部屋は、確かにこの価格帯の宿にしては上質なつくりだった。
窓のカ―テンは落ち着いたモスグリ―ン。やわらかそうな革のソファには生成りのレースカバーをつけたふかふかのクッションが並んでいる。 珍しいことに備え付けのミニキッチンまであり、茶葉とポットが用意されていた。
そして――部屋の一番奥には、ベッド。
「ああ、疲れた。まさかこんなに宿が見つからないなんて思わなかったよ」
そのベッドの上に、荷物を放り出したイオスが勢いよく倒れ込む。
おかみの言う通り、ベッドは彼が横になってもまだじゅうぶんな広さがあった。
そう――人がもうひとり、寄り添えるくらいには。
あえて彼の方を見ないようにして、は抱きかかえていたテテをそっとソファへと下ろす。待ちくたびれた護衛獣はすでに夢の中へと旅立っていた。
幸せそうに寝息をたてるテテに毛布をかけてやると、次にやることがなくなってしまい、は慌てた。
満室のせいもあり、廊下はあんなにも賑やかだったのに、一歩部屋に入ってしまえば外の喧騒は全く届かない。窓辺に置かれた振り子時計の揺れる音が妙に焦燥感をかきたてる。
もう遅い。明日の行程を考えたらベッドに入るべき時間だ。 ――でも。
先に彼が何かを切り出すのが怖くて、は不自然にはしゃぎながら部屋の中を歩きまわった。
「あ、お、お部屋、結構いい感じですね! 探すの大変でしたけどちょっとラッキ―でしたね!
あ、お茶がありますよ、クッキ―も。おかみさんがお料理上手なんでしたっけ? じゃあきっとおかみさんの手作りですねおいしそうですね疲れてる時の甘いものって嬉しいですよね!
せっかくだからお茶淹れましょうか、あ、ミルクティ―の方がいいかな、ミルクないですね、私ちょっと食堂に行ってもらってきま――……」
「――」
いまだかつてない勢いでしゃべり続ける少女をイオスが制する。
きびすを返し、部屋を出ようとした姿勢のまま硬直するの背中を優しい声が引きとめた。
「……おいで」
途方に暮れる、とはこういう瞬間のことを言うのだろう、とは思う。
――声が、優しすぎる。やさしすぎて、彼がどんな顔をしているのかまで簡単にわかってしまうから、それを見たくて、振り向かずにはいられない。
おそるおそるベッドのイオスの様子を窺ってみれば――の予想通り、彼はどこかまぶしそうに目を細め、唇をやわらかな三日月形にして彼女を呼んでいた。
寝転がったまま手を伸ばし、上目遣いに見上げるアメジストの瞳がほんの少しだけ甘えているように見える。
――それは、彼が決して他人の前では見せることのない、だけが知っている「恋人の顔」をしたイオスだった。
「――おいで」
誘う手に、逆らえる訳なんか、なくて。
おっかなびっくりベッドに近づいてくる少女の泣き出しそうな顔を見てイオスが苦笑した。
「そんな世界の終わりみたいな顔しなくても、別にとって食おうって訳じゃ――……いや、あるんだけど」
「え――え?」
とりあえずベッドの端に腰掛けようとしたところでいきなりぐいと引き寄せられ、の視界が反転する。
抵抗する間もなく、少女はイオスに後ろから抱きすくめられるような格好でベッドに押し倒されてしまった。
「ちょっ、イ、イオスさ……!?」
「つかまえた」
じたばたともがく少女を腕の中に閉じこめて、イオスがくつくつと喉を鳴らす。
