「……リィンバウムの月って、なんでこんなに大きいんだろ……」
夕食の片づけを終え、なんとなくそのままテントに戻るのが嫌で、ふらふらと歩き出す。
見上げた夜空に輝く月があまりに美しくて、はため息をついた。
幕間 Monologue
月明かりの下、行く当てもなく歩きながら考えるのは、自分のこと、そしてこの世界のこと。
この世界に喚ばれて、どのくらいの日数が経ったのだろうか。めまぐるしく過ぎていく日々のせいかもうずっとここにいるような気がするけれど、実際はまだひと月もたってはいないだろう。
ずっと好きだった人に失恋して。その直後喚ばれたこの異世界――リィンバウム。
召喚術だとか、戦いだとか。日本で平凡な学生として暮らしていた自分にはあまりに不可解なことだらけだったけれど、慣れてくるにつれ、この場所は自分にとってどんどん居心地の良い場所に変わっていった。
けれど、その居心地の良さに――はおののいていた。
ここは、自分にとっては泡沫の世界なのだ。いつかは元の世界に帰らなければならない。
それなのに、迎えてくれる優しい笑顔や、触れる暖かい手のひらがあまりに心地よくて、この世界こそが自分がいるべき場所なんだと錯覚しそうになっている自分が……はたまらなく怖かった。
揺り籠のように優しく自分を包んでくれるこの世界があまりに魅力的で。の中で、元の世界への執着心が日増しに薄れていく。
旅団の皆や――イオスが向けてくれる、代償を求めない優しさ。それは、元の世界で自分が何より渇望していたものだった。
あの世界では、無条件にただ慈しんで欲しいと、もっと優しくして欲しいと願って必死に模索していた。けれど、どれだけ頑張っても望むそれは得られなくて。
なのに、この世界ではいとも簡単にそれが手に入ってしまった。だから、自分はここに甘えてしまうのだろう。
けれど、と。はどこか諦めたように重く息を吐いた。
「でも……駄目だよね。ここは、私の世界じゃ……ないんだから」
そう、ここはあくまで「異世界」なのだ。
このままリィンバウムにいたら楽かもしれない。けれど、この居心地のよさが永遠に続くとは限らないのだ。突然自分が喚ばれたように……この先、何が起こるかわからない。ここが元々の生まれた世界でない以上、リィンバウムにおけるという存在は、あまりに不確定なものだ。
だから、居心地がいいからこそ、これはいつかは覚める夢なのだと思いながら過ごしていくべきなのだ。
今に慣れてはいけない。でなければ……この居心地のよさを失った時、きっと耐えられないだろうから。
――永遠は約束されていない。だからこそ優しいこの世界。
永遠ではないから……だから、この胸に湧き上がったあのひとへの想いも、外に出すわけにはいかないのだ。
恋 心なんて、不確かでもろく、儚いもの。そのくせ、外に持ち出したら大切な人の心を失ってしまうかもしれない力を秘めている、やっかいなもの。
だったら、 外に持ち出さなければ良いのだ。自分の心の奥底に閉じ込めて、気付かれないようにそっと消してしまえば、自分も含めて誰も傷つかない。
そうすれば、今以上のものを得ることはないけれど、今を失うこともないのだ。
いつかは覚めてしまう、今という夢の日々。 それでも、今を失いたくない。あの優しい笑顔を失いたくない。還る前に、この夢が覚めてしまうようなことはしたくない。
そして――もうこれ以上、この世界に執着してしまう原因を作りたくなかった。
今のままで、じゅうぶん。優しい日々と、それは永遠のものではないという覚悟。気持ちのバランスを保つにも、今の状態ががちょうどよかった。
……恋なんてしたら、そのバランスは崩れてしまうから。
だから、忘れる。数日前、月の下で感じたあの想いは……もう、忘れる。
……大丈夫だ。気持ちを閉じ込めるのなんて、あの世界で自分は得意だった筈。いつもいつもそうやって、我慢してきた。
だから大丈夫。
……大丈夫。
「……あ……」
――どのくらい歩いたのだろうか。ふと顔を上げた先、茂みの向こうに見慣れた金の髪が揺れていた。
「イオスさん……」
座り込んで木にもたれかかりながら、愛用の槍を手入れしているイオスがそこにいた。の姿にはまだ気付いていないのか、無心に手にした布で槍の矛先を磨いている。
反射的にその場から逃げ出しそうになって……ははたと足を止めた。
そして、自嘲気味に笑う。
――この想いは閉じ込めると決めたではないか。大丈夫だと自分に言い聞かせたばかりではないか。
いつまでも逃げているわけにはいかない。大丈夫なのだから……今まで通り、接しなければ。
すぅ、と深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
……大丈夫。
「――イオスさん」
溢れそうになる想いを閉じ込めて。はイオスの名を呼んだ。
END
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