「! しっかりしろ、!」
「……あ……」
涙のせいで熱を帯びた瞼を開けると、目の前いっぱいに愛しい人の顔が広がっていた。
「イオス、さん……?」
が彼の名を呼ぶと、イオスは一瞬泣きだしそうに顔を歪ませて、そのまま横たわる少女の身体を抱きしめた。
「よかった……よかった……!」
肌から伝わるぬくもり。鼻孔を満たすイオスのにおい。覚えている通りの感覚に安心して、はただ本能が欲するままに彼の身体を抱きしめ返す。
何だかとても辛い夢を見ていた気がするのだが、もう忘れてしまった。全身がだるくて、何も考えたくない。
再び瞳を閉じてイオスの胸に顔をうずめる。少し離れたところでルヴァイドと軍医であるオーレイヴが話しているのが聞こえた。
「額の傷は治るのか? 痕に残ったりしたら……」
「大丈夫です。魔力で負った傷は魔力で治せます。プラーマの癒しの光がよく効いているようですし、一週間もたてばきれいに消えるでしょう。
……しかし、レイム殿は何を考えているのか……! 許されることではないですぞ……!」
レイム、という響きに、の全身がびくん、と跳ねた。
――何があったのか。一瞬にして全ての記憶が走馬灯のように蘇る。
「――っ!」
飛び出しかけた悲鳴を懸命に押し殺して静かに震えるを、イオスが再びきつく抱きしめた。
「……大丈夫だよ。
もうあんなことは二度と起こらないから。全て忘れていい……すぐに、ただの夢になるから。大丈夫。大丈夫だ……」
耳に沁みいるイオスの声。
まるで子守唄のように、彼女にだけ聞こえる声で、イオスは繰り返しくりかえし、不思議な言葉を囁いた。
◆◆◆
時計の針が0時を過ぎたばかりの真夜中。館の中にある大浴場から戻ったは、自室のドレッサーの前に座って髪を乾かす。
おそるおそる前髪を指で持ち上げると、額の傷は十日前の状態が嘘のように跡形もなく消えていた。
何度も指で触り、間違いなく傷跡が無くなっていることを確かめて、少女はようやくつめていた息を吐き出した。
アルミネスの森でレイムに負わされた額の怪我。デグレアで目覚めた後、初めて鏡を見た時にはそのあまりの酷さに気が遠退く程のショックを受けたが、オーレイヴの言葉通り、プラーマの治癒の光を浴びるたび、目に見えて傷は薄くなっていった。
本当によかったと、は心の底から安堵する。 ――あんな醜い傷跡を抱えたまま、イオスの綺麗な顔を見上げる自信なんてなかった。
だが――これで、あの遺跡での出来事が消えるわけではない。
迫りくる何かから逃げるように、は髪に通した櫛を無心に動かす。
あれから、は毎晩、ゲイルにまつわる思考の底なし沼へと囚われるようになっていた。
それは悪戯に焦燥感を呼び覚ますだけの苦悶の迷路だとわかっているのに、今夜もまた、鉛を飲み込んだように心が沈んでゆくのを止められない。
聖王国侵攻の切り札として、長きに渡りデグレアが求め続けてきた「召喚兵器」。アルミネスの森に眠っていたあの機械遺跡とゲイルは、確かに軍事力・国力ともに聖王国に劣るこの国が勝利を収められるだけの力をもたらす存在だった。
――ただ一度でいい。あの力を見せつけるだけで、敵は戦意を失うだろう。それほどまでに強大な、力。だからこそ封印されていた――禁忌。
そう。あの遺跡は「封印されていた」のだ。
単なる便利な兵器であれば、封印などせず、人に受け継がれただろう。そうしなかったのは、危険すぎるから、人に扱えるものではないから。そういう理由があったのだ。
そんなものを呼び覚ましても、過去の悲劇が繰り返されるだけではないのか?
