固く閉ざされた扉の前に置かれた食事は、彼が持ってきた時と寸分たがわぬ姿のまま冷え切っている。
 鉛のように重いため息をついて、イオスは手のつけられていない食事のトレイを片付けた。





***





「――あの娘は、まだ部屋に閉じこもったままなのか?」
「……はい。
声もかけてみたのですが……返事もしないし、食事もろくにとらず、ベッドにもぐりこんだきりで」

 黒の旅団・総司令官であるルヴァイドの執務室。上司の問いかけに、イオスは心底困ったように男性にしては美しすぎるその眉を寄せた。

 イオスが「名も無き世界」から娘を召喚して六日。彼女は、頑なにイオスが告げる現実を拒み続けていた。
 頭から毛布をかぶり、イオスの顔すら見ようとはしない。

「何度訊いても……まだ、自分の名前すら言おうとしないのです」

 再び、イオスの口からため息が出る。その口調にはどこかしら棘が含まれていた。


 ――確かに、彼女を突然呼んでしまったのは自分の落ち度だ。しかも元の世界に帰らせてやることすら出来ない。本当に、心の底から申し訳ないと思っている。
 だから、誠心誠意謝った。呼んでしまった当然の責任として、彼女の面倒は全てみると誓った。
 他の召喚獣とは違い、何も護衛獣になれとか戦いをしろだとか強要しているわけではないのだ。このリィンバウムで、ごく普通の人間として生活してくれればいいと言っているのに……六日たつ今も、あの娘は何の反応も示さない。    

「元いた世界が恋しいのはわかりますが……もういい加減、現実を受け入れるべき頃合です。
少なくとも、名前くらい教えてくれてもいい筈だ」

 ここまでリィンバウムを拒む召喚獣なんて聞いたことが無いと言って、イオスは苛々をぶつけるかのように書き損じた書類をぐしゃりと丸める。
 彼なりの「精一杯」が受け入れられず、その理由もわからず。拒まれることで異界の娘への感情が同情や申し訳なさから不満へと変わりつつある部下を見て、ルヴァイドはふむ、考え込んだ。


 しばらくの間何事か思案していたルヴァイドは、ゆっくりと伏せていた瞼を開け、再びイオスを見やる。不服そうな部下の顔をじっと見つめると、静かに問いかけた。

「イオス。
――お前は何故、娘が現実を受け入れるべきだと思うのだ?」

 唐突な上官の質問にイオスが目を瞬いた。
 この人は、いきなり何を言い出すのだろう。

「は?
な、何故って……。召喚されたことを受け入れなければ、いつまでたってもリィンバウムに馴染めないではないですか」
「リィンバウムに召喚されたことを受け入れるのは、召喚獣の義務か?」
「当たり前です。義務というか、それはごく普通のことでしょう?
確かに彼女は僕のせいで帰ることが出来ませんが……例えば護衛獣のように、働けと言っている訳ではないんです。好きなように暮らしていいと言っている。――他の者達に比べれば、それこそ破格の扱いでしょう?
なのにどうして、ああまで頑固なのか……理解できません」

 きちんと誓約を交わした上で呼ばれた召喚獣であっても、リィンバウムに留まり続ける者はたくさんいる。その理由は護衛獣としての役目や傭兵代わり、下働きなど様々だが、そんな者達ですら、帰る術を持っている者達ですら、リィンバウムにいることを拒んだりしていない。むしろ、帰ることなど望んでいないように見える。

「召喚獣のことを説いた書物で読んだことがあります。
――彼らにとって、このリィンバウムは楽園に等しい世界なのだと。だからこそ、太古の昔、異世界の者達は何度もリィンバウムに侵攻してきたのだと……。
憧れの楽園だからこそ、召喚獣はこの世界に呼ばれることを拒まないし、力を貸してくれる。違うのですか?」

 なのに、あの娘は。
 一体何なのだろう。

 
 ――あまりに不可解なあの態度。


 もうどうしたらいいのかわからないと、イオスは力なく首を横に振る。

 彼女に何かを強要するつもりはイオスにはない。ただ、リィンバウムを受け入れてくれればそれで良いのだ。
 そう何度も繰り返し言っているのに……どうして、あの娘は……。

 はあ、と今日何度目になるであろうため息をつこうとした所で、自分以外の深い吐息が聞こえ、イオスは俯きかけていた顔を上げる。
 ため息の主は、どこか苦虫を噛み潰したような顔をしてこちらを見ているルヴァイドだった。

「……ルヴァイド様?」

 何かおっしゃりたいことがあるのですかと、イオスが目線で先を促す。
 ルヴァイドは、再び深く深くため息をついた。


「イオス。
……お前は、あの娘を一体なんだと思っているのだ」


「……え?」


 とっさに言われたことの意味がわからず、イオスは間抜けな声を上げた。

「何って……召喚獣、でしょう? 名も無き世界の」

 それ以外の何だというのだ。
 上司が言わんとしていることの趣旨が読めず、イオスが顔をしかめる。
 そんな部下の紅い瞳をまっすぐに見つめて、ルヴァイドは言った。

「そうだ、召喚獣だ。
――けれどあの娘は……生まれた世界は違えど、我々と同じ人間だぞ。
心や意思を持たぬ存在では、ない」


 ――お前は、あの娘をまるで考えることの無い「物」か何かのように見ていないか?――


 強く言い放たれたその言葉に、イオスは一瞬言葉を失った。

「そ……そんなつもりは……。僕はただ、あの娘の今後を思って!
彼女をこの世界に順応させることは呼んでしまった僕が責任を持って成すべきことです。
召喚獣は皆、リィンバウムをごく自然に受け入れることが出来る筈なんです……彼女にとっても、その方が絶対に幸せなはずだから、だから」
「何故幸せだと言い切れる?」
「――それは! 書物にもあったように……リィンバウムは、異界の者達にとって楽園にも等しく、だからこちらに来ることを望んでいて」
「……その書物は、誰が書いたものだ」

 はっと、イオスは目を見開いた。 

(誰が、書いたもの、だって?)

