call my name
「ごめん、俺……」
「いいんです、あの、迷惑かけてすみませんでした!」

 ぺこり、と頭を下げて私はそこから駆け出した。

 夕日でオレンジ色に染まる廊下を、必死で走った。
 チャイムの音が、どこか遠くの世界で鳴っているかのように、はっきり聞こえない……。



 ――「ごめん」


 ずっと好きだった先輩に告白して、たった今、私はふられた。

 ……わかっていた。
 無理なんだってわかっていたけど、でも、心のどこかで期待していたんだ。
 もしかしたら……って。もしかしたら、この恋が叶うかもしれないって。
 彼が自分のことを、求めてくれているかもしれないって……。

 ――バカだ。
 私はバカ。

 私を必要としてくれる人なんて、いるわけないのに。

 私はやっぱり、ひとりぼっちで。



 イヤだ。
 もうイヤだ。
 こんな世界―――……!



「え……!?」

 ズル、と背筋に嫌な感覚が走る。
 夢中で走っていて、階段に気が付かなかった。
 踏み外した足を追うように身体を包む、浮遊感。

 ――落ちる……!!



「や……きゃあぁぁぁっ!!」



 身体が宙に投げ出される。
 もう駄目だと、ぎゅっと目をつぶって。
 つぶって……。

 けれど、予想していた痛みが来る前に、突然視界が真っ白に染まった。


 ――何が起こったのかわからないまま飛び込んだ光の世界の中、誰かの声が聞こえた。


  たった今拒絶されたばかりの私を、その声は求めてくれている気がして。



 薄れゆく意識の中、私はその声に、――応えてもいいと、そう思った――……。
第1夜 異世界
 ――ドスン!

 身体中に響いた衝撃に、少女の意識が覚醒した。

「い、いった……」

 目が覚めた瞬間に彼女を襲ったのは全身のしびれ。まるで自分のものではないかのように身体が動かない。感覚を取り戻すまでにずいぶん長い時間がかかった。

 一体何が起こったというのだろう。

 霞がかかった思考が元に戻るにつれ、記憶が蘇る。
 ようやく状況を思い出し、少女はああ、と嘆息した。

 ――そうだ。自分は学校の階段から落ちたのだ。

「あいたたたたた……」

 頭をさすりながら身体を起こす。
 手は動く、足も。
 起き上がれるということは腰も大丈夫なのだろう。
 思いっきり落ちたのに、捻挫ひとつしないなんて我ながら丈夫だなあとそんなことを思いながら、少女――は、打ったせいなのかだるい頭をふって目を開けた。


 目を……開けて。


 その先に広がっていた光景に、は驚愕のあまり両の瞳を大きく見開いた。


 赤と橙の波がゆらゆらと揺れている。
 頬にかかる風が、ありえないくらい熱い。

 ――炎。
 そこは、あたり一面火の海だった。


「や、やだ、何……火事!?」

 あまりのことに呆然としたまましばし身動きひとつとれなくなっていたは、降りかかる火の粉の熱さにはっと現実へ引き戻された。
 さっきまでなんともなかったのに、いつの間にこんなことに……!
 非常ベルも何も聞こえなかった。やはり落ちたときに気を失っていたのだろうか。

「に、逃げなきゃ…」

 このままでは炎に囲まれてしまう。
 焼死なんてしたくなかった。

 とにかく一刻も早くここから逃げなければと、は慌てて立ち上がった。
 炎におののいて震えそうになる足を叱咤して、必死で一歩を踏み出す。

 ―――けれど。


「きゃ!」

 駆け出そうとしたの目の前に、ドサリ、と何かが倒れこんできた。

「な、なに……?」

 炎で柱でも崩れたのだろうかと、おそるおそる足元をみる。
 まるでの行く手を阻むかのように横たわるそれが何なのか認識した瞬間、少女は盛大に悲鳴を上げた。

「きっ……きゃああぁぁああああああっっ!」

 ―――突然の足元に倒れてきたもの。それは、人だった。
 目を見開いたまま、胸元を切り裂かれこと切れている、人間の――死体。


 ぬるり……。

 スニーカーの裏に、紅い液体がしみこんでいくのが、わかった。


「ひ……!」


 ――なんで!?
 ――なんで!?
 ――なんで!?


