「……雪、か……」


 自室の机で仕事の書きものをしていたイオスは、目の前にある窓から伝わる冷気にふと顔を上げる。
 冬の午後。 いつの間にか、晴れていた筈の窓の外には雪がちらついていた。

 ――彼女を召喚してしまったあの日も、こんな雪が降っていた。

 重い重いため息をついて、イオスはペンを机の上に置いた。


 ――アナタを恨むと言った娘のあの声が、頭から離れない。


 昨日、娘に背を向けられた後。イオスはもう一度だけすまないと謝って、部屋を後にした。
 あれ以上、あの部屋にいることが出来なかったのだ。

 勿論、娘に自分を憎んで構わないと言ったのは自分だ。その心に偽りは無い。それで彼女が世界を受け入れてくれるのなら、恨みは全て引き受けようと思った。 それだけのことを、自分は娘にしたのだから。
 しかし、あれは――あれでは何も変わらないままだ。何にも、ならない。
 イオスを憎みつつ、娘はいまだにリィンバウムを拒んでいる。今朝も、やはり食事に手をつけることもなく今だあの薄暗い部屋に閉じこもっているのだ。

 カーテンも開けず。暗闇の中で、ひとり。
 あれは――人間の生活では、ない。

 憎しみを糧に前を向くのならいい。
 けれど、憎しみを抱え、そのままひとり悲しみの殻に閉じこもっていたら――そう遠くない未来、あの娘は身も心も壊れてしまう。最後に見せたあの歪んだ微笑のように、本当に狂ってしまうだろう。

 どうしたら、娘をあの部屋から連れ出すことが出来るのだろう。どうしたら、彼女を救うことが出来るのだろう。
 考えても考えても、イオスにはわからなかった。


 ――それとも、このまま。ただ、あの娘が狂って死んでいくのを黙って見ているしかないのだろうか。


 どうにもやりきれない思いに駆られて、イオスはきつく己の唇を噛み締めた。
 
 戻せるものなら、彼女を呼んだあの日まで時間を戻したかった。召喚術なんてそう難しいものではないとたかをくくっていた愚かな自分の手から、あのサモナイト石を叩き落してやりたかった。


 けれど、今更どれほど後悔しても、時間は戻らない。――遅い。


(――どうしたらいいんだ。どうしたら……!)


 頭をぐしゃぐしゃになるまで掻き毟る。噛み締めた口の端から血が滲む。
 そんなことをしても、何の解決にもならなかった。

 少し落ち着こうと、イオスはおもむろに机の前の窓を開けた。

 ひゅうっと音を立てて、暖房の効いた室内に冷たい外気が流れ込む。
 肺に痛い程冷えたその空気を深く吸い込んでから、イオスは再びドサリと椅子に腰を下ろした。
 止めていたつめたい息を、ゆっくりと吐き出す。ほてった頭から次第に熱が奪われていった。

 目を閉じて、考えを整理する。

 ――娘の体力を考えるに、彼女の身体が限界を告げるのはもはや時間の問題だろう。
 それまでに、何としても彼女に食事をとらせなければならない。まずはそこからだ。

 もう一度、娘と話をしよう。
 そう決意して、イオスは瞼を開ける。

 しかし、目に映ったもの――開け放した窓の先に見えた、ついさっきまでなかった光景に、イオスは驚いて瞬きを繰り返した。


 雪の中で、何かが動いている。  


「あれは……!」

 雪で白く染まった庭を歩く人影。それは、ずっと部屋に閉じこもっている筈の異世界の娘だった。

 降り始めた粉雪にひかれて出てきたのだろうか。雪が気になって外に出るなんて、ひょっとして娘はこの世界を受け入れるつもりになってくれたのだろうか……などという淡い期待が一瞬イオスの胸に浮かんだのだが、それは娘の後姿を見た瞬間に吹き飛んだ。

 折れそうに、消えそうに華奢な背中。むしろ、今すぐこの世から消えることを待ち望んでいるかのように……夢遊病者のようにふらふらと儚い足取りで、娘は銀世界を漂っている。


 あてもなく。


(くそっ……!)

 一週間、まともに食事をしていないのだ。あんな薄着で雪の中を歩いたりしたら、それこそ風邪をひいて倒れてしまう。

 娘を連れ戻さねばと椅子から立ち上がる。
 けれど、もう一度窓の外を見たイオスの目に映ったのは、まるで枯枝が雪の重みに負け朽ちるかのように、ゆっくりと純白の大地に崩れ落ちていく彼女の姿だった。

「――ッ!」

 イオスは、コートを羽織るのも忘れ、夢中で部屋を飛び出した。





***





 雪は、予想以上に積もっていた。足首まで埋まるやわらかなそれに転びそうになりながらも、イオスは必死で倒れている娘のもとへと走った。

 息を切らせながら膝をつき、うつぶせのまま身動きしない娘の身体を抱き上げる。

「――おい! しっかりしないか――おい!」

 死んでしまったのかと思うほど、娘の顔は白く、つめたかった。
 背筋に嫌な汗が流れる。




 ――こんな所で、こんな形で逝かせる訳にはいかなかった。


 まだ、自分は。この娘の名前も――……!