人を魅了する強大な力は、最後に使用者の命を代償に求める。ゲイルとはそういう因果を孕むもののような気がしてならない。
事実、遺跡が語ったように、創始者であるクレスメントは自身が生み出した最高傑作「アルミネ」により命を落としている。
――クレスメント。
の脳裏に、遺跡に史実を告げられ泣き叫んでいた少女達の姿が蘇る。
「……トリスさん達、あれから、どうしたのかな……」
機械遺跡を創り出したのがマグナとトリス、ネスティの祖先で、犠牲になった召喚獣の魂の欠片がアメル。
デグレアが狙っていた場所に、彼等は驚くほど深く関わっていた。
もちろん、最初から黒の旅団と彼等は敵同士だった。そのことに関しては、ももう二度と迷うまいと誓ったばかりだ。
だが、まさかこんな事態にまで発展するとは夢にも思わなかったのだ。
とてつもなく重く大きな運命の歯車が動き出している。
そして、いつの間にか――自身も、ただの傍観者では無くなっていた。
今後、トリス達はどうするのだろう。まさかデグレアに遺跡を渡したままにはしないだろう。もはや旅団と彼等だけの問題ではなく、遠くない未来に聖王国対デグレアの戦争が始まることは間違いなかった。
迎え撃つために、レイムはゲイルを使うだろう。封印されていた、あの力を。
レイムはずいぶんと自信があるようだったが、本当にゲイルを使いこなせるのだろうか。……あの時、レイムは遺跡に封印されていた魔力とやらを取り込んだらしいが、それだけでゲイルを操れるようになるのだろうか?
その時、自分は――またあの時のように、「道具」にされるのだろうか――……?
櫛を置き、はもう一度鏡の中の自分を見つめる。両の瞳の奥に、僅かに揺れる赤い光を見つけ、少女はちいさく肩を震わせた。
リィンバウムとは何の関係もない、無力なただの人間だった筈の自分は、レイムにより強い魔力を与えられ、文字通り「鍵」と呼ばれる立場になってしまった。
遺跡は見つかった。ゲイルを手に入れた。だからもう宝箱を開ける「鍵」はいらない――そう願いたかったが、未来の行方は闇の中だ。
デグレアに戻ってきてから、ルヴァイドは幾度も元老院議会への面会を申し出ているようだが、議会からは未だ何の連絡もなく、レイムの姿を見かけることもない。――この奇妙に静かな空白の日々が、はたまらなくおそろしかった。
この先、自分はどうなるのだろう。
変わらずこのまま、イオスのそばにいられるのだろうか?
夜、部屋でひとり鏡の中の変わってしまった自分を見つめるたび、は不安で押しつぶされそうになる。
漆黒の夜空のように先が見えない。怖くてこわくて、息が苦しくなる。でもこれは全て自分の責任なのだ。――彼に、怖い、なんて、泣きつくことは出来ない。許されない――……。
目頭が熱くなり、こぼれそうになる涙をぐっとこらえたその時、コツン、と窓ガラスを叩く音がして、は文字通り飛び上がった。
驚いて振り向いた先、窓の外に思いがけない人物の姿を見つけ、少女は慌てて窓辺へと駆け寄る。
「え、イ、イオスさん……!?」
窓を開けると、満月に照らされた庭先に、なんとイオスの姿があった。
◆◆◆
どうしたんですか、と素っ頓狂な声を上げそうになるの口許にそっと手を当てて、イオスは優しく彼女の叫びを封じる。 ブーツを脱ぐと、彼は胸の高さまである窓をいとも簡単に乗り越えて少女の部屋へと上がりこんだ。
その様子を、はただ目を白黒させながら見ているしかなかった。
「な、何かあったんですか? どうして外から……?」
何か用事があるのなら普通にドアをノックしてくれれば良いのに、一体どうしたというのだろう。
突然のことに混乱しながらも、ランプの光に照らされてようやくはっきりと目にしたイオスの出で立ちに、はあれ、と首をかしげた。