からかわれているのだとわかって、は精一杯声をとがらせた。
「も、もうっ! ふざけないで下さいっ! はなしてくださ……」
「――嫌だ。 離したら、逃げるだろう?」
はっきりと言い当てられ、は返す言葉を失う。
逆らっても無駄だと悟った彼女は、飛び出しそうに早鐘を打つ心臓を落ち着けようと懸命に深呼吸をくり返した。
なんとか思考回路を取り戻した所で、少女は蚊の鳴くような声で問いかけた。
「……だ……だって。
どうして、いきなり、同じ部屋なんて……びっくりします。
ずっと、別々だった、のに。どうして……」
「ああ。
……だってなあ。最初から同じ部屋に泊まって、何かして、君に怯えられるのも嫌だったし」
「な、なにか、って?」
「――こういうこと」
とんでもないことを鸚鵡返しで問う少女にそっと嘆息したイオスは、とらえた白いうなじに唇を落とす。
熱い吐息を感じ、が声にならない悲鳴をあげた。
顔を上げ、恋人の肌にアルサックの花弁のような所有印が刻まれたのを確認して、イオスは再びをきつく抱きしめる。
「同じ部屋にいて冷静でいられるほど、僕は聖人君子じゃないよ。
別の部屋にいたって君のことが気になって仕方なかったのに――これでも努力して我慢していたんだぞ」
責めるような口調でささやかれ、驚いたが目を見開いた。
同じ宿屋の違う部屋。が安堵と僅かな寂しさを抱えて眠っていたその壁の向こうで、彼は夜毎自分を想っていてくれたのだろうか。
想像もしなかった告白に胸が締め付けられる。けれど、それは決して不快な痛みではなかった。
むしろ、心の底が喜びにうずく。 同時に、身体の奥が熱いような、不思議な感覚にとらわれた。
大きくてあたたかな腕にすっぽりと包まれて、身体中がイオスのぬくもりで満たされてゆく。
耳元で彼の呼吸が聞こえるたびにうなじが熱くなる。くらくらして、手足の先がじんわり痺れて感覚がなくなっていくようだった。
強引に自分を捕えておいて、少しだけ火をつけて。けれどそれから動こうとしないイオスの手が、何故かもどかしくてたまらない。
これ以上息をしたら彼の香りに溺れてどうにかなってしまいそうだった。
せつなくて苦しくて熱くて――この感情を何と言うのだろう。
霞がかかった意識の奥で、ひとつの願いがうまれる。
――触れて、欲しい。
空気を求めてひらかれたの唇がわなないた。
「我慢、なんて、しなくていいです。 わたしは、もう……イオスさんだけのもの、なのに……」
うわごとのように紡がれた言葉。耳に飛び込んできた己の声に、ははっと我に返る。
一瞬前の自分の思考が信じられない。
「あ、ああああのあの、何でもないです今のはなしです忘れてくださっ……!?」
恥ずかしさのあまり耳まで真っ赤に染め上げ、必死に逃げ出そうともがく少女の細い身体をイオスがいとも簡単に組み強いた。
慌てたが彼の胸に手を当て押し返そうとするのだが、覆い被さったイオスの身体はびくともしない。ひどく真剣な顔をしたイオスに真正面から見つめられ、の動きが止まった。
そのままゆっくりと、吐息がふれあう距離まで鼻先が近づく。たまらなくなったが思わずぎゅっと目をつぶったところで、イオスが吹き出した。
「……っくく……! まったく、自分から誘っておいてそんな顔するなんて卑怯だろう?