「死ぬな! 目を開けるんだ!」

 乱暴に肩を揺さぶり何度も頬を叩く。すると、固く閉じられていた瞳がけだるそうに開かれた。
 ぼんやりと、しばらく宙を漂っていた焦点がようやく目前の人物をとらえる。
 それがイオスだとわかって。黒い瞳は、落胆とともにひどいあきらめの色を宿した。

「何しに、来たの」
「何しにって……連れ戻しに来たに決まってるだろう!?
こんな弱った身体で外に出たりして……死ぬ気か、君は!」
「――死ぬ気よ」

 あまりに躊躇なく返された答えに、イオスは言葉を失う。
 彼の腕の中で、彼女は深く嘆息した。

「これは、夢なの。悪い夢なの。
夢の中で死ねば、私にとってその世界は終わるでしょう? 
――だから、死ぬの」


 そうすれば、私は、私の世界で目覚められる。


 夢見るようにうっとりと呟かれたそれに、イオスの中で堪え切れない激情が爆発した。
 これが、彼女が出した答えだというのか。

「馬鹿なことを言うんじゃない! 何度も言っているだろう……これは夢ではないんだ!
ここで死んだら君は本当に」
「――夢よ!」

 言葉を。真実を遮る叫び。ありったけの力を込めて、彼女は叫んだ。
 真っ白な庭に、全てを否定する声がこだまする。


「……おまえ」


「夢……よ……!」


 降りしきる粉雪を頬に受けながら。娘は、泣いていた。


「夢じゃなかったら何だっていうの!?  いきなりこんな場所に連れてこられて、帰れないっていわれて、はいそうですかって受け入れられると思う!?
――夢よ! これは全部夢なの! だからこんな世界早く終わりにして、わたしは」



 帰るの



「かえるの……ゆめからさめて、かえっ……!」

 それ以上はもう、言葉にならなかった。

 うわごとのようにただ、夢だ、と何度も繰り返して。自分に言い聞かせるように繰り返して。娘は、泣いた。


「死なせてよ……」


 こんな世界にいるくらいなら。あの人がいない世界にいるくらいなら。



 死んだほうが、ましだ。



 死ねば、何かが変わるかもしれない。
 最後の、希望。……だから。


 ――死なせて。


 溢れる涙をぬぐうこともせず。彼女はそう、願った。





***





 しんしんと雪が降り積もる。
 ただ黙って娘の嗚咽を聞いていたイオスは、ふいに彼女を支えていた腕を解いた。
 うなだれたようにうつむくその整った横顔に、悲壮な色が浮かんでいる。

「――どれほど君が嫌だと言っても、これは現実なんだ。
ここで死んでも、君が望む結果は訪れない。
君を、死なせるわけにはいかない――君をこの世界に呼んだ者として、僕には、君に夢じゃないと教える責任がある」

 何かを思いつめた瞳でそう言うと、イオスは懐から一本の短剣を取り出した。
 軍人の心得として、いついかなるときも密かに身に着けているそれ。雪の上に鞘を落とすと、よく手入れされた銀色の刃が濡れた光を放った。
 その短剣を、肩を落としたまましゃがみこんでいる娘の手に握らせる。


 なにを、と彼女が問おうと顔を上げた瞬間。目の前いっぱいに青年の胸が広がって。

 ――それから、 ずぷり、とひどくやわらかな感触が手を伝った。



「……っ、な……!」


 ぽたり、ぽたり。刃を伝い、手を辿り、真白な雪の上に落ちていく朱の雫。
 イオスに無理矢理抱きしめられた格好の彼女が握る短剣は、彼の右手により、イオスの腹部へと埋め込まれていた。

「ひっ……あ……ああっ……!」

 確かな肉の感触としたたる生暖かい血液。知らない感覚に、娘はガタガタと震え始める。
  己の身体から流れる血が彼女の手を染め上げたのを確認してから。イオスは、ずるりとその身を引き抜いた。
 そのまま、ドサリと雪の上に倒れる。

「い、いやっ……! やだ、ねえ……!?」
「――これで……。
夢じゃないって、わかった、だろう?」

 視界に飛び込むあまりに鮮やかな赤に混乱した娘が、倒れたイオスの肩にすがる。
 蝋人形のように白く動かなかったその顔にはじめて動揺と恐怖という人間らしい表情が浮かんでいるのを見て、イオスは肩で息をしながら小さく笑った。

「ほら――切り裂けば、僕にもこうして赤い血が流れている。
僕は、夢の世界の人間じゃない。
――君と同じ……現実に存在する、生きた人間だ。
夢ではないんだよ、これは」


 ――わかってくれたか?