 そんなこと。考えたことも、なかった。

 戸惑いつつも、イオスは上官の言葉を胸の内で反芻してみた。

 ――召喚術のなんたるかを解いた書物。書いたのは。考えをしたためたのは。そういえば、どこの世界の人間だろうか。


 その答えを導き出した瞬間。イオスは思わず息を詰まらせた。

(――!)

 ルヴァイドの言葉が、頭の中で何度も何度も覚醒を促す鐘の音のように響き渡る。

「……っ、あ……!」

 ――なにか、とても。
 自分がずっと思いもよらなかった、考えようともしなかった何かに、今この瞬間気付いてしまった気が――した。

 
 ――その書物は、誰が書いたもの――


 召喚術を扱うようになって、心得として手に取ったその書物。
 それだけではない。娘を誤って召喚してしまってからというもの、彼女の世界のことや、こういった事故について何か説いている文章はないかとデグレア城の書庫に潜り、寝る間も惜しんであれこれ読みあさった召喚術に関する文献。

 呼んでしまった彼女を理解しようと思った。難解な文面を頭に叩き込んで、それで、召喚獣の何たるかを理解したつもりでいた。

 ――けれど。それらは、すべて――……。


「リィンバウムの人間が書いたもの……です……」

 愕然としたようにあらぬ方向を見つめてイオスが呟く。
 ルヴァイドはゆっくりと頷き、それから椅子の背もたれに身体を預け天井を仰いだ。

「――俺は、召喚術はあまり得手ではないからわからんのだが……。
あれは確かに便利だがな、いきなり異世界に呼ばれて誓約という命令に縛られて……彼らは本当はどう思っているのだろうと、時折、疑問に感じることがある」
「……ルヴァイド様」
「我々は、当たり前のように異世界の者を呼ぶ。その行為をを否定する文献はどこにもない。
けれど、呼ばれる彼らの本当の気持ちは――当人に聞かねばわからないだろう?」

 ここに来る一瞬前まで、元の世界で彼らは確かに生きて、己の人生を歩んでいたのだから。
 家族だっているかもしれない。やりのこしたことがあるかもしれない。

 ――召喚獣だって、リィンバウムの人間と同じように、心持つ「生きもの」だ。


 だから、リィンバウムに呼ばれることが幸せだなんて決め付けることは――出来ない、筈だ。


「……あ……」

 静かな口調で、呟くように……そして諭すように紡がれた上司の言葉のひとつひとつが、イオスの胸に大きな塊となって、波紋を広げながら深く、深く沈殿していく。

 召喚獣の思いだなんて、考えたことも無かった。
 けれど確かに……彼らは元の世界で生きて、日々を送っていたのだから。

 自分達と変わらぬ日常を、彼らも持っていたとしたら。
 だとしたら、リィンバウムに呼ぶことは、そんな彼らの人生を全て、奪ってしまうことになる。

 ――突然の異世界。何もかもが覆され戻らず、変わる世界。

 ……彼らが、それを望まないとしたら?


 そんなこと、考えたことも無かったけれど。
 望んでいないのに、いきなり、呼ばれたとしたら。だとしたら、それは


 ――あまりに理不尽なことでは、ないのか?


「ある日突然、望まぬ形でそれまでの日常から切り離される……。
お前にもそれは、覚えがあることではないのか?」

 イオスははじかれたようにルヴァイドの顔を見る。
 彼は、ただまっすぐにこちらを見つめていた。
 あまりのことに、イオスは、動けなくなる。


 ――ある日、突然。


 イオスの脳裏に、このデグレアに捕虜として連行された遠い日のことが鮮明によみがえった。
 祖国に帰る手段を断たれ、敵国にひとり放り込まれたあの日。
 血で赤く染まる映像。思い出す。心臓が、どくん、どくんと痛いほどに脈打つ。

 ――あの日負っていた傷は、もっともっと痛かった。
 そして、その傷をこの身体に刻んだのは。自分をただひとり生かし、ここに連れてきたのは。今ここにいる――……。

 ルヴァイドの吸い込まれそうに深い暗茶色の瞳と目が合う。


 突然降りかかった運命。理不尽なさだめ。望んでいなかった未来。

 それを選べと言われたあの時、自分は、確かに――。


「恨まなかったか?
――理不尽な運命に放り込んだ相手と、この世界のすべてを」


「――ッ!」


 口の中がからからに乾いた。きつく握り締めた拳が、震えた。


 ――自分がしたのと、同じ、思いを。

 ――自分は、あの娘に?




「――む――娘の所に、行ってきます!」


 立ち上がったイオスの腰掛けていた椅子が、音を立てて倒れた。




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