いじめてる気分になる」
「い、いじめてるじゃないですか……っ!」
あんまりイオスが笑うのでさすがのも少しむっとしつつ、今なら逃げ出せるかもしれないと身をよじる。だが、彼女の手首をベッドに縫い留めるイオスの手は、優しそうに見えてびくともしなかった。
どうしよう、とあちこち視線を彷徨わせる少女の顔をイオスが楽しそうにのぞき込む。
「許可を頂けたようなので、我慢しないよ?」
そう言うやいなや、イオスはの額や頬に口付けながらブラウスのボタンへと手を伸ばす。
反射的に閉じようとした膝の間に彼の膝が割り込んできて、は思わずイオスの背中を叩いた。
――決して心の底から嫌なわけではない。ただ、このままなし崩しになってしまうのは困る乙女の事情があった。
「ま、待って待って! 先にシャワ―……っ! 汗かいてるし、お願い……!」
「別に、僕は気にしないけど」
「わ、わたしは気にするんです!」
「じゃああとで一緒に入ろうか。大丈夫、責任持ってすみずみまで綺麗に洗ってあげるから」
「そそそそういう問題じゃないです―! お願いイオスさん、はなし……んっ!」
わめく少女の唇にイオスが自分のそれを重ねる。
深い口付けのあと、涙目になっているに向かい、イオスが言った。
「ごめん。――もう、一瞬でも、離したくないんだ」
乱れた黒髪を優しく梳いてゆく、長い指。
「――好きだよ」
いつもより低い声で。彼女の耳だけに甘くあまく響くように、イオスがささやく。
媚薬のような言葉がの最後の抵抗心をあっけなく奪い去ってしまった。
もうどうしたらいいのかわからなくて、救いを求めるようにイオスを見上げる。彼はにっこりと微笑んで、にキスを繰り返した。
浅く、深く。ついばむように、貪るように。何度も何度も唇が重なる。そうすることでお互いの存在を確かめるように、今この瞬間にふたりが共にあることを確かな記憶として身体に刻み込むように、いつのまにかも夢中になって彼の求めに応えていた。
はだけたブラウスの隙間からイオスの手が裸の胸へと触れる。心臓に直接触れられているような気がして、の背中がちいさく跳ねた。
――初めての時とは違う。この先になにが起こるかわかっているから――まだ少し拭いきれない恐怖と、あの時は知らなかった甘い期待がの頭を真っ白に満たして何も考えられなくなる。
「好きだ」
熱にうかされたように何度もイオスは同じ言葉を繰り返す。
首筋に、鎖骨に、淡い戒めの印を刻みながら、彼は聞いた。
「。――君も言って?」
「――っ、あ、や……っ!」
「――」
答えを急かすように、イオスがの耳を噛む。
――答えたいのに、イオスの指が、唇が、の邪魔ばかりする。
そんなことをされたらきちんと答えを考えられない。だから駄目、と言いかけて、はふと思った。
考える必要なんてないのかもしれない。
ただ、感じるまま、何の混ざりものも入れずに、湧き上がる想いだけを口にすればいいのかもしれない。
今なら――否、彼が自分を選んでくれたこれからの未来なら。きっとそれが許される――……。
「わたし、も。好――……」
その時。廊下から響くけたたましい呼び声が、少女の言葉をかき消した。
◆◆◆
「新聞! 新聞だよ―!
元老院議会が軍の再編を発表! いよいよゼラムへの出陣準備か!? さあ買った買った―!」
決して薄くはない筈の壁を通してでも聞こえる大声を張り上げて廊下を歩くのは新聞売りの男。
庶民が政治の内容を知る必要はないとされ、全てが貴族の手だけで執り行われているデグレアでは、国家中枢の動きを知るには秘密裏に刊行されているこれら「新聞」に頼るしかない。
週一回発行されるこの紙の束だけが、一般市民が自国を知るための唯一の手掛かりなのだ。
新聞売りの声を聞くなり、イオスはの存在など一瞬にして忘れたかのようにものすごい勢いで廊下へと飛び出した。
買ったばかりの新聞を広げながら戻ってきた彼は、ばさばさと性急な音を立てて紙面をめくる。粗末な紙いっぱいに滲むインクで印刷された文字の羅列を目で追うその顔に、つい先刻まで睦言を囁いていた甘い面影はどこにもなかった。
「軍の再編? 議会が遠征軍を指名? どういうことだ、まさか本気でゲイルを使うつもりなのか……!?」
ひと通り内容を読み切ったところで、己の名を呼ぶか細い声にイオスははっと現実に引き戻される。
慌てて顔を上げると、ベッドの上にしゃがみこんたが蒼白な顔をして彼を見つめていた。
――怒ってはいない。泣いてもいない。ただ何の感情も宿さない紅玉の双眸を前に、イオスの頭からざあっと音を立てて血の気が引く。
自分が何をしたのかようやく理解した彼は、すぐさま手にした紙束を床に放り出しベッドへと駆け寄った。
「ご――ごめん、ごめん、すまない……!」
咄嗟に抱きしめようと伸ばしたイオスの腕が空をきる。一度だけ大きく肩をふるわせたがまるで避けるようにその身を引いたのだ。
乱れた服の前をぎゅっと両手でかきあわせて。うつむいたまま、彼女は言った。
「だ、大丈夫です。気にしないでください」
「で、でも本当に」
「大丈夫です、怒ってないですから。本当ですよ、気にしないで、下さい」
「いや、でも……!