「わ……わかった! わかったから! やめてよ……もうやめてええっ!」

 いまだ腹部から血を滴らせながらも微笑む青年に、たまらず娘は泣き叫んだ。
 こんな風に人が血を流す場面など見たことがない。彼女の瞳には、イオスの弱々しい笑顔が末期の微笑みに映った。

「ばっ……馬鹿じゃないの、アナタ!
なんでこんなことっ……しっ、死んだら、どうすっ……!」
「大丈夫、死なないさ……急所は外してる」

 苦しそうに息を詰まらせながらもそう言うと、イオスは上着のポケットをまさぐる。
 手のひらにすっぽり収まる緑の石を取り出し、それを傷の上にかざした。

「誓約のもとに命じる……。
幻獣界の勇者……僧侶クリム。……治癒の光……を……」

 呪文の詠唱とともに湧き上がる、エメラルドグリーンの光。
 輝く光の中から現れた獣人の少女は、イオスの腹部に向かい杖を振るう。すると、みるみるうちに流れていた血が止まり、裂けていた筈の肉が繋がっていった。

 きらりと光の粒を残して、メイトルパの僧侶(シスター)は己の世界へと帰っていく。


 ――クリムが消えた後。イオスの傷は、跡こそ残っているもののまるで嘘のように塞がっていた。


 生まれて初めて、魔法――召喚術を目の当たりにし、娘は驚きのあまり声を出すことも出来ず、 ただイオスの傷跡を目を丸くして見つめていた。

 ……あれほどの怪我が、一瞬にして治ってしまうのだ。
 こんな、ことが。本当に起こるなんて。

 ふう、と呼吸を整えて、イオスは石を元へとしまう。
 それからゆっくりと起き上がった彼は、信じられないといった顔をしている娘の目に視線を合わせた。

「これが、召喚術――君をこの世界に呼んでしまったものだ」
「しょうかん……じゅつ……」

 娘は、もう一度イオスの腹部へ視線を落とす。
 血は、流れていない。本当に、治っているのだ。

「もう……い、痛く、ないの?」

 彼女の問いに、ああ、とイオスは頷いた。

「痛みは無いよ。
最も、失った血までは戻せないから、いくらか貧血気味にはなるけれども」

 ――なんということだろう。

 突然の血。そして召喚術。
 立て続けに起こったあまりに信じられない出来事の数々に、娘の気が一瞬遠のく。
 飛びかけた意識をかろうじて引き戻したのは、イオスの声だった。


「こうやって……身体の痛みは、消すことが出来るけれど。
心の痛みは、召喚術でも癒すことは、できない」


 悔しそうに呟かれたそれに、娘ははっと顔を上げた。

「それに。
君の心の痛みは――こんなものじゃ、ないんだろう?」

 驚いた娘は、まじまじとイオスの顔を凝視した。
 ――何なのだ……一体何を言い出すのだ、この青年は。

「とても、足りないだろうけれど……。
それでもこうやって、君の痛みを少しでもわかりたいと思うのは……傲慢、かな。やはり」


 すまない、と悲しそうに瞳を伏せる青年を見た瞬間。彼女の中で張り詰めていたものがぷつりと音を立てて、切れた。


「……な……によ……。なんなのよ、もう……!」

 どうして彼は、そんなに泣きそうな瞳をするのだ。
 泣きたいのは、こっちだ。
 いきなり人を刺すはめになったり、あんな魔法を目の前でやられたり。

 突然こんな非日常に放り込まれて身も心もズタズタなのに、なんであんな傷ついた瞳を見せられて、追い討ちをかけられなければならないのだ。 あんな目をされたら、憎みたくても憎めないではないか!


