call my name
 ひんやりとした川の水で顔を洗う。

 あまり寝起きがよろしい方ではない彼女は、いつもこの場所に来るまでは微妙に不機嫌なのだけれど。こうやって冷たい水で顔を洗うと一気に思考が晴れる。
 朝の空気と共に感じるこの爽快感が、のちょっとしたお気に入りだった。

 顔を拭いて、持ってきた手鏡を覗き込む。
 映るのは、いつも通りの自分の顔。

 ……とまどったあの日から何日かたって。ようやく気分も落ち着いてきた。
 いつも通りの日常に、戻ったのだ。余計なことを考えなければ良いだけ。

 ――よし、だいじょうぶ。

 自分にそう言い聞かせて。は駆け足で野営地へと戻った。
第9夜 氷の微笑
「あ、おはようございます、イオスさん」

 いつものように朝食の仕度をしようと向かった調理場で、は金髪の青年に出くわした。
 ……もう、顔を赤らめることも無く、普通に挨拶が出来る。

 それにしても。イオスが朝から調理場にいるなど珍しい。

「どうしたんですか? こんなところで……」

 不思議そうに首をかしげる
 そんな彼女のもとに、イオスが何やら慌てた様子で駆け寄ってきた。

「――。今日は朝食の仕度、しなくていいから」

 そう言うや否や、イオスはの手首をつかんで調理場の外へとひっぱり出す。
 ええっ、と驚いたが目をまるくした。

「しなくていいって……ご、ご飯は……!?」
「今日は携帯食料で適当に済ます。ああ、昼食の仕度もしなくていい」

  をひっぱったまま、イオスが早足で歩く。
 そのままイオスはを彼女のテントまで連れてくると、少女の身体をぐいと中へ押し込んだ。
 いきなりテントに押し込まれて、は思わずつんのめりそうになる。
 なんとかバランスをとって体勢を立て直してから、慌てて入り口にいるイオスの方を振り返った。

「ど、どうしてですかっ!?」

 一体何が、と言いかけて。しかし、その言葉はイオスの声によって遮られた。


――今日1日……僕がいいと言うまで、絶対にここから出るな」

「え……っ?」

 突然の「命令」に、が黒い瞳を瞬いた。

 イオスの声も表情も、どこかいつもとは違う。まるで、緊張して強張っているような……。

「……なにか、あるんですか……?」

 怪訝そうに問うに、イオスが眉をひそめて頷いた。

「――本国から、召喚師が……来るんだ。
君のことは、本国にはまだ報告していない。だから、おそらく見つかったらまずいことになる」

 任務を失敗しているという後ろめたさから、イオスもルヴァイドも、旅団に加わったこの少女のことを国に報告し損ねていた。いずれ、任務が一段落して自分たちへの風当たりがよくなった時にでもと、そう思っていたのだが……。
 こんな突然、しかもよりによってあの男が来るなんて。

 ――あの、顧問召喚師に見つかったら。

 イオスは、ぞくりと背筋を震わせた。






◆◆◆





「……来るなら来るで、事前に連絡がほしいものだがな、顧問召喚師殿」
「おや。ちゃんと今朝方通知をしたではないですか。伺いますよ、と」

 総司令官のテントの中。剣呑な瞳で言い放たれたルヴァイドの言葉を、崖城都市デグレア顧問召喚師――レイムは笑顔を崩さぬままにさらりと流した。

「それとも、突然来られては何か不都合なことでもあるのですか?」

 にこやかに告げられたレイムの言葉に、ルヴァイドは一瞬ぎろりと目の前の男に視線を走らせたが、相手にしても仕方がないと思ったのかそれ以上口を開くことはなかった。

「まぁ、聖女一行の動向はわかりました。
ファナンに逃げ込んだということで、どうやら金の派閥も警戒を強めているようです。
しばらくは、監視のみ続けて指示を待てというのが、元老院議会からのことづてですよ」

