――いつまでも名字ってわけにはいかないよなあ。


 そう、電話口で彼が笑っていたのはいつだっただろう。
 仕事の時の……これまでの癖でずっと名字で呼んでいたけど、いい加減変えなきゃな、とあの人は言った。

 ――よし。明日の夜には名前で呼ぶからな。
    お前も、俺のことは名前で呼ぶんだぞ。いいな?

 恋人同士になったんだから、名前で呼ばなきゃ駄目だ。そう言って張り切るその口調がなんだか子供みたいで、思わず笑ってしまった。
 今すぐ呼んでくれないんですかと聞いたら、電話じゃ照れくさいんだとの答え。おかしくて可愛くて、笑いが止まらなくなる。

 ――おま……おいこら、笑うな!
    ああもう、明日はうざくなるくらい名前呼んでやるからな、覚悟しておけよ!


  あの幸せな約束をしたのは、いつだっただろう。


 そうだ……昨日の夜だ。今日は仕事のあと、待ち合わせて、一緒にゴハンを食べながらクリスマスの予定を話し合うことになっているのだ。その時、名前で呼び合う約束をしたのだ。

 なんだかおかしな夢を見た気がする。金の髪の青年が出てくる、おかしな夢。悲しい夢。
 今は何時だろうか。もう、朝かもしれない。
 目覚ましのアラームはまだ聞こえないけれど、今日はデートなのだ。早めに起きて念入りにメイクをしよう。ブローも丁寧にやりたい。

 よし、起きようと。満たされた、幸せな気持ちで目を開ける。




 ――けれど、開いた瞳に映ったものは――見覚えの無い木枠の窓と、薄水色のカーテンだった。


 ここは、間違いなく、自分の部屋ではない。
 知らない場所のままもう何日も変わらない景色。 

 はあ、と深く息を吐いて、娘はつめたいシーツをきつく握り締めた。


 もう何度こうやって眠りと覚醒と、そして絶望を繰り返しただろう。

「なんで、目、さめないの……?」

 嫌というほど眠ったのに、自分はいまだにこのおかしな夢の世界から抜け出すことが出来ない。なんて長く、つらい夢だろう。もう、じゅうぶんなのに。

「……さむい」

 ぶるっと震えて、彼女は毛布を手繰り寄せた。
 夢なのに、ここはとても寒い。寒くてたまらない。


 ――それともこれは夢ではなくて、異世界という場所で、現実で。
 あの青年が言うとおり、自分はもう元の世界に戻ることも出来ずにずっとこのまま――……


(嘘だ嘘だそんなの嘘だ!)


 歯を食いしばって何度も首を振る。思わずきつく閉じてしまった瞳から涙が一筋零れ落ちた。

 帰れないなんてそんなこと、絶対にありえないのだ。
 あの人にもう会えないだなんてそんなこと、あるわけがない。だからこれは夢なのだ。
 もう一度眠ればきっと、今度こそ自分の部屋で目覚められる。

 眠ろう。そう思って、彼女がベッドの中で震え続ける己の身体を抱きしめた時だった。


「……イオスだ。
話をしたいんだが……いいか?」

 ノックの音とともに聞こえた声に、娘ははっと息をのむ。

「……入るぞ?」


 ――夢の世界の住人が、部屋の扉を開けた。






***





 部屋はつめたく、薄暗かった。
 カーテンを開け外の日差しを入れれば、もっと過ごしやすい部屋になるだろうに――こんな寂しい場所に閉じこもっている娘の心中を思い、イオスの胸がずきりと痛んだ。
 明るい光さえ拒むほどに、自分は娘を傷つけていたのだ。そのことに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。何もかも勝手に、決め付けて。己の慢心が恥かしく、憎らしかった。

「起きて……いるだろう?」

 イオスの問いかけに、返事は無い。

 娘は、もう何日もイオスが見てきたのと同じ格好、頭から毛布をかぶった状態でベッドの上で背を向けている。それでも、息を潜める気配から、彼女が眠っているのではないことがわかった。