 ――非、日常。

 ――異世界。


 言われなくても。こんなことまでされなくても。もう何日も前から彼女だってわかっていた――気付いていた。

 これは、夢ではないのだ。

  まさか、と思うが。それでもこうやってありとあらゆる感覚がある以上、自分が存在してしまっている以上、これは現実なのだ。


 異世界に召喚されたという、夢物語のような……。
 それでいて、元の世界には戻れないという、悪夢よりも残酷な現実。自分はそれに、巻き込まれてしまったのだ。


「私だってわかってたわよ……気付いてたわよ! これが、現実だって!
だけど私には、どうしても現実だって認められない理由があるの!」

 そう叫んだ彼女の瞳に涙が盛り上がる。滝のようにとめどなく溢れ出したそれは、頬を伝い、雪を濡らした。


 ――戻れないことが、現実なのだと。認めるわけにはいかなかった。
 だって、自分には。


「……恋人が、いるの」


 涙声で呟かれた言葉。イオスは、はじかれたように俯いていた顔を上げた。

 娘はただ、泣き続けた。涙が止まらなかった。大好きなあの人の笑顔が浮かんでは消えた。

「愛してるの。……あの人も私を、愛していると言ってくれたの。
……やっと叶ったばかりだった……のに」


 ――あの優しい手をずっと。離したくなかったのに。


「かえりたいの……あのひとのところに、かえりたい」


 だけど帰れない。それが現実だと、言われた。


 ――もう、二度と。あの優しいぬくもりを感じることも、ないのだ。


 かえりたい。そう言って泣き崩れた娘を、たまらずイオスは胸に抱き寄せた。
 折れそうに細いその身体をきつくきつく抱きしめる。どうしようもない感情が、イオスの全身を駆け抜けていった。


 ――助けたい。この娘を、助けたい――……!


「……帰すよ。
――必ず君を、元の世界へ、帰すから!」

 突然耳元で叫ばれた言葉に娘は涙の滲む目を見開く。
 勝手なこと言わないでと、イオスの腕の中で歯をくいしばった。

「なぐさめなら、いいわよ……! 戻る方法ないって言ったの、アナタ……じゃない……!
帰れないんでしょ?あのひとにはもう、あえないんでしょう? ……も、わかった、からっ……」
「帰してやる!」

 しゃくりあげる娘の言葉を遮って、再びイオスは叫んだ。

 ――この娘をこれ以上、泣かせたくなかった。イオスの心は、ただそれだけで一杯になっていた。
 こんな悲しそうに泣き崩れる姿なんて、もう見たくなかった。胸が張り裂けそうだった。
 泣いて欲しくなかった。

「僕が必ず、帰してやる……出来ないなんてもう、決め付けないから!」

 有無を言わさぬイオスの強い声に、驚いた娘は言葉を失う。
 イオス自身も、無意識のうちに自分の口から飛び出た言葉に息をのみ――それから、何かに気付いたかのようにはっとその紅い瞳を見開いた。

 ――文献。召喚師の言葉。一般常識。
 彼女を帰せないとイオスが判断したのは、どう調べても、誰に聞いても、事故で呼んでしまった者を元の世界に帰したという事実がなかったからだった。
 それが、真理なのだと思っていた。


 ――けれどそれは――真理ではなく、ただ前例がないというだけでは、ないのか?


  前例がない、だけなら。だったら……。


「必ず、帰す」

 決意を誓うようにそう言うと、イオスは娘を深く抱きしめ直した。

「確かに、事故で呼んでしまった者を帰したという前例はない。
でも――だったら、僕が、一番初めにそれを成し遂げればいい」

 途方も無い思い付きかもしれなかった。けれど、何としても自分はそれをやらねばならないと、イオスは心の底からそう思った。


 娘は、黒い瞳を零れ落ちそうなくらい大きく見開いて、イオスを見上げている。


 ――この娘をもう、泣かせたくなかった。


 娘の頬を両手で包み込む。
 濡れた瞳をまっすぐに見つめて。イオスは言った。

「どれだけの時間が掛かるかは、わからない。
だけど、いつか――いつか必ず、君を元の世界へ――恋人のもとへと帰してみせるから。
だから、それまでの間どうか……生きてくれないか?」


 ――この、リィンバウムで。


 イオスの言葉。それが、限りなく不可能に近いであろうことは、彼女にもうっすらと――本能かもしれない――感じ取ることが出来た。

 けれど。可能性が、ゼロではないのなら。

 死を選ぶよりも、もうひとつ、選択肢として残るのなら。


 それで、いつかもう一度――あの人に会えるのならば。


 ――この青年を、信じてみても、いいのかもしれない。


「……わかった……」


 やっとの思いで、頷く。

 彼女は、イオスの瞳をまっすぐに見つめ返した。


 リィンバウムに呼ばれて、七日目。
 ようやく彼女は、世界を受け入れたのだった。


「信じるわ。
――アナタの、その言葉を」


 そう呟いた彼女の瞳から、つっと一筋の涙が頬を伝う。
 

 流れたそれを指で拭って。イオスはもう一度、娘の身体をきつくきつく抱きしめた。



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