call my name
「……来ない、か……」

 読んでいた書類から顔を上げて。イオスがふぅ、と溜息をついた。
 いつもなら就寝前に必ず一言挨拶に来る少女。だが、今夜は一向に姿を見せる気配が無い。

(――まあ、原因は、わかっているんだが)

 彼女が来ない理由に思い当たる節がある彼は、ひとり自嘲気味な笑みを浮かべた。
 参ったな、などと物思いに耽っていると、ふいにテントの外を何かが通り過ぎる気配がした。
 訝しく思って外に顔を出す。すると、人間の膝丈ほどの何かが、調理場となっているテントがある方向へと走っていく姿が目に入った。

「……あれは……テテ?」

 短いしっぽが揺れる後姿。あれは、間違いなくの召喚獣……いや、一応は護衛獣と言わねばならないのだろう(少なくともテテはそのつもりらしい)、メイトルパの獣だ。

「……何する気なんだ……?」

 不思議に思ったイオスは、テントを抜けるとそのままテテが走り去った方向へ歩き出した。







◆◆◆






 テテが入っていった場所は、やはり調理場だった。
 しかし、ずいぶん前に夕食の時間を終えたその場所は、明かりもなく真っ暗である。

「……何してるんだ、テテ?」

 イオスが手にしていたランプで暗闇を照らすと、テテは一瞬驚いたようにその足を止めて振り向いたが、声をかけたのがイオスだと知って安心したのか再び調理場内を歩き始めた。
 テテの行動にイオスが首をかしげる。

「何だ……腹でも減っているのか?」

 調理場にいるということは、おそらくイオスの予想通りこの召喚獣は食べ物を求めてここにいるのだろう。何か食べ物を出してやろうかとも思うが、しかしイオスにはこの獣が何を好むのか皆目見当がつかなかった。

「しかし、食べ物を探してここを荒らされても困るしな……」

どうしたものかと思案しているイオスを尻目に、テテはテーブルの上にひょいと飛び乗ると、その上に置いてあった木箱のふたを開けた。
 ふたを脇に置くと、短い手を中に差し入れ、器用に中に入っていたもの……皿とマグカップを取り出す。
 皿には小さくちぎったパンと干し肉、それに林檎がひとつ。マグカップにはミルクが入っていた。
 手馴れた様子のテテに、イオスがきょとんと目を瞬く。

「……それ、お前のなのか?」

 イオスの問いにこくりと頷くと、テテはいただきますとでも言うように皿の前で両手を合わせる仕草をしてから、その場に腰を落ち着けてもぐもぐと食事を始めた。
 ……よくよく見れば、テテが使っている食器には、黒いペンで、どうやらテテを表しているらしき似顔絵が描かれている。

 ――いい? この絵が描いてあるのが、テテのお皿だからね。
 ――このお皿に入れてあるのがテテのごはんだよ?

 この召喚獣の主人……と、テテのそんなやりとりが容易に想像できて。
 イオスは思わずぷっと吹き出していた。




「幸せそうに食べるなあ、お前」

 テテが食事をしているテーブルに椅子を引き寄せてそこに腰掛けたイオスは、無心に口を動かすテテを面白そうに眺めていた。
 そういえば、と。あることに気付いたイオスが口を開く。

「……お前がひとりでここに来たってことは……は、もう休んでるのか?」

 イオスの言葉に、テテは干し肉を口にくわえたままこくりと頷いた。

(――やはり、今日は姿を見せない、か)

 苦笑を浮かべると、イオスはテーブルに頬杖をついて瞳を伏せた。


 ――夕食の時のあの反応。そして、いつもかかさず繰り返して来た『就寝前の挨拶』がないということ。
 いつもと違うの態度。しかし、その理由をイオスはわかっていた。




 ……戸惑っているのだろう、彼女は。
 昨夜の、自分の行動に。




 どうして、抱きしめたのか。どうして、口づけたのか。
 イオス自身にも、実のところよくわからなかった。
 別に、彼女に触れたのはあれが初めてではない。それまでにも、抱きしめたり、額や手に唇を落としたことはあった気がする。

 ……けれど。昨夜は今までのそれとは違った。

 今までは、少女の健気な行動がただ可愛らしくて。護ってやりたくて。
 ……そう、おそらく自分に妹などがいたら抱いていたであろう……そんな気持ちで触れていた。

 しかし、昨夜は違う。
 彼女が連れ去られてから数日、眠れない夜を過ごして。
 ルヴァイドに願い出て、ひとりファナンへと向かった。
 ようやく手元にもどってきたぬくもりに安心して。同時に、思いがけず自分の中で大きくなっていた少女の存在に驚かされて。
 そんな中、向けられた彼女の笑顔を、ただ、愛しいと思った。

