call my name
「イ……イオスさん! もう走れな……っ!」
「――あ。す、すまない」


 広間を飛び出し階段を駆け下りたふたり。しかし、中庭に辿り着いたところでとうとう息の上がったが限界を告げる悲鳴をあげた。そこでイオスもはっと我に返る。

 夢中で走るうち、いつの間にかこんな所まで来てしまっていた。

 人気も無い静かな夜の庭園。いくらなんでももういいだろうと思ったイオスは、苦しそうに肩で息をする少女を近くのベンチに座らせると自分もドサリとその横に腰を落とす。はあっ、と大きく息をついて汗ばんだ額にはりつく前髪をかきあげた。

 ――背中に刺さったお嬢様方の悲鳴はずいぶん大きかった気がする。とんでもなく目立ってしまった自分達の行動に、広間に残された上官はさぞかし頭を抱えていることだろう。

 さて、どうフォローをしたものかと苦悩するイオスの横で、ようやく呼吸が落ち着いたは何を思ったかいきなりクスクスと笑い出した。

「……?」

 怪訝そうに眉を寄せるイオスをよそに、少女は笑う。
 ひとしきり肩を震わせた後、はまるでいたずらが成功した後の子供のような目をしてイオスを見上げた。

「あのね。
……逃げるの、ちょっと、楽しかった」

 とんでもなくずれたことを言っている自覚はあった。も広間を飛び出したときは驚きのあまりただパニックに陥っていたのだが、けれどイオスに手を引かれるままに城の階段を駆け下りるうち、何だか妙に楽しくなってしまったのだ。
 ――いつか何かの小説で読んだ、手の届かない存在のはずだった憧れの王子様に手を取られ駆け落ちする下働きの娘のような……そんな、たまらなくいい気分だった。
 まるで世界を手に入れたかのような気持ち良さ。笑いが止まらない。


 笑いながら告げられた言葉にイオスは何度も目を瞬かせて。ややあって、彼は脱力したようにベンチの背もたれに身体を預け夜空を仰いだ。

「まあったく……随分余裕だな。
こっちはまるで城からお姫様を誘拐した盗賊の気分だっていうのに」

 大広間からの逃避行。あんなことをしでかした僕は盗賊も盗賊、大盗賊だよと言ってイオスは大げさにため息をつく。
 自分に向けられた予想外の例えに、の頬が染まった。

「お、お姫様って……」
「……お姫様だろう?今日は」

 少女に向き直り、イオスは改めて彼女の頭のてっぺんからつま先まで、まるで目に焼き付けようとするかのようにゆっくりと視線を動かす。それから再び赤くなっていると顔を合わせ、にっこり微笑んだ。

「――驚いたよ。
すごく、綺麗で」
「――っ!?」

 そういう顔をするだろうな、と彼が予想したとおり、は囁かれた言葉に驚き一瞬にして火でもふきそうなくらい耳まで真っ赤になる。 必死に首を横に振り、そんなことないですなどと蚊の鳴くような声で否定する彼女に、イオスはもう一度綺麗だよと繰り返した。恥ずかしくて恥ずかしくて、は泣きそうな顔になる。

 ――この異世界の少女は、どうにも「褒められる」ことに弱い。もともと赤面症のきらいはあるようだが、それにしても褒め言葉を素直に受け取らないのだ。行動に関しても容姿に関しても、そんな筈はないと決め付けてただ首を横に振ってしまう。
 いつか、の口から「こんな風に真っ直ぐ褒められた経験があまりないから恥ずかしい」という、彼女なりの褒め言葉が苦手な理由なるものを聞いたこともあったのだが……。
 綺麗なものは綺麗、可愛いものは可愛い。大切な相手だからこそそういう言葉はきちんと口にしたいと考えるイオスとしては、彼女の世界の人間は一体何をやっていたんだとつくづく呆れてしまう。