イオスの服が、いつもの見慣れた軍服ではない。外出用のコートを纏い、肩からはひと抱えもあるほどの大きなショルダーバッグを下げている。
――これでは、まるで――……。
戸惑う彼女にそっと微笑んで、イオスはようやく口を開いた。
「今すぐ荷作りをして。
とりあえず数日分の服と、あとは本当に必要なものだけ。……もうここには戻らないから、そのつもりで」
「え? え……!?」
言われている意味がわからず、はただ呆然とイオスを見上げる。
そんな彼女をぐいと胸に抱き寄せたイオスは、赤くなった耳元にそっと囁いた。
「――駆け落ちしよう、ってことなんだけど」
「――っっ!?」
一瞬置いて、夜の館に響きかけた少女の叫びは、素早く重ねられたイオスの唇に吸い込まれる。
唇が離れ、大きく肩で息をしながら、はイオスのコートを掴んだ。
「か、駆け落ちって、ど、どういうことですか? 戻らないって……戻らない? ええ……!?」
状況が理解出来ず、は頭が沸騰しそうになる。
こんな夜中にいきなり現われて、彼は何を言い出すのだろう。夢を見ているのかと己を疑い始めた少女のまだ少し湿った黒髪を、イオスの長い指が優しく梳いた。
「いきなりごめん。
でも、ここを離れるのが一番なんだ。――レイムの手の届かない場所へ、二人だけで逃げる。もう絶対に、君をあんな目に遭わせたりはしない」
「……あ……」
真摯な紫の光がの目を射抜く。
ようやくイオスの意図するところがわかり、の胸が熱くなった。
レイムの手に堕ちた自分を護るため。イオスは、自分を連れ出そうとしてくれている。
――まるで、王子様が、悪い魔法に捕らわれたお姫様を助けるように――……。
心の奥底の願望がそのまま、に差しのべられていた。
夢見心地のまま、ただうっとりと頷きかけて。だが、窓から忍び込むひんやりとした風が、を現実へと引き戻した。
「で、でも……そんなの駄目です、無理です!
イオスさんは旅団の隊長でしょう? 旅団が大切でしょう? 私なら大丈夫ですから、離れるなんて、そんなこと……」
「――僕には、君以上に大切なものなんて何もない」
きっぱりと、イオスはの迷いを否定する。
あまりのことに、は両手で顔を覆ってしまった。
信じられなかった。
彼の気持ちが、ではなく。これが現実だということが。
何もかもを捨てて、イオスはだけを選ぼうとしている。――本当に? ほんとうに、そんなことがあり得るのだろうか。
これは自分が見ているただの都合のよい幻ではないのだろうか。だって、自分にそんなことをしてもらえるような価値はない。彼が培ってきたものを全て置いてまで、自分を選ぶなんて、そんなことがあって良いのだろうか。否、ある筈がない……!
「……」
少女の混乱を感じたのだろう。イオスは優しく彼女の名前を呼ぶ。
顔を覆ってしまった手をゆっくりと離させると、少女の頬は一筋の涙で濡れていた。
その跡にそっと口づけて、イオスはの瞳を覗きこむ。自分だけが映るように。他の物を見て迷わないように――……。
「僕を信じて。
……もっと早く、こうするべきだったんだ」
「……で、でも。
やっぱり駄目です――だめ。本当に、私は大丈夫ですから。こんなことでデグレアを捨てないで下さい。
帝国からデグレアに移って、たくさん辛い思いをして、あなたが何年もかけて築いてきたものを、こんなことで捨てちゃ駄目です。
それに、ここを離れたら、あなたはデグレアを――ルヴァイドさまを裏切ることになってしまいます。それだけは絶対にだめ……!」
自分の口から出た言葉に、そうだ、とははっとする。
彼が、第二の人生をデグレアで歩むことを決意するほどに忠誠を誓った人物――ルヴァイドを裏切るようなことをさせてはいけない。絶対にいけない。
――自分なんかのために。彼の過去を奪ってはいけないのだ――……!
