call my name
 ――ザァ……ン。ザァ……。

 かすかに聞こえるのは波の音。
 窓から見えるのは、闇夜にぽっかり浮かぶ、三日月。

 モーリン邸の一角にある客間。色々考えるとどうにも眠れなくて、は眠るテテをぬいぐるみのように抱きしめたまま、ベッドの中からぼうっと窓の外を眺めていた。





 ――イオスに会うのは、次に旅団が攻めてきたときに――

 昼間のトリスの言葉が頭から離れない。
 でも確かに……彼女の言う通りなのだ。
 今の自分の力では、旅団を探し出して戻る事などできない。
 旅団の目的が聖女――アメルの確保である以上、いずれ……おそらくそう遠くはない未来にまたイオスに会えるだろうということはわかるのだが、その時の自分の存在はなんとも微妙だ。
 おそらく、トリス達にも、イオス達にも、色々とやりにくい状況を作ってしまうだろう。

 ……両方の、足手まといになってしまう。

 それだけは嫌だった。……嫌なのだけれど、このままここで甘えていたら、それは現実になってしまう。
 それに、いくらトリス達が自分を優しく迎えてくれているとはいえ、あくまで自分は黒の旅団の一員である。いつまでもここに世話になるわけにはいかないのだ。

 ――いっそ、まずゼラムに戻って……そこから、以前イオスに馬で連れられた野営地までの道を辿ってみようか。かなりうろ覚えだけど、ひょっとしたら辿り着けるかもしれない……。

 とりとめもなくそんなことを考えて。けれどあまりに無謀なその計画に、は自嘲気味にため息をついた。


 どうしたものかと思いながら窓の外へと視線を移す。
 今夜はよく晴れているのだろう、黄色く輝く三日月の輪郭がくっきりと見えた。

 ――月。
 野営地で……毎晩必ず、は就寝前にイオスの天幕へと「おやすみなさい」の挨拶をしに行っていた。
 最初は翌日の予定などを確かめるためだったりしたのだが、いつの間にかそれが習慣となり。
 イオスの時間が空いている時には、そのまま一緒に月を眺めながら、リィンバウムのことからその日の何気ない出来事まで、色々話をしたものだった。



「……心配……してるかな……」



 ひとり、見知らぬ地で月を見上げたらなんだか物悲しくて。鼻の奥がツンと痛んだ。
 振り返ってみれば、この世界に来てから、こうやってひとりで月を見たのは初めてな気がする。
 いつも、隣にいてくれたあのひとは、ここにいない。


 ――イオスは、今頃どうしているのだろうか。



「あいたいな……」



  ……。



「――っ!」

 何気なくこぼしてしまった独り言にはっとして。は思わずがばっと飛び起きた。
 月を見て、あいたいな、なんて。そんな、切なくつぶやいたりして。
 まるで、恋する少女のような反応ではないか。



 ――ってさ、イオスのこと、好きなの?――



 唐突にミニスの爆弾発言が脳裏に甦って、はかぁっと熱くなる頬を手で覆った。

「ち、ちがっ……! そういうんじゃないの……!」

 イオスのことは好きだ。だけどそれは、世話になっているからであって。この世界で自分とつながりがある、たったひとりのかげがえのない人だからであって。
 ミニスが言ったような、男女の「好き」ではない。

 そういう好きではない…………筈なのに。どうして自分はその言葉にこんなにも動揺するのだろう。
 誰かのことを考えて、動揺する。心臓の動悸が早くなる、不可思議な現象。
 どういう時にこうなるのかを思い出して、ははっと顔を上げた。
 ふいに、脳裏に懐かしい青年の顔が思い浮かんだのだ。

 ――そうだ。ミニスの言葉に動揺するまでもない。自分には、ちゃんと想い人がいたではないか。

「そ……そうよ、私は、先輩のこと好きだったんだから……!
私が好きだったのは、せんぱい……」

 ――委員会で出会ったひとつ上の先輩。優しくしてくれたその人に生まれて初めての恋心を抱いて、持て余す気持ちを抑えきれずに告白してしまった。
 結果、失恋という形になったけれど、それでも大好きだった、あの人――……。