(し、死体……!)

 吐きそうになる口元をきつくきつく押さえて後ずさる。
 一歩、二歩と下がった時、ドン! と何かにぶつかった。


「おい……!」


 誰かに肩をつかまれる。

 漂ってくる、血のにおい……!


 ――ころされる。
 本能が耳元でそう囁いた。


「おい、お前……!」

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 ―――ただ、叫んだ。


 怖い。
 怖い。
 死にたくない……!

 の頭の中で、混乱と恐怖が入り混じった何かがはじけて。


 ――そのまま視界が暗転した。






◆◆◆






 誰かが頭をなでてくれている。
 優しく……気遣うように。

 ……そうか。きっと、自分がうなされていたから、心配してくれているのだ。
 酷い夢だった。早く起きたい。

 目が覚めたら、またいつも通りの日常が始まる筈。
 そう思いながら、はゆっくりと両のまぶたを開けた。

「ん……」
「気が付いたのか!?」
「きゃっ……!」

 突然耳元で聞こえた声に少女は驚いて身を起こす。

「あ、驚かせてしまったか? すまない……」


 ――え?


(男のひとの、声……?)

 聞き慣れないそれに戸惑いながらが顔を上げる。すると、目の前には申し訳なさそうにこちらを伺っている一人の青年がいた。

 見たこともない金の髪。
 白い肌。
 光の加減で赤が垣間見える、不思議な紫の瞳。
 それは、青年とはいえまさに「人形のような」と例えたくなる美しい容姿で。

 一瞬、状況も忘れては目の前の綺麗な青年に目を奪われた。



 ――しかし、その青年からわずかに漂ってくる匂いが、彼女を現実へと引き戻した。


「いっ、いやぁぁぁぁぁぁ!」
「おい、お前……」
「こないでぇっ!」

 大声で叫んで、は転げ落ちるようにベッドから飛び出す。
 けれど、逃げようと必死になる思いとは裏腹に、恐怖のあまり足がもつれてしゃがみこんだまま動けない。

「おい、落ち着け……」
「いやぁっ!」

 伸ばされた手を振り払うとは顔を覆った。


 ――この匂い。
 ――さっきの、あの、血の匂い……!



「殺さないで、ころさないでぇっ……!」


(怖い、怖い、死にたくない……!)


 さっきまで見えていた光景がフラッシュバックする。
 ぬるりとした血の感触。
 あの、匂い。


 ――なんで!?
 ――夢じゃ、なかったの!?
 ――それとも、まだ、夢なの……!?


 本能が告げる恐怖のままに、はただガタガタと全身を震わせた。
 怖い、怖い。何も見たくない、聞きたくない。
 学校にいたはずなのに、どうしてこんなことになっているのだろう。

(怖い……!)


  だれか、たすけて……!




「―――落ち着くんだ!」

 いきなり顔を覆っていた両手をつかまれ怒鳴られて、はびくん、と肩を震わせて顔を上げた。
 驚きのあまり見開いた目の前いっぱいに、金の髪の青年の顔が広がっている。

「殺したりしない!」

  の瞳をまっすぐに見つめて、青年はそう叫んだ。

(……ころさ……ない?)

 真剣な表情で告げられた言葉が、混乱のあまり滅茶苦茶にかき乱されていたの頭の中にゆるゆると染み込んでいった。

「……ころさ……ない?」

 固まったまま、それでも小さな声で自分の言葉を反芻する少女に、青年はそうだ、と頷いてみせた。

「何もしない……何もしないから」

 そう言うと、青年はを戒めていた手を離し……そっと頭をなでた。

「大丈夫……怖くないから。
だから、怯えないでくれ……」


 慈しむように髪を梳く大きな手のひら。
 涙の滲む瞳で、は青年の顔を見つめた。

 ――この……手。
 さっき、 頭をなでてくれていた……優しい、手。



「大丈夫だから……な?」

 あやすように頭をなでながら大丈夫、と繰り返す青年に、……かなりの時を置いて、はこくん、と頷いて見せた。



 漂う血の匂いは消えないけれど。

 ――何故だろう。


 この手を、この声を、信じていい気がした。



 頭に触れる、見知らぬ青年の手のひら。
 それは、が生まれて初めて感じた――優しい、やさしい手のひらだった。