ごめん、本当にごめん、ごめん……! 僕は」
「本当に大丈夫ですから。
……あの、それより、ちょっと冷えちゃったので、シャワ―浴びてもいいですか?」
「え? あ、ああ……」
顔を上げぬまま、尋常ではなく穏やかな声音で淡々と話すを前に、今度はイオスがどうしたらいいのかわからなくなる番だった。
手を伸ばせば届くはずの距離にいる少女の気配があまりに希薄で、まるで現の存在ではないかのようだった。
静かすぎて、わからない。
いっそ、泣き叫んで罵ってくれれば彼女の気が済むまで土下座でも何でもするのに――泣き虫な筈の彼女が涙ひとつ流さないこの状況がイオスを追い詰める。
「……シャワ―。時間、かかると思うので、あの」
うつむいたままが身じろぎをする。
言外に、しばらく顔を見たくないと言われていることに気付いたイオスはきつく唇を噛む。 何度か口を開きかけたものの、やがて肩を落とした彼は、コ―トを掴み、まるで逃げるように彼女へと背を向けた。
「わかった。
――ちょっと出かけてくる。先に休んでいてくれ。 表から鍵をかけておくから」
早口でそう告げたイオスは、一瞬だけ躊躇した後――床に落ちた新聞を拾い上げ、部屋を出ていった。
◆◆◆
カチャリ、と鍵をかける音がして、彼の靴音が聞こえなくなったところで、はようやくつめていた息を吐き出す。
彼に言った通りシャワ―を浴びるため立ち上がろうとして――足がもつれて、ベッドから転げ落ちた。
ふるえる膝をおさえながら何とか立ち上がる。とにかく何かすがりつけるぬくもりが欲しくて、はやっとの思いでキッチンに行くと、慎重に湯を沸かし、紅茶を淹れた。
一瞬でも余計なことを考えたら茶器をひっくり返しそうで、瞬きもせずに集中してカップに茜色の液体を注ぐ。
湯気のたつ熱いマグカップを慎重に両手で包んで、転ばないように一歩ずつ確実にゆっくりと歩き、ずいぶん長い時間をかけてソファへと腰掛ける。
そうして、ようやく紅茶をひとくちすすった所で――涙があふれだした。
「――っ!」
泣いても、今ここに彼女をなぐさめてくれる人はいない。
ほんのついさっきまで確かに幸せだった筈なのに。何もかもが夢だったかのように、部屋はしんと静まり返って、寒かった。
イオスの気配が――どこにもない。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
頬を伝い落ちる涙がぽたぽたと紅茶の水面を揺らす。
こんな風に、彼の前で泣けばよかったのだろうか。怒ってわめいて枕でも投げつけて、いっそ自分が部屋から飛び出せばよかったのだろうか。
でも、どうしようもなかった。そんなことをして彼が受け止めてくれる保証はどこにもない。失いたくないから、すべてを飲み込む。少女はずっとそうやって自分を護ってきた。それしか、術を知らない。
それに――口が利けただけでも奇跡だったのだ。
彼が自分から離れた瞬間、は、もっとも知りたくないことを知ってしまったのだから。
彼にとっての、自分は――……
気が遠のくようなかなしみが押し寄せて、 は考えることをやめる。
ふとテ―ブルの上に目をやると、イオスが暖をとるために買った小さなウイスキ―の瓶が見えた。
ふるえる手でそれを手繰り寄せ、マグカップへと落とす。数滴のつもりがずいぶん大きな水音がしたが、もうどうでもよかった。
アルコ―ルの匂いがする紅茶を一気に飲み干す。熱くて辛くて、飲み終わってから何度もむせた。
涙をにじませながら立ち上がろうとして、ぐるりと目の前がまわり、床にへたり込む。
こんな状態になっても、誰も助けてくれない。だれも、いない。
ソファで眠る可愛い護衛獣さえ、に背を向けた格好で丸まっている。
――どうしようもなく、孤独。
「……そんなこと、もうずっと前からわかっていたじゃない」
ふっと、自嘲するような笑みを浮かべて――は意識を手放した。
To be continued ...