 詳しくはここに、と言って差し出された書簡をルヴァイドは黙って受け取った。


「……用件は済んだか、レイム。
だったらさっさと帰れ。いつまでもお前の相手をしてるほど、こっちも暇じゃないんだ」

 それまで黙ってルヴァイドの隣の席に座っていたイオスが、レイムにうんざりとした表情を向けた。

 イオスにとって、ルヴァイドを顎で使うこの顧問召喚師は敵も同然だ。元老院議会から絶対の信頼と権力を与えられている、自分達に伝令を下す使者とはいえ、出来るだけ関わりたくないし、顔も見たくない。
 ――のこともあるし、一刻も早くお帰り願いたかった。

 しかし、イオスの言葉にレイムはすっと瞳を細めた。

「おやおや。冷たいですねぇ特務隊隊長さん?
でも残念ながら、もうひとつ大事な用事があるのですよ」

 そう言うと、レイムはにっこりと笑顔を浮かべてルヴァイドとイオスの顔を交互に見やった。

「……何だ。用があるならはっきり言わないか」

 どこか思わせぶりなレイムの態度に、ルヴァイドが少し苛ただし気な声を出す。
 イオスは、相変わらずレイムを睨んだままだ。
 二人の態度に、レイムはやれやれと肩をすくめた。

「まったく……そちらから申告するのを待っていたんですけど。
どうやら言う気は無いようですねぇ?」

 レイムの言葉に、イオスがぴくりと眉を上げた。

「何の、話だ」

 知らず、答える声が低くなる。

 ……嫌な、予感がした。

「軍内に新しい人物を迎え入れるなら、きちんと報告していただくてはねぇ?」
「……っ、貴様……!?」

 イオスが座っていた椅子から音を立てて立ち上がった。
 ルヴァイドも、困惑したようにその眉根を寄せている。
 そんな彼等の様子を面白そうに眺めて……レイムが言った。

「名も無き異世界の小鳥が一羽、迷い込んでいるでしょう?

――召喚師である私が、新たな魔力の気配に気付かないとでも思ったのですか?」

 イオスが、愕然とした表情でレイムを凝視している。
 顧問召喚師は、楽しそうにその口許を上げた。







◆◆◆






 心底不機嫌そうに顔をゆがめたイオスに連れられて来られたのは、ルヴァイドのテント前。
 そこに佇む初対面の男に、はぺこりと頭を下げた。

「あの……、といいます。初めまして」
さん、とおっしゃるのですね。私はレイム、デグレアの顧問召喚師です。
お呼びだてして申し訳ありませんでしたね」

  に合わせたのか、レイムも自己紹介の後軽く会釈する。
 顔を上げると、は改めて目の前の召喚師――レイムの様子を窺った。

 軍人とは思えないような、不可思議な文様の入った薄物の服。にこにこと微笑をたやさないその様子を見る限りでは、とてもイオス達が警戒するような人物には思えないのだが……。
 しかし、横にいるルヴァイドやイオスは苦虫を噛み潰したかのような表情で自分とレイムの様子を眺めている。

 どうしたものかとイオスに視線を移すと、目が合ったイオスはまるでを庇うかのように彼女の前へと進み出た。
 そのままキっとレイムを睨む。

「……彼女が、さっき説明した……僕が『事故』で召喚してしまった少女だ。
事故とはいえ、喚んでしまった僕に責任があるから、こうして旅団に置いている」
「――それと、この娘は召喚術が使える。ここには召喚師が不足しているからな、それ相応の働きをしてもらっているぞ」

 イオスの言葉を補うようにルヴァイドが口をひらいた。
 二人の説明に、レイムがふむ、と何かを思案するように顎に手を添えた。

「事情はわかりました。
しかしですね……この重要任務の最中に、いくら召喚されてきたとはいえ、軍人でもない部外者が旅団にいるというのは……元老院には何て報告したらよいのでしょうかねぇ……」