 もっと自信をつけさせてやりたくて。困ったように顔を赤らめる様子を見るたび愛しさがこみ上げて。いくらでも褒めてやりたくなるのだ。


 好きな人に褒められて嬉しいという単純な喜びとどうしようもない恥ずかしさとが交錯する中、は再びふるふると首を振った。

「そ……そんなこと、ないですっ……。
――イオスさん。イオスさんこそ、格好良くて王子様みたいだって、みんな大騒ぎして……!」
「ふぅん? オウジサマ、ねえ……。
じゃあ、ちょうどいいじゃないか。王子様とお姫様で、お似合いで」
「なっ……!」

 ――どうして彼は、こういう言葉を簡単に口にするのだろう。
 その言葉がどれだけこちらの心臓を飛び跳ねさせているか、知らないくせに。何だか悔しくて、は唇を噛んだ。

「だからっ……! もう、そうやってからかわないで下さっ……!」
「だから、はこっちの台詞だ。
からかってなんかいないのに、酷いな」

 少女の言葉に苦笑しながら、イオスはの頬へと手を伸ばす。
 背けている顔をくいとこちらに向かせて。彼は、驚き目を丸くする少女をまっすぐに見つめた。


 ――うっすらとひかれている紅も。白いうなじにこぼれる後れ毛も。細い肢体を包む色鮮やかなドレスも。

 彼女のこんな姿は、初めて――。


「化粧してるのだって、こういう髪型だって。初めて見たんだぞ?
よく似合ってて、本当に綺麗で。まるでどこかのお姫様みたいだなあって思ったから、ただ正直にそう言っているだけなのに……。
何――君は、僕の言葉を、信じてくれないの?」

「……っ……!」

 ――ずるい。ずるすぎる、とは心の中で叫んだ。
 こんな真摯な瞳でまっすぐ見つめられてそんなことを言われたら、もう何も言い返せないではないか。
 触れられた頬に意識が集中してしまう。身じろぎすら出来ない。

 イオスの紫の瞳が、どうなんだ? と再び問いかけてくる。

「……?」
「……」
「信じられない? 僕に褒められるの、嬉しくない?」
「……」


 ――ずるい。ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい。ずるすぎる。


「……? 答えは?」
「――う……嬉しい、です……」

 そう。嬉しくないわけがないのだ。好きな人に褒められて嬉しくない人間なんて、いない。
 けれど、地味で何の取り柄も無いような自分をこんな風に褒めてくれる人は元の世界にはいなかったし、 それに――イオスがあまりにもさらりとそういう言葉を口にするから、簡単に鵜呑みにして浮かれてはいけないと自分に言い聞かせていたのだ。
 きっと、彼にとってそんな言葉は何でもないことなのだと、そう思って。

 でも、今のイオスはの瞳をひどく真剣な眼差しで見つめている。

 あんな瞳をされたら、信じてしまう。嬉しいという本当の気持ちを、言わずにはいられない。



 ようやく素直になった少女の言葉を聞いたイオスは、満足そうに頷いての頬を優しく撫でた。


「――よろしい」


 そう言って、とてもとても嬉しそうに、イオスは笑う。

 向けられたその笑顔はあまりに無邪気で、拍子抜けするくらい可愛くて。

 彼が、こんなことで、こんなにも嬉しそうに笑うものだから。真っ赤になって顔を強張らせていたもつられて笑顔を浮かべてしまう。


 何だかもう、笑わずにはいられなかった。


 ――嬉しかった。







◆◆◆






「――なんか、久しぶりだな」
「え?」

 不意に告げられた思いがけない言葉に、はきょとんと目を瞬く。
 ベンチに深く腰掛け直したイオスは、そっとため息をついた。

「君とこんな風に……笑ったり、しゃべったりするの、さ。久しぶりだなと思って」
「久しぶり……?」

 そう、だろうか。確かにデグレアに来てからは野営生活の頃のように三食を共にするなんて機会はなくなってしまったが……。
 不思議そうな顔をしているに「久しぶりだよ」と言って苦笑しながら、イオスは足元の地面に視線を落とした。


