみた自分の好物。どうやら聞き覚えが無いらしく、青年は怪訝そうに眉を寄せた。
 その反応に、やっぱりないのねと娘はため息をつく。
 落胆した様子の彼女にイオスが慌てた。

「い、いや、大丈夫だ。
材料とどんなものなのか教えてくれれば、なんとか……!」

 見上げた先。必死にそう言う青年の顔は、ひどく真剣で。
 彼女は、なんだか可笑しくなってしまった。

 ――おそらく、この青年も根はひどく優しいのだろうなと。そんな気がした。

「いいわよ、無理しないで。
じゃあ……何か、アナタのおすすめなものにしてくれる?」
「え……?」
「だって、少しずつこの世界のものを、好きになっていかなきゃいけないでしょう?」

 これからしばらく、この世界で生きていくのだから。
 そう言って、彼女は――ゆっくりと、笑った。


 それは、リィンバウムに呼ばれて以来、彼女が初めて見せた――本物の笑顔だった。
 微笑んだ娘は、驚くほど美しくて。しばらくの間イオスは歩くのも忘れ、その笑顔に見入った。

 こんなに美しく、笑う娘だったなんて。


 ――この笑顔を、護りたい。唐突に強くそう、思った。


 歩みが止まったことを不思議に思った娘が、どうしたのと問いかける。まさか見とれていたとは言えず、我に返ったイオスは慌ててなんでもないと首を振った。
 そうして再び歩き出そうと顔を上げた彼は、突然ああ、とひとつため息を漏らす。

 ――いつの間にか、つめたい雪はやんで。
 目の前には、美しい夕焼けが広がっていた。


 やや遅れて、娘もその夕焼けに気付く。
 純白の雪原を染める、目のくらむような茜色。
 心を打つ圧倒的な美しさに、二人は目を奪われた。

「……きれい、ね」
「……ああ」

 鮮やかな夕日は、疲れた心にじんわりとしみた。

 そのまましばらく夕日を見つめていた娘は、安心したようにほうっと息をついた。

「……よかった。
この世界にも、綺麗なものは、あるのね」

 しみじみと呟かれたそれに、イオスはああ、と頷いてやった。

「たくさん、あるよ。
美しいものも、うまいものだって。たくさん、ある」

 それから、イオスはふいに真剣な面持ちになる。
 娘を抱いていた腕に力を込めた彼は、こんなことを口にした。

「じゃあ、こうしよう。
――君が、この世界の美しいものを全て見つけ切るまでに……僕は、君を帰す方法を探し出そう」

 そんなことを言われるとは思っていなかった娘は、ぱちくりと大きな瞳を何度も瞬く。
 ややあって、彼女はくすりと笑った。

「私の方が先に、見つけ切っちゃったら――私絶望しちゃうわよ? この世界に」
「そんなことは、させない」

 冗談交じりに言ったひとことだったのに、返ってきたイオスの答えは真剣で。
 頷いた娘は小さくこう呟いたのだった。



「……ありがとう」





***





 茜色に染まる雪原を辿る。暖かい場所へと。
 建物へと入る前。娘を降ろしたイオスは、お願いがあるんだと言って彼女の瞳を覗き込んだ。

「なあ。
――訊いてもいいか? 君の、名前を」

 名前を呼びたいんだ。真剣な瞳をして、彼はそう言った。


 ――名前で呼ぶからな――


 愛しく懐かしい声が、聞こえた気がした。また、泣きそうになる。
 乱れそうになる心を必死に押しとどめて。彼女は震える声で、言った。


「――、よ。


「……


 。 心に染み渡らせるかのように、何度も彼女の名前を繰り返して。イオスは優しく微笑んだ。

「――綺麗な、名だ」

 嬉しそうに笑うその顔が、一瞬、確かに大好きな恋人の笑顔に見えた。



 ――あの人が呼んでくれる筈だった名前。あの人に言って欲しかった言葉。


 けれど今は、遥か遠いこの場所で、あの人ではない青年がそれを口にしている。


 そっと、は瞳を閉じる。
 浮かぶのは、誰より愛しいあの人の笑顔。聞こえるのは、誰より愛したあの人の声。

 遠い遠いこのリィンバウムから。自分の声は、あの人に届くだろうか。



 ――いつか必ず、帰るから。
    だからどうか――待っていて下さい。


 ――遠く遥かな、あなたへ。


 ――もう一度あなたに会うために、私は、この世界で生きてみます――



 それは祈りにも似た、願い。



「……?」

 心配そうに自分を呼ぶ声が聞こえる。

 この先。つらいことも悲しいことも、きっと数え切れないほどたくさんあるのだろう。
 ――それでも今は。この金の髪の青年と、生きていこう。


 ゆっくりと目を開けたは、目の前の青年に向かい、静かに微笑んだのだった。



「――これから、よろしくね――イオス」



 再び、上空から真っ白な雪が降り始める。
 リィンバウムに舞い落ちるそれを、はもう拒まない。

 優しい粉雪を、彼女はそっと、手のひらで受け止めた。





【 粉雪 】     END





postscript.…。
異世界に召喚されるということは、必ずしも楽しいこととは限らないんじゃないか……そんな思いから書いたものです。元の世界に執着するとしたら、私はやっぱり恋愛関係かなと思うのでこういう流れに。
アンハッピーエンド物ともとれる話ですが、少しでもお気に召して頂けたのなら幸いです。 読んで下さってありがとうございました。


04/12/21完成・05/01/20サイトup

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