「話をしたいんだ。
こちらを向く気は……ないか?」

 娘は、身じろぎすらしない。
 ――変わらぬ拒絶。
 イオスはそっとため息をついた。

 これまでずっと、ひどい態度で接してきたのだ。そう簡単にはいかないのだろう。
 けれど、今までのことを全て謝って、もう一度やり直そうと思って、イオスはこの部屋に来たのだ。

 一歩ずつ、ゆっくりと娘がいるベッドへと歩を進める。
 怯えさせないように精一杯気をつけながら、イオスは迷い子をあやすような気持ちで言葉を選んだ。

「今日は、謝ろうと思ってここに来たんだ。
いままでずっと、僕は君の気持ちも考えずにただこの世界を受け入れることだけを押し付けて……本当に、すまなかった」

 一歩、また一歩とふたりの距離が縮まる。
 娘は、動かない。

「いきなり呼んでしまって、本当に申し訳ないと思っている。
でも、何度も言っているが……やはり僕には、君を元の世界に帰してやることは出来ないんだ」

 毛布をかぶった娘の肩がわずか、震えた。

「恨み言なら聞く。気の済むまで僕を罵倒してくれていい。
僕を憎みたければ、いくらでも憎んでくれて構わないから……。憎みながらでいいから、ゆっくりでいい……どうか、目を開けて、このリィンバウムという世界を見てもらえないだろうか……?」


 ――数年前。ルヴァイドによって突然この寒い異国の地――デグレアに連れてこられた時、イオスは彼を憎むことでともすれば自我を失いそうになるその心を奮い立たせた。
 ルヴァイドの言うように、この異界の娘があの時の自分と同じように戸惑い、苦しみ、先の見えぬ暗闇の中に放り込まれているのだとしたら――彼女にも、自分を憎むことで生きる気力を取り戻して欲しいと、イオスは願ったのだ。

 こんな暗い場所に閉じこもっていないで。せめて、起きて――生きて欲しかった。

 ――このままでは、死んでしまう。

 そう思わせるくらい、この部屋は、悲しみと寂しさが支配していて胸が詰まった。足を踏み入れた瞬間、イオスはどうしてこの娘を何日も放って置いたんだろうと後悔に打ちひしがれたのだ。


 返事を得られぬまま、イオスは娘の枕元へと辿りついた。
 死んでも離さないとばかりきつく毛布を抱き込んだ彼女は、やはりイオスを見ようとはしない。

 幾ばくか躊躇した後。イオスは、おずおずと横になっている娘の肩に手を伸ばした。

「……もう何日も、まともに食事をしていないだろう?
食欲も無いのだろうが、少しは食べないと身体が参ってしまう」

 毛布の上からそっと、壊れ物を扱うように細い娘の肩を撫でる。

「それと……。
僕と口を利きたくないのなら、今はそれでもいい。
だけどせめて、君の名前だけは、教えてくれないだろうか……?」

 それは、もう何回も彼の口から繰り返されてきた言葉。
 けれど今のイオスの声は、これまでのような「命令」ではなく、彼の心からの「願い」だった。


 静かに嘆願するその声と、ゆっくりと肩を撫でる大きな手のひらは思いがけず優しくて。毛布の中の暗闇で、娘はひどく混乱した。
 夢の世界の筈なのに、何なのだろう……これは。
 
(なま……え……?)

 優しく大きな手。名前。
 彼女の中で、何かとそれが、だぶった。



 ――明日の夜には、名前で――……。


 なまえ で。




 愛しい笑顔がよみがえった。
 はっと、娘は目を見開く。




「――触らないでえっ!」


 次の瞬間。突然起き上がった彼女は、乱暴にイオスの手を振り払った。





***





 打ち払われ、イオスは驚いて飛び起きた娘を凝視した。
 寝乱れた長い黒髪。やせた頬。そして、闇色の瞳に浮かぶのは――涙。
 ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、娘はまっすぐにイオスを睨みあげていた。
 あまりに強いその拒絶と憎しみに、イオスは声も出ずその場に立ちすくむ。