 会話が途切れれば、そこはわずかな虫の囁きしか聞こえない静寂の庭園。
 外灯に照らされるベンチにふたり。他には誰もいない。


「――、さ」

 どこか言いにくそうに、イオスが言葉を区切った。
 視線はやはり足元を見つめたまま。彼女との会話中、彼が無意味に視線をそらすのは珍しい。


「……最近、僕のこと、避けてなかったか?」


「――え……?」

 突然のイオスの言葉に、は驚き息をのんだ。

「な……なんで、そんなこと……?」
「いや……なんとなく、なんだけど」

 そう言って、イオスは気まずそうに己の髪をくしゃくしゃっと掻いた。

 ――イオスにも、これといって確証があるわけではなかった。別に、露骨に会うのを拒まれただとかそういう訳ではなかったのだけれど、でもデグレアに来て以来、どうにも彼女の態度がそれまでと違うように感じられてならなかったのだ。
 どこか、強張っているような。どこか、よそよそしいような。そんな気がして。

 ずっと心にひっかかる違和感をおぼえていた中、今夜は予想外のハプニングがあったとはいえは今までと同じように笑ってくれた。だから、今なら聞けるかと思ったのだ。



「……っ……。
あの、……ええ、と……」

 対するは、ただただ驚いて、言葉を詰まらせた。

 ――図星だったからだ。

 彼のことを好きだと自覚してしまって以来、どうにも落ち着かなくて情緒不安定で。イオスに会うのが怖くて、自分から積極的に会う機会をつくるようなことは避けていた。幸いというべきか、デグレアでのイオスは日々忙しく、会おうと意識しなければまる一日顔を合わせられないなんてこともざらだったので、それを利用してはひとり己の心を整理していたのだ。
 ――結果は……余計恋愛感情にさいなまれるだけで、彼が好きだと思い知らされるだけで、何も解決しなかったけれど。

 それでも、会わない時が二日続くようなことはなかったし、顔を合わせれば何かしら話はしていたので、イオスに「久しぶりだ」などと指摘されるような事態になっているつもりはなかったのだが……。


 まさか、避けているなんて言われるとは夢にも思ってなかったは、沈黙に焦りながら必死に言い訳を探した。

「あ……あのっ……。もちろん、避けていたわけじゃないんですよ?
――ただ……そう、デグレアに来てからね、イオスさんずっと忙しそうだったから、なんか、特別な用もないのに声かけたりするの、悪いかなって思って……それで」


 ――嘘――ではない。


 おっかなびっくりイオスの様子を伺う。俯いていた彼は、の言葉にはっと顔を上げるなり、納得したのか何度も繰り返し頷いた。

「ああ、そういうことか……。
そうだな。確かに、デグレアに戻ってからずっとばたばたしていたからなあ……」

 ――こちらが忙しそうで、声をかけにくかったということか。 言われてみれば、それは確かになんとも彼女らしい行動の理由。
 何か嫌われるようなことでもしただろうかと密かに気に病んでいたイオスは、よかった、と内心深く安堵した。


 ようやく疑問が解決して、イオスは妙に清々しい気分になる。
 気を取り直した彼は改めての方へと向き直った。

「――ごめん。
仕事にかまけて、ずっと君のこと、構ってあげられなかったね」

 ごめんな? と顔を覗き込まれて。謝られるなんて思いもよらなかったは驚きのあまり瞬きも忘れて目を見開く。どきん、と一回大きく心臓が跳ねた。

「い……いえ、そんな……」
「怒ってないか?」
「そっ、そんなことないです全然ないです!」


 ――何だろう。この会話は。


 どきん、どきんと早鐘を打つ胸の鼓動が痛い。再び頬が熱くなる。

 構ってあげられなくてごめんね、なんて。そんな。

 ……こんなの、まるで。


 ――まるで、恋人同士の会話ではないか。




 浮つきかける心を慌てて叱咤する。
 火照る頭を冷まそうと、頬に手を当てひとり首を振る少女の横で、イオスはさらにとんでもないことを口にした。

「――よし、決めた。
、明日は一緒にどこか遊びに行くか」
「は――えええっ!?」

 ――今――彼は何と言った?