ぐっと力を込めて、はイオスの胸に両手を突き、誘惑に負けそうな自分を諌めるようにその身体を押し返す。
拒まれる形になってしまったイオスは、一瞬わずかに眉根を寄せて。だが、すぐに口許をほころばせた。
「……ありがとう」
「……え?」
思いがけない言葉と優しすぎる微笑みに、は半泣きのままきょとんとした表情を浮かべる。
次の瞬間、少女は再びイオスの胸へと抱きすくめられた。
「……でもな、あまり聞き分けのないことを言っていると、ちょっとしばらく眠ってもらって、目が覚めた時にはもう君ひとりじゃ帰れない知らない街……って展開になるけど」
「え、ええっ!?」
さりげなく脅迫され、びっくりしたはイオスの腕の中でじたばたともがく。
そんな恋人の反応をひとしきり笑ったあと、イオスはの首元に顔をうずめ、言った。
「……君の気持ちは嬉しいよ。
でも……そうだなあ、じゃあこう言えばいいのか……。
確かに僕は、この国が……というより、旅団と、仕えるべき主が大事だった。ここで戦うことが唯一の生き甲斐だった。
でも。僕は、君に出会って――もうひとつ、叶えたい夢を見つけたんだ」
「ゆ……め?」
「うん。
――あたたかい、穏やかな街で。君と僕がいて、子供は……うん、ふたりは欲しいな。
毎朝、目が覚めたら最初に君におはようって言う。夜帰ってくると、家の灯りがやさしく闇の中に浮かびあがっていて、料理をしたり、子供をあやしたりしている君の姿が窓から見えるんだ。
それでものすごく嬉しくなって、玄関を開けると、君が走ってきて、笑顔でおかえりなさいって迎えてくれるんだ。
一日の終わりに、同じベッドに入って、灯りを消す前におやすみって言う。そっと手を握って、寄り添いあって眠って、また楽しい朝を待つ、そんな生活をしたいって。
……なあ。幸せだと思わない?」
彼の唇が紡ぐのは、おとぎ話のように幸せな光景。は言葉を失った。
「……恥ずかしいんだけど。僕は早くに家族を亡くしたからか、昔から、自分の手で幸せな家庭を築きたいっていう気持ちが強くてね。
ここに来てから、しばらくそんなことも忘れていたけれど……君を好きになって、その夢を思い出したんだ」
捧げ持つように、の両手をとって。少女の前に跪いたイオスは、まっすぐに恋人の瞳を見上げた。
紫水晶の瞳は深くふかく透き通り、一点の曇りも迷いもない。
「この夢は、ひとりでは叶えられないから。
だから、――僕と一緒に、来てくれませんか?」
――その声が。その瞳が。あまりにも満ち足りていて、幸せそうで――の瞳から、こらえきれなくなった涙があふれ出した。
逃げるのでも、捨てるのでもなく。夢を叶えに行くのだと、彼は言った。
そのために、自分が必要なのだと――……。
受け止めることを。……ゆるしてくださいと、彼女は願った。
すぐに、言葉が出ない。……どんな言葉を使えば、この気持ちを正確に伝えられるのか、探すには長い時間がかかりそうで――だから、はただ、彼の手をきつく握り返した。
ようやく頷いた少女に、イオスが笑み崩れる。
「――よし!」
「きゃっ!?」
そんなに嬉しかったのだろうか。イオスはを抱きかかえるとくるりとその場で一周してみせる。
少女を床に降ろしたイオスは、急くようにぽん、とその背中を叩いた。
「それじゃあ準備して! 今夜の城壁の巡回時間は把握してる。今から二の刻までなら裏門の警備が手薄だから、闇に紛れて抜け出せるんだ。
そこから馬を飛ばして、夜明けまでに南の関所を抜けたい」
「は、はい」
「おいこらテテ起きろ! お情けでお前も連れて行ってやるからご主人様の荷作りを手伝うんだ!」
そう言って、イオスはベッドの上の護衛獣専用クッションにうもれて寝息をたてていたテテをちょっと乱暴に叩き起こす。
だが、口調とは裏腹に、その表情はとても楽しそうだ。――まるで、素敵な悪戯を思いついた子供のように。
――誰にも内緒で、王子様と一緒にお城を抜け出す。幼い頃、ベッドに潜ってこんなことを夢見ていた気がする。
ふわふわと地に足がつかないような感覚の中、はクローゼットから丈夫な革のトランクを取り出し、服や身の周りの小物を詰めていく。
もともと荷物は多くない。それに、ほとんど――彼が与えてくれたものばかりだ。
この世界で、は彼によって作られている。そして今、彼と一緒に、新たな道を歩もうとしている。
何故か、指先がふるえた。怖くないと言ったら嘘になる。でもこの震えは恐怖ではなく――きっと、信じられないような幸せを受け止めるための、準備。
「――」
ふと、名前を呼ばれる。
準備に没頭していた少女がはっと振り返ると、月明かりを背に、イオスが――笑っていた。
彼女だけのために。
「一緒に、行こう」
手が伸ばされる。
差し出された大きな手のひらをぎゅっと掴んで。は、はい、と頷いた。
灯りがなくても、道を失うことはない。
二人の頭上で満月と星が踊るように輝く。それはそれは、うつくしい夜だった。