ガタゴトと、決して静かではない音を立てて馬車が揺れる。
狭い乗り合い馬車は満員で、決して快適とは言えなかったけれど、それを口実に自然と彼に寄り添うことが出来たからは嬉しかった。
甘えるようにそっと腕に頬をうずめると、彼の長い指があやすように髪を梳いてゆく。
瞳を閉じれば、そこはまるで揺りかごのように心地良かった。
時折瞼を開けて、移りゆく外の景色と変わらず横にいてくれる彼の顔を見上げる。
目があって、少し笑いあって。夢のように穏やかな時間。
――どこにも着かなくていい。
ただこのまま、この馬車がずっとずっと走り続けてくれれば良いのに――……。
沈む夕陽を目の端に捉えながらそう願った時、優しく肩を揺すられた。
「――、起きて。街が見えてきたよ」
◆◆◆
カヤールの街は、デグレアの西端に沿うように造られた街道の一番最後、トライドラとの国境付近に位置する交易都市だ。
デグレアを抜けるにはもっと東に最短距離でファナンと繋がる道があるのだが、主に軍関係者が利用するため関所が多く警備が厳しい。ゆえに、一般の旅人や行商人は数日余計にかかってでもあえて煩い軍隊がいない西の道を好む。
軍とは関わりたくないイオスも例外なくこちらの街道を選んだ。
そこは、あらゆる地方とデグレアとを結ぶ大きな、そして東側とは全てが正反対の道のりだった。
東の道で馬を飛ばすことしか知らなかったは、デグレアにこんなに多くの旅人が自由に行き来する場所があることにまず驚いた。
例えば、街道沿いの休憩所。東の道では通行手形がなければ座ることすら許されない場所で、行商人達は好きなように品物を並べ、道行く人々相手に商売をしている。
所々に衛兵はいるものの、旅人を見張っているというよりはやれ置引だ喧嘩だなどというトラブルの仲裁役といった雰囲気だ。
ここカヤールもそうだ。 オープンテラスで麦酒のジョッキを手にした労働者達が腕相撲をする仲間をぐるりと取り囲み大騒ぎをしている、なんて、常に兵士が目を光らせているデグレア城下町では絶対にありえない光景だ。
同じデグレア領内なのに、一歩外に出るだけでこうも違うものなのかと、は目をまるくした。
出発当初の不安げな様子など嘘のように、あれは何ですかこれは何ですかと次々尋ねては楽しそうに頷く。そんな彼女を見守るイオスの瞳が優しく細められる。
あまり強く取り締まっては国内の流通事情が滞るという理由から、西の街道は特別に自由な風潮が許されている地域だ。デグレア中枢の淀んだ空気とは違う、明るい風に触れることで、イオスは彼女を軍隊の記憶から遠ざけたかった。
たくさんの人の中に紛れてしまえば、自分達は軍人でも何でもない、ただの旅人だ。
若い男女のふたり旅。ひやかされることはあれど、怪しまれることはない。
珍しいほどに整った顔立ちの青年がテテなど連れているものだから、旅芸人かと聞かれることも多かった。
その度、男ふたりは思い切り頬を膨らませ、後ろで少女がかろやかに笑う。 鈴をころがすような屈託のない笑い声が、爽やかな秋の空に吸い込まれてゆく日々。
旅は、信じられないほどに順風満帆で、楽しかった。
――そんな旅路に嵐が舞い込んだのは、デグレアを発ってから四日目の夜のこと。
◆◆◆
「ごめんねぇ、明日は大市の日だから今夜は満室なんだよ……! 本当に悪いねえすまないねえ……!」
帳簿を何度もめくりながら、宿屋のおかみは肉付きの良い頬をほんのり上気させて頭を下げる。
三か月に一度の市が立つ前夜。地方から集まった商人達でごったがえすことがわかりきっている日に突然宿を求めてくるなんて普通のお客なら馬鹿言うんじゃないよと追い払うところだが、夢のように綺麗な顔をした青年を前に敏腕おかみはらしくもなくうろたえていた。
五件目の宿屋でも袖にされ、イオスの口から長いため息が漏れる。
今夜は久しぶりに大きな街のきちんとした宿屋で落ち着いて休めると期待していたのに――これまでの道中には粗末な安宿しかなく、いい加減固いベッドに辟易としていたのだ――イオスはまいったなと眉をしかめた。そんなに混む日があるとは知らなかったのだ。
「仕方ないな……。
、あっちの女性専用の宿はまだ空いているって言うから、とりあえず君はそこに部屋を取って。
僕はいざとなったら酒場かどこかで一晩くらい時間をつぶせるし」
「で、でも、イオスさんだって疲れてるのに私だけ泊まるなんて……。
あの、私、いっそ野宿とかでも全然大丈夫ですから……!」
「……こら。野営の時とは違うんだぞ。女の子が簡単に野宿なんて言うものじゃないよ」
旅の途中、街道脇の広場で寝袋を広げる旅人の姿を見かけていた
は、離れるくらいなら、と提案してみたのだが、間髪入れずにたしなめられてしゅんと肩を落とす。そんな彼女を見てイオスが再び嘆息した。
リィンバウムに来た当初、野営の期間が長かったせいで少女は外で夜を明かすことに抵抗がないようだが、やむを得ない事情がない限り普通女性は野宿などしないのだ。旅の常識――主に防犯知識を早急に教え込まねばとイオスはひそかに胸に誓った。
とにかく、こうしていても埒があかない。とりあえず外に出ようとイオスが宿屋の扉を押したところで、慌てた声が彼の背中を呼び止めた。
「ああ、待った待った! 空いたよ! ちょうど今着いたお客の人数が減ってね、一部屋だけ余ったんだ!