 突然放り込まれた非日常に忙殺されて、すっかり忘れていたその存在。
 しかし、は湧き上がる違和感にあれ、と眉根を寄せた。

「……好き……だった……?」

 ……「だった」。
 何気なく発したその言葉。しかしそれは、彼女にとって思いがけないもの。
 今自分は、好きだった、と言った。

 ――いつの間に、この恋心は過去形になったのだろう。


 振り返ってみれば、この世界に来てからというもの、あれほど毎日恋焦がれていたはずの存在をまったくといっていいほど思い出さなかった。
 確かに、慣れない毎日で思い出す余裕すらなかったのも事実だが……しかし、こうやってひとりで考える時間が出来て、寂しいと思って。
 それでも自分は、あの恋を振り返る前に、別の名前を思い浮かべた。
 普通、こういう時まず会いたいと思うのは、思い浮かぶのは、恋しい人の姿である筈なのに。

 ――自分は、いま、誰に会いたいと、思った?



 初恋の相手以上に、今自分が、心の底から、会いたいと願っているのは?





「……っ、ね、寝よう!」

 ひとり頭をぶんぶんと横に振って、はドサっと勢いよくベッドに身体を沈めた。
 ……きっと、ミニスがいきなりあんなことを言い出したから、ちょっとびっくりしてしまったのだ。
それだけだ。
 会いたいと思うのだって、自分がこの世界で頼れるのはイオスだけなのだから。そう、いわば小さな子供が親元を離れて寂しいと思うのと同じようなものだ。そういう意味の『会いたい』だ。
 それ以上のなにものでもない。

 ……こんな時に気付かされるなんて少々間抜けだけれど、どうやらあの先輩への甘酸っぱい恋心は自分でも気が付かないうちに消えていたらしい 。
 それでも、失恋直後に追い込まれた状況が状況だ。あんなに好きだったくせに、 薄情なくらいあっさりとその想いを断ち切ってしまった自分に何だか呆れてしまうが、仕方ないというか、まあ、こんなものなのだろう。


 ――だからといって、あの人への想いがなくなったからといって、



 イオスのことが好き、というわけでは、ない。




 このふたつは、イコールでつながらない。
 失恋直後に。現実離れしたこの異世界で。会ってまだひと月もたたない相手に。
 ……そんな。まさか。



「あー、もう、疲れてるの、混乱してるのよわたし!」

 いろんなことが起こって、頭も身体も疲れているし、心も弱っているのだ。だから、ミニスに言われたひとことに馬鹿みたいに反応して、 こんなことまで考えてしまうのだ。
 これ以上余計なことを考えてたまるかと、はさっさと睡眠に移行するべく、両のまぶたをぎゅうっと閉じた。


 ――コツン。


 波の音と虫の声しか聞こえなかったはずの室内に、ふいに聞き慣れない音が響く。
 無機質なその音に、まどろみかけていたははっと瞳を開けた。

 ……なんだろう……?

 注意深く耳をすませてみるが、 聞こえるのはやはり打ち寄せる波の音と虫の鳴き声だけ。
 気のせいだったのだろうか。

 ――コツン。

 眠ろう、と瞳を閉じた矢先に再び先程の音が響く。
 気のせいじゃない、とは慌てて身を起こした。

 コツン、コツン。

 今度こそはっきりと聞こえてきた音。それは、ベッドの脇にある窓ガラスを誰かが叩いている音だった。
 月明かりの逆光で誰かはわからないか、目をやれば確かにそこには人影がある。

「……だれ……?」

一瞬恐怖で背筋がゾクリと震えたが、ここは街のど真ん中、しかも皆がいる屋敷の敷地内だ。はぐれが出るような野外ではない。
 おそらくトリスか誰かが、月夜の散歩としゃれ込んでいるのだろうかと。
 そう思って、はそっと窓を開けた。