「――ア……アナタに教える名前なんか、ないわっ……!」

 これが、イオスが六日ぶりに聞いた、娘の声だった。
 ベッドの上に座り込んだまま、彼女は膝の上に広がる毛布を手が白くなるほどきつく握り締めている。その両手が、小刻みに震えていた。

「なんでよ!
なんで、夢の世界の人間がそんな声で名前なんか聞くのよ!
言わない……ぜ、絶対、いわないっ……!」

 泣きながら、彼女はヒステリックに叫んだ。

 ――名前。自分を名前で呼んでいいのはあの人だけだ。呼んでくれると約束したのだ。
 なのに、この目の前の青年は、自分に名前を教えろと言う。しかも、ひどく優しい声で。あの人を思い出させる、声で。

 夢だと言い聞かせ、全てを拒絶する中。常に霞が掛かった思考の向こうで勝手にしゃべるイオスの声は、これまでずっと彼女の頭をただ無意味に通り過ぎる音でしかなかった。無機質な印象のそれはただつめたいとしか感じらず、彼女にとってこの「悪夢」を構成する要素でしかなかったのだ。

 けれど、どうだ――悪夢は、さらに残酷な形で自分を追い詰めようとしている。


 あの人が呼んでくれる筈だった名前を。教えろ?


 苦しくて悲しくてあの人に会いたくて。心が張り裂けそうだった。
 何故、どうして。あんな声で、名前を問われなければならないのだろう。
 もうわけがわからなかった。息が詰まった。渦巻く感情に頭が割れそうに痛い。
 わからない。


 ――名前?


 名前なまえ私の名前はあの人が呼んでくれる筈だったのにそう約束したのに幸せだったのにそれを全て奪った悪夢が悪夢の張本人があの人みたいな優しい声で名前を教えろだなんてなんでどうしてこんな酷いこんなもう嫌だいやだいやだ――


 ――たすけて。


 小さく、誰かの名前を口にして。娘はとうとう両手で顔を覆ってしまった。
 何が娘をこんなにも刺激してしまったのだろう。わけがわからず、どうしたらいいかもわからず、イオスはただおろおろするばかりだった。
 一体何と言ってやれば良いのだろう。途方もない混乱の中、イオスは必死に言葉を探した。

「す――すまない。すまない……!
だけどこれだけは……これは、夢ではない。僕は夢の世界の人間ではないんだ。
辛いだろうが頼む、それだけはわかってくれ……でないと君はこのままおかしくなってしまう……!」

 ぴたり、と。雨に濡れた小鳥のように全身を震わせていた娘が、イオスの言葉に突如その動きを止めた。

「……夢じゃ、ない?」

 ぽつりと呟かれたそれに、イオスははっと目を見開く。
 娘は、理解してくれたのだろうか。

「そ、そうだ! 夢ではないんだ。これは確かに現実の世界で……」
「……夢じゃ、ない」

 娘の肩が再び震えた。
 イオスは、また彼女が泣き出したのかと思ったのだが――しかし、顔を覆った両手の隙間から零れてきたのは、嗚咽ではなく、笑い声だった。

「――っ……!?」

 驚きのあまり、イオスは思わず娘から一歩、後ずさる。

 ひとしきり肩を震わせた後。娘はようやく顔を上げた。
 涙は乾いている。

 呆然としているイオスに、娘はフッと笑いかけた。
 歪んだ口の端。
 ――あまりに暗いその笑みに、イオスは一瞬、娘が悲しみのあまり狂ってしまったのかと思った。

 そんな彼をつまらなさそうに一瞥して、娘は再び頭から毛布をかぶり、イオスに背を向ける。


「……もしこれが、アナタの言うとおり、夢ではないのだとしたら」


 先程までの混乱が嘘のように、しんと静まり返る部屋。
 つめたい静寂の中。最後に娘はこう言った。



「恨むわ、アナタを。
――心の底から」



 全てを拒絶するその細い背中を、イオスは言葉もなく、ただ見つめることしか出来なかった。



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