 たまらず素っ頓狂な声を出すをよそに、自分の思いつきに満足したイオスは楽しそうに頷いた。

「明日は、戦いの前の特別休暇日なんだ。
本当はもう少し仕事を片付けるつもりでいたんだけれど……何もわざわざ明日にやる必要もないし。
だから、明日は今までの埋め合わせをするよ。
どこでも、君が行きたい所に連れて行ってあげる――どう?」
「いっ……いえ……でっ、でもっ! あのっ! お仕事……!?」
「いいんだ。よく考えたら休みの日に仕事するなんて馬鹿らしい。

それに――君の方が大事だからね」

「――っ……!」


 ――だからどうして、このひとは! こういうことを、さらりと……!


 もうどうしたらいいかわからなくて、体中が熱くて、目が廻りそうで。
 真っ赤になってただ魚のように口をぱくぱくさせているをイオスが笑った。

「――こら、
デートに誘ってるんだから、ちゃんと返事くらいしないか」
「デ……ぇとーーーッ!!??」

 ……叫ぶなという方が、無理だ。
 ――だって。そんな! こんな展開になるとは夢にも思っていなくて!


「……? 答えは?」

 さっき聞いたばかりのような台詞をイオスが再び繰り返す。

 恋する少女に、これを拒めというのは。あまりにあまりに、酷なことで。


 ――自分の方が、大事。
 ――だから明日は、彼の時間をまるまる使って、デート。
 ――しかもその提案は、彼の方から。


 この恋に舞い上がっては駄目だとどれほど言い聞かせても、浮き上がる心を繋ぎとめていた糸は、彼の口から紡がれる信じられないほど幸せな言葉達によっていとも簡単に断ち切られてしまう。


 ――嬉しい。どうしよう。


 嬉しい嬉しいうれしいしあわせねえ夢じゃないよね夢じゃない……!


「い……行きます!
嬉しい、です……!」


 頬を薔薇色に染めて。それはそれは嬉しそうに、幸せそうに。
 は、満面の笑顔で何度も何度も頷いたのだった。







◆◆◆






「――あ。ワルツ……」
「ああ。ここでも聞こえるんだな」

 どこが良いかな、どこに行きたい? と指折り数えていた二人の耳に届く、かすかな調べ。
 大広間での楽団の演奏が遥か下のこんな場所にまで聞こえてきたということは、宴会場ではさぞかし豪華な円舞が繰り広げられているのだろう。夜会はいよいよ盛り上がる時刻だ。

 どんな曲かな? と耳を澄ますの横で、突然イオスがすっと立ち上がる。
 コホン、とどこかわざとらしく咳払いをした彼は、座ったままのの前に右手を差し出した。


「……よろしければ。
もう一曲、お相手いただけますか――お姫様?」


 そう言ったイオスは、驚くに片目などつぶって見せたりして。
 これまた予想外の「お誘い」に、は何度も瞬きをしてイオスを見つめた。


 なんだか、もう。……高鳴る胸の鼓動がとまらない。


 ――今夜は、本当に。世界がどうにかなってしまったのではないかと思わせるくらい、とてつもなく幸せな夜だ。どきどきして、ふわふわして。足が地面についていないような、どうしようもない夢見心地。


 目の前には、密かに想いを寄せる、大好きなひと。
 自分だけに差し伸べられたその手が、嬉しくて嬉しくて。ただもう、嬉しくて。
 今この時だけは、うっとり夢を見たって――それくらい許される、はずだ。



 そうして――恋する王子様からの誘いに、お姫様は。

「――はい……!」

 咲きほころぶあざやかな花のように、最高の笑顔を浮かべて。はイオスの手をとった。




 途切れ途切れながらもわずかに聞こえるメロディは、絢爛たる円舞曲(ワルツ)。
 イオスがふざけて早くまわったりして、そのたびはきゃあ、と声を上げて笑う。

 誰もいない夜の庭園。自分達だけの世界。

 淡い月明かりと外灯が照らし出すふたりの影は、楽しそうにたのしそうに、いつまでも揺れていた。





閑話2 END




※…………ところでその頃、護衛獣は?