 ――月明かりを背に佇む人影。
 わずかな光に反射して輝く髪。
 しかしそれはの予想に反して、トリスの紫紺色でもアメルの亜麻色でもなく……細く美しい、金の色。
 一瞬ミニスかと思ったが、しかし彼女はこんなに背が高くない。

 ほんのわずか、夜風に揺られた前髪の間から、美しいアメジストの瞳が覗いた。




 ――今自分が見ているものが信じられなくて、は何度も目を瞬いた。
 夢かとも思ったが、手に触れる窓枠のざらりとした感触が、夢ではないことを告げている。
 窓をそっと叩いた人物。今の目の前にいる人物。それは…………。



「イオス……さん……!?」



 窓の外には、闇夜にまぎれるように黒いマントに身を包んだイオスの姿が、あった。








◆◆◆






 どうして、と思わず大きな声をあげそうになったを、イオスが唇の前に人差し指を立てて制した。――声をたてるな、と。
 ……確かに、眠っている皆に気付かれたら、とんでもない騒ぎになる。
 すぅ、と一度深呼吸してはやる気持ちを無理矢理落ち着かせてから、再びは目の前の人物を凝視した。

 ……間違いない。イオスだ。

「どうして、イオスさんが、ここに……!?」

 なんとか声を抑えるが、それでも驚きの気持ちは隠し切れない。
 おろおろする彼女の様子に、イオスはふっとその口許をほころばせた。

「どうしてって……。
とらわれのお姫サマをお迎えに、来たんだけど?」

 悪戯っぽくそう囁くと、が目をまんまるくした。

「む、迎えにって……でも、どうしてここが……!?」
「――聖女達に連れて行かれたのはわかっていたからね。
あの草原から1番近い街はここだから……ファナンにいるってことはすぐに予想がついた。
すぐに助けにいくつもりだったんだが、金の派閥の警備が厳しくて……なかなか入り込めなくて、ね」

 そうこうしているうちに、四日も過ぎてしまったのだ。

 イオスが、窓枠から身を乗り出しているの頬にそっと手を伸ばした。
 指先に触れるやわらかい感触は、自分が知っているそれと何ら変わる事はなく。
 ――離れていたのはたったの四日。それでも、彼女がそばにいないという現実は、まるで無限の時間のように感じられた。


「ひとりにしないって約束したのに……。
……遅くなって、ごめん」


 イオスの言葉に、はただ左右に首を振った。

 四日ぶりに聞くイオスの声。
 胸に、どんどん熱いものがこみあげていく。

 の頬に触れていた手を、イオスは彼女の顔の前へと差し出した。


「……おいで。
――帰ろう?」


 その言葉に引き寄せられるように……は、テテを片手に抱きかかえて窓枠へと足をかけた。
 差し出された手に自分のそれを重ねて、窓の木枠を踏み越える。
 外へ出てきた彼女を、イオスはそっと横抱きに抱き上げた。
 そのまま地面へ降ろされるのだとばかり思っていたが、自分を離さないイオスの様子に戸惑いがちに青年の顔を仰いだ。

「……あ……あのイオスさん。私、自分で歩けま……」
「いいから」

 久しぶりに間近にイオスのぬくもりを感じてかぁっと頬が紅く染まる。けれど、の申し出をイオスはひとことで取り下げた。
 恥ずかしいけれど……このぬくもりが気持ちよくて、安心するのも事実で。
 は、これ以上何も言わず、熱を持った頬をイオスの首元に隠すようにうずめて、そのままぎゅっと抱きついた。

「……帰るよ、?」

 イオスの言葉にこくん、と頷く。

 ――朝になったら……がいないことに気付いて、トリス達はきっと心配してくれるのだろう。
 けれど、こうやってそっと帰る事が、お互いにとって一番良いのだろうと思った。
 これ以上彼女達と共にいたら……辛くなるだけだから。


 イオスが、を抱えたままそっと歩き出す。

 ――その時だった。



「……誰かいるの……?」

 カタン、と窓が開く音と共に、聞こえてきたのは細い女の声。
 ぎくり、と身を強張らせた二人がそっと後ろを振り向くと、 そこにはの隣の部屋の窓からこちらを覗いているアメルがいた。