 瞳を閉じたまま、イオスが長い長い溜息を漏らした。
 考えて、考えて。けれど、行き着く答えはもうわかっているのだ。
 自分の気持ちがわからないんじゃない。ただ、認めることを怖れているだけ。
 それでも、もう誤魔化せそうにない。

 ――認めるしかないだろう。
 そう、自分に言い聞かせる。



 昨夜、抱きしめて、キスをした理由。
 それは、自分があの少女を愛しいと思ったからに他ならない。
 責任のためでも、約束のためでも、妹のような親愛を感じたからでもない。




 ――ひとりの女性として。が、好きなのだ。自分は。




 不謹慎だということくらいわかっている。けれど、あそこまで純真無垢に自分を信じてくれる存在に、惹かれるなという方が無理だ。そばにいればいるほどに、どんどん心が引き寄せられてしまって、離せなくなる。
 戸惑うほどに、誰かを愛しいと想うこと。こんな感情は一体何年ぶりだろう。
 久しぶりに抱く恋心に揺れている自分が可笑しくて。イオスが自嘲気味に口の端を上げた。


「まさか、今更こんな気持ちになるなんて、な……」


 ――遠い昔。まだ帝国にいた頃、恋というものをしなかったわけではない。
 けれど、あまりに変わってしまった自分をとりまく環境に、もう恋心など抱くことはないだろうと思っていたのに。
 よりによって、重要な任務の最中に。しかも、相手は自分が召喚してしまった異世界の少女だ。

 ……とてもじゃないが、想いを口にすることなんて出来ない。いや、許されない。
 自分はを元の世界に帰してやると約束している。想いを口にするということは、 ひきとめるということだ。約束に、反する。悪戯に彼女を困らせることも、したくない。
 自分にこんな下心があることを知ってしまったら、彼女はきっと怯えてしまうだろう。今まで通り無邪気に笑いかけてくれなくなるかもしれない――そんなのは嫌だ。

 それに、今は聖女捕獲という最重要機密任務の真っ最中だ。隊長である自分がそんな浮ついた気持ちを抱いていられるような状況ではない。

 押し込めるしかないのだ。この気持ちは。
 自分の心の奥底に、深く深く。



 ――けれど――……。



「……まったく。罪作りだよ、お前のご主人様は」

 そう言って、林檎をかじっているテテの頬を人差し指でつんと突付くと、テテは不思議そうに首をかしげてみせた。







◆◆◆






 食事を終えて調理場を後にしたテテは、トテトテと身体を揺らしながらそのまままっすぐ自分の住処でもあるのテントへと向かった。
 何の気はなしにぼうっとその後姿を見送っていたイオスは、小さな後姿がテントに消えてからもしばらくそのままテントに視線を向けていた。
 ――が。ふいにテントへと足を向ける。
 音をたてないようにそっと入り口の布地をめくって、イオスは中へと身体を滑り込ませた。


 ほとんどのテントには明かりがともっていないにも関わらず、このテントだけは消えるぎりぎりまで弱くしたランプの明かりがほんのりと中を照らしている。こうやって明かりをつけたまま眠るのは、このテントの主である少女の癖。
 ――以前、この癖を不思議に思ったイオスが、明かりをつけたままで眠れるのかと尋ねると、は恥ずかしそうに顔をうつむかせて、真っ暗だと怖くて眠れないんです……と告げた。

 テントの隅に置いてある簡易ベッド。その上で、がまるで猫のように背中をまるめた格好で毛布にくるまって眠っていた。
 彼女の足元では、大判のタオルにくるまったテテがすでに寝息をたてている。

 静かにベッドに歩み寄って、その横に膝をつく。起こさないようにと気をつけながらイオスがの顔を覗き込むと、少女のあどけない寝顔が目に入った。

 そっと、の顔にかかっている黒髪をかきあげる。
 さらさらとしたその髪を数度指で梳いてから……イオスは、眠るの額へと唇を落とした。






「…………何をやっているんだ、僕は……」

 テントを後にしたイオスは、自分の行動に思わず苦笑を浮かべた。
 押し込めるしかないとわかっている感情なのに。一体自分は何をしているのだろう。

「……やっかいな感情だよ、本当に……」

 そう小さくつぶやいて、ひとり空を見上げる。
 広がっているのはただ闇色にだけ支配された空。曇っているのか、月は出ていない。


 ……気付かなかった振りをするしかないのだと、そう思った。
 見えない月のように、隠すしかないのだ――この、想いは。




第8夜 END