ことの起こりは召喚訓練だった。


 ここデグレアは、聖王国にある蒼の派閥や港町ファナンにある金の派閥などのように、召喚術を専門に扱う公的機関を持たない。召喚術は、軍事関係者の中でも素質がある者にのみ戦闘訓練の一環としてひそやかに伝えられているものだ。
 特務隊隊長・イオスも、そんな「素質ある者」のうちのひとりだった。自力で誓約を行うまでには及ばないが、すでに誓約のなされた石でならそこそこのレベルの召喚獣を呼び出すことが出来る。

 軍人として、術が使えるにこしたことはない。

 それなりの訓練を積んでいたイオスは、召喚師の勧めにより、その日初めて無色透明のサモナイト石を手に取った。
 色の無いその石に誓約されているのは、リィンバウムを取り巻く四界のどれでもない、出所の不確かな……「名も無き世界」と呼ばれる場所から導かれる、地上に落ちた星のかけらだとも伝えられている岩石。「ロックマテリアル」と名付けられているそれは岩をぶつける攻撃の術としてごく初歩的なものだ。
 緑の石で誓約する幻獣界・メイトルパの術に適性を持ち、それ専門に訓練をしていたイオスだったが、このロックマテリアルも扱えれば相当に便利な術である。

 大丈夫だろうと思った。現に、その術で失敗した者はこれまで誰もいなかった。


 ――けれど。彼が呪文を唱えた瞬間、術は暴走した。


 サモナイト石から吹き荒れる真っ白な光。轟音と、煙。


 視界を奪うそれらの嵐がようやく収まった後――石造りの訓練場に現れたのは、物語らぬ岩石ではなく。
 頼りなげに華奢な身体をもつ、生きた、人間だった。


 ――予定に無い存在を呼んでしまうこと。それを、事故、と、いう。


 デグレアでは、まだ前例は無かったが……召喚術を扱う上でのこの手の事故は、程度の差こそあれ実はそう珍しいものでもないらしい。
 ただひとつ問題なのは、事故で呼ばれた者は本来異界のものを呼び出す前に行う、異世界とこのリィンバウムとを結ぶ道を作る「誓約」という作業なしで呼ばれてしまうため、帰り道をもたないということだった。
 普通の、誓約された召喚獣達のように。元いた世界に戻ることが、出来ない。戻すことが、出来ない。



 ――事故で呼ばれた者は、元の世界を捨て、このリィンバウムで暮らしていくしかないのだった。





***





 全てを正直に説明し。イオスは、すまない、と異界の娘に頭を下げた。

 もちろん、この世界における彼女の一生に責任を持つ。何不自由なく生活できるよう配慮する。望みがあったら何でも遠慮なく言ってくれていい。
 自分の失敗に巻き込み、突然呼んでしまって心から申し訳ないと思っていたイオスは、そう娘に謝った。

「――このリィンバウムも、そう悪いところではない。
だからどうか、早く、この世界に馴染んで欲しい……」

 彼にとっては、これが誠心誠意の謝罪のつもりだった。

 ――娘はリィンバウムを受け入れられると、彼は信じて疑わなかった。

 実際、いつも彼が呼び出す幻獣界・メイトルパの召喚獣は、イオスが請うままに力を振るった後、必ず彼ににこりと笑ってメイトルパへと戻っていったから。だから、召喚獣にとってリィンバウムは良き世界なのだと……呼ばれることはそう嫌なことではないのだと。これが、彼の召喚獣に対する見解だった。

 だから、どこの世界からきたのかわからない――「名も無き世界」の召喚獣であるこの娘も、きっと同じだろうと。イオスはそう、思っていたのだ。



 ――ずっと、イオスの長い説明と謝罪をただ黙って聞いていた娘は。彼が話すべきことをすべて話し、彼女の返事を待つため口をつぐんだことにより降りた沈黙をたっぷりと引き伸ばしてから……ふいに、感情のこもらない声でぽつりとこう言った。


「……何を言っているの、アナタ。
――何これ。何の遊び?」


 ――召喚?

 ――異世界?


「……うそでしょう?」


 娘の黒い瞳に、頭を下げるイオスの姿が映る。


 ……この目の前の青年は何だろう。
 金の髪。紅玉の瞳。
 存在し得ない、その色彩。


 ――異世界?


「……うそでしょう?」


 ――ありえない。



 彼女は、リィンバウムという世界を知らなかった。
 召喚術という存在も知らなかった。

 ――何も。知らなかったのだ。


「……ねえ。……うそでしょう?」

 娘は、ただそう、繰り返す。
 イオスは、感情の一切浮かばぬ娘のその能面のように白い顔に、一瞬ぞくりと背筋を凍らせた。

 ――この娘は、何故、こんな表情をするのだろう。

 もう一度、イオスは目の前に立つ異界の娘を凝視する。


 自分が知っている、「召喚獣」と。
 何かが、違った。


 唖然としているイオスの顔を、ただただ不思議そうに見つめた後。
 娘は突然、ああ、とひどく納得したように笑った。


「――そうか。夢なのね、これ」


 おかしな夢ねと言って、くつくつと笑う。


 異世界なんて。帰れないなんて、そんなの、ありえない。

 ……あの人が待っているのだから。帰れないなんてそんなこと、あるわけがない。
 あってはならないのだ。


 これは、夢だ。

 なんておかしな夢だろう。


 娘は静かに笑い続けた。



 ――彼女は、リィンバウムを受け入れなかった。




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