◆◆◆







「アっ、アメル……さん……!」
「――さん……? どうして外に……」

 まだどこか寝ぼけているのか、目をこすっていたアメルは、を抱えている人物を見て一瞬にして目がさめたのだろう、はっとした表情で二人を見やった。

「……イ、イオ……!?」
「ごっ、ごめんなさい! アメルさん……私……!」

 アメルと目が合って、が言葉に詰まった。
 何か言わなければいけないのだが、何て言ったら良いのだろう。

 敵である自分にどこまでも優しく接してくれた人達。けれど、再び自分はこうやってイオスの手をとることで、彼女らの敵になる道を選ぼうとしている。

 言葉が見つからなくて、ただアメルと視線を合わせたまま動けないでいるをイオスがそっと促した。

「――他の奴が起きるとまずい……行くぞ」

 アメルを一瞥してから、イオスは裏口へと身を翻した。

「まっ……待って!」

 ぎゅっとイオスのマントを引っ張って、が止まってくれるよう懇願する。
 イオスの肩越しに、呆然としたままこちらを見ているアメルの瞳を捉えて、が言った。

「あの……あのね、アメルさんっ。
もしまた……いつか、戦場じゃないところで会えたら……。
また一緒にお買い物、行ってくれますか……?」

 ――お礼の言葉だとか、皆にごめんねとか。他にもっと色々言うべきことはあった筈なのに、とっさにの口から出たのはこの言葉だった。

 の言葉にきょとんと目を瞬いて。ややあって、アメルはその顔にふわりと優しい笑みを浮かべた。

「ええ……また必ず、行きましょうね……!」

 そう言って笑うアメルは、まさに聖女そのもので。
 こくん、とが頷き返す。

 それを確認してから、イオスは再び裏口へと駆け出した。






 ――バタバタバタ、バタン!

 ものすごい足音と共に、アメルの部屋のドアが乱暴に開かれる。
 息をきらせて駆け込んできたのは、ロッカとリューグの双子兄弟だった。
 彼等は慌てて部屋の中を見渡して、窓際にひとり佇むアメルの姿を確認するとそろって安心と戸惑いが入り混じった複雑な表情を浮かべた。

「おおおおいアメル! 今イオスの野郎が庭にっ……!?」
「二階から見えたんだよ」

 慌てたように怒鳴るリューグの言葉をロッカが引き継ぐ。
 双子の様子にちょっと笑ってから、アメルがええ、と頷いた。

さんを、迎えに来たみたい」

 なにやらのんびりと言うアメル。
 その言葉に、 リューグがアメルを押しやって窓の外へと身を乗り出した。

「それで!? イオスは!?」
「イオスさんとさんは……」

 あそこです、と言ってアメルが指差したのは、庭の隅にある裏口。
 そこにはすでに人の気配は、なかった。

「あ、あんの野郎、ぬけぬけと……!」

 怒りのあまりわなわなと拳をふるわせるリューグをよそに、どこまでも冷静なロッカがアメルの方を振り向いた。

「それで?イオスは……さんを連れて行ったのか?」
「ええ、だから言ったでしょう?さんをお迎えに来たって」

 そう言うと、アメルはどこか切なそうにほうっとため息をついた。


「まるで……とらわれのお姫さまを迎えに来た、王子さまみたいだったわよ……」


 そのまま胸の前で両手を組んで、うっとりとイオス達が去っていった方角を見つめるアメル。




「……はぁ……!?」



 アメルの言葉に気が抜けたのか、リューグがへなへなとその場にしゃがみこんだ。





「……なぁ……」
「……なんだよ、兄貴」

 ふいに口を開いたロッカに、リューグが心底不機嫌そうに返事をする。
 ロッカは、ただただ不思議そうに窓の外を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。

「……絶好の、チャンスだったのに。
――どうしてイオスは、アメルを連れて行かなかったんだ……? 」

 あれほどまでに、アメルの存在を狙っているというのに。槍使いは何もしなかったのだ。




「……」




 三人は、首をかしげてお互いの顔を見合わせた。