 レイムの言葉に、イオスがはっと顔を上げた。

「それは……か、彼女はいわば僕の『召喚獣』だ。召喚獣が召喚主と行動を共にするのは別に問題ないだろう!?」
「しかし、さんは貴方の護衛獣というわけではないのでしょう?
さほど戦闘能力があるわけでもない召喚獣が同行しているというのもね……」

 困りましたねえ、と言うレイムに、何も言い返せないイオスがギリっと唇を噛み締めた。

 ――本国に報告されたら……いや、ここで引き下がったら、おそらくレイムはこのままをデグレアへと連行するだろう。彼女をここに置いている時点で、自分がに情が移っていることをこの顧問召喚師は見抜いている。
 彼女を人質に、何を要求してくるかわかったものではない。これ以上、旅団がレイムに……元老院議会に逆らえなくなる理由を与えるわけにはいかなかった。

 それに、大事な少女をこんな油断ならない男に渡すわけにはいかない。一体何をされるか、考えただけでも虫唾が走る。



 何とかしなくては、とイオスが必死で考えをめぐらせていると、ふいにイオスの背に庇われていた
が前へと進み出た。
 ぎゅっとスカートの裾を握り締めて、レイムの方へと顔を向ける。

「……あの……レイム、さん。
私、旅団に置いてもらわないと、他に行くところが無いんです。
色々な雑用もしますし、お役に立てるように召喚術もきちんと勉強します。
だから、なんとかここにいる許可をもらえないでしょうか……?」

 ……にとって、これはとてつもない大問題だ。
 まさかこんな形で、自分が旅団にいられなくなるかもしれないなんて夢にも思わなかった。突然ふってわいた話に内心不安で気がおかしくなりそうだったが、今は取り乱している場合ではない。
 ――もしここにいられなくなってしまったら、自分は何も知らないリィンバウムをひとり彷徨うことになる。 それだけは、避けなければ。

 なんとか許しを得ようと、は懇願するようにレイムへと視線を合わせた。


「……わかりました、さん」

 しばらく考え込んでいたレイムは、必死に自分を見つめる少女の肩にポン、と手を置いた。
 向けられた笑顔にが目を瞬く。

「レイムさん……?」
「貴女のお気持ちはよくわかりました。
しかしですね……やはり、ただこのまま何もなしに、あなたがここにいるのを認めるというわけにはいかないのですよ」

 レイムの言葉に、が思わず泣き出しそうに顔をゆがめた。
 その様子にレイムが小さく笑う。

「ああ、大丈夫ですよ……泣かないで下さい。
ですから、貴女がここにいられるように、私がひとつ試験をしてさしあげようかと思いまして、ね」
「どういうことだ、レイム!?」

 思いがけない顧問召喚師の言葉に、イオスが声を荒げた。
 それを無視して、レイムはルヴァイドへと視線を移す。
「ルヴァイド。
先程……さんは召喚術を使えるといいましたね?」
「……ああ。その通りだが……」

 解せないといった風に表情を曇らせたまま、とりあえずルヴァイドは頷いた。
 その答えを確認すると、レイムは再びへと向き直った。

「では、さん。今からちょっと貴女の力をみせてもらいましょうか」
「え……?」

 怪訝そうに眉をひそめるに、レイムはにっこりと笑いかけた。

「デグレア軍の中でも精鋭部隊である黒の旅団は、本来入団時に厳しいテストがあるのですよ。
まさか貴女に他の団員と同じレベルは要求しませんが……それでも、ある程度の試験をした上でなら、貴女の同行を議会に認めさせる口実にもなります。
ですから……さん。今から貴女の召喚師としての力をテストさせて頂きます。
合格できたら、あなたを黒の旅団員として認めましょう」

 いかがです? と問い掛けられて。は嬉しそうに顔を輝かせて頷いた。

「は、はいっ。お願いします!」

 目の前の少女の反応に、レイムは何やら満足げにその笑みを深めた。