一人部屋だからベッドはひとつしかないんだけど、ちょっといい部屋でね、大きなベッドを入れてあるんだよ。
二人でもじゅうぶん横になれる広さだし、どうせあんた達夫婦ものだろ、別に構わないよね? ほらほら、特別に安くしとくから泊まっていきなよ! ねっ!?」
「ふ、ふうっ……!?」
この道中、もう何度も夫婦と間違われているというのに、未だに慣れず毎度馬鹿正直に赤くなるを横目に、イオスは急に何やら深刻な表情をして腕を組んだ。
しばし考え込んだ後、顔を上げた彼は探るようにおかみの方を見る。
「ふぅん、広いんだ?
…………わかった。それじゃあお願いします。おかみさんが優しい人で助かったよ、ありがとう」
そう言ってにっこりと微笑むイオス。
とびきりの美青年のとびきりの笑顔を真正面から受けるはめになったおかみの手からぽろりとペンが滑り落ちた。
「あ――は、はいよ! まいどあり!
お代は明日の朝ね。朝食はそこの食堂で別料金――……」
「なんだ、別料金なの?
そうか……ここっておかみさんお手製のパンが美味しいって聞いてて、だから是非とも御馳走になりたかったんだけど、別料金なら出発してからどこかで食べることにしようかなあ。
うーん、 残念だなあ、おかみさんの笑顔を見ながら朝食をとりたかったんだけどなあ……?」
「――っ!?
あ、そ、そうだね、一人部屋を二人で使ってもらう訳だし、朝ご飯くらいおまけしとこうかね!
任せときな、自家製ベーコンのサインドイッチと、奥さんの方には特別に林檎ジャムのデニッシュもおまけしとくよ。
はい、それじゃあこれが鍵ね。ごゆっくりー!」
イオス必殺の流し目とおねだりに瞬殺されたおかみはまるで少女のように頬を桜色に染めて鍵を差し出す。営業用の笑顔でそれを受け取ったイオスは、目を白黒させたままの恋人をそのままにすたすたと歩き出してしまった。
ここでようやく我に返ったは慌てて彼の背中を追った。
ぼんやりしている間に、さりげなくとんでもないことになった気がする。――否、なっている。
泊まるところが見つかってはい良かったですね、とはいかない緊急事態が勃発していた。
彼は大事な事を忘れていないだろうか。おかみさんは何かとても忘れてはならないことを言っていた気がする――そうだ、ベッドがひとつしかないのだ!
「ま、待って下さいイオスさん!
一部屋しかないんですよね? 同じ部屋に泊まるんですか!? そ、それにベッドもひとつしかないって……!」
デグレアを出発してから今日で四度目の夜になるが、イオスとは、実は一度も同じ部屋に泊まったことがなかった。
宿屋の手配をするイオスが、いつも当たり前のように「一人部屋をふたつ」取っていたのだ。
だからてっきり――イオスは今日もそうするつもりでいるとばかり思っていたのに。
……いや、自分達はまがりなりにも恋人同士なのだから、本来なら別室に泊まる方が不自然なのだろう。とて、いつまでもこのままではないだろうと心のどこかでは思っていた。
けれど、だからといって今夜突然、 しかも二人部屋ならまだしもいきなり同じベッドだなんて、さすがに――心の準備が、出来ない。
「イオスさん、ねえイオスさんてば、待って……!」
絶対に聞こえている筈なのに、イオスは何故か一度もを振り返ることなくずんずんと宿屋の中を進んでいく。
そして、廊下の一番奥の部屋の前で立ち止まると、手にした鍵をドアへと差し込んだ。
かちゃり、と鍵を開ける音が、騒がしい筈の宿屋の廊下にやけに大きく響いた。
の足が、イオスからきっちり五歩ぶん離れた所でぴたりと止まる。まるで停止表示の白線でも引いてあるかのように。
ようやく、イオスは少女を振り返る。
「――嫌?」
――ドアノブに手をかけた状態でこんなことを聞かれた場合、最も正しい答えとは何なのか。誰でもいいから今すぐ教えて欲しかった。
軋む床を踏み鳴らす低い音。食器がぶつかる高い音。誰かの喚き声。
全ての音が、立ち尽くすを映すイオスの瞳に吸い込まれてしまったかのように、少女の耳から遠ざかる。
窓から忍び込む夜風がランプの灯りを揺らすせいで、イオスの表情が影になってよく見えない。
やけにゆっくり開いてゆく部屋の扉を、は一歩も動けないまま見つめていた。