call my name
 ――昔の、恋人と。同じ名前なんだ。――


 昔の。
 ムカシノ。


 コイビト ト オナジ  ――……




 あの、優しい瞳で。彼はそう言った。







◆◆◆






「……おい。なんて顔してるんだ」

 頭上から、困ったようなイオスの声が聞こえて。飛びかけていたの思考が現実へと引き戻された。
 はっと顔を上げれば、イオスがなんとも気まずそうに眉を寄せてこちらを窺っている。

 一体自分は、どんな情けない顔をしていたのだろうか。にはわからなかった。

「呆れただろ?」

 自分でも、さすがにちょっと女々しいことをしているなとは思っているんだけどね、と苦笑するイオスに、は慌てて首を振り否定の意を示した。

「ち、違うんです。そんなこと思ってないです。
そうじゃなくて、そうじゃなくて……あの……」

  呆れたわけではないのだ。決してそういうわけではないのだが、じゃあ何なのかと問われても、とにかく頭が真っ白になってしまって言葉が出てこない。意味も無く泣きそうになって、はぎゅっと手のひらを握り締めた。

 少し俯き眼を閉じて、落ち着け、落ち着けと頭の中で呪文のように繰り返す。湧き上がった混乱をなんとかしゃべれる程度にまで押さえ込むと、やっとの思いで口を開いた。

「……そうじゃ、ないんです。 ちょっと、びっくりしちゃって……。
もちろん、イオスさんほどのひとに、恋人がいるのなんか、当たり前なんですけど」

 ここでイオスは、「いる」じゃなくて「いた」だけどな、とささやかな否定の言葉を挟んだのだが、小さく囁かれたそれは気持ちを落ち着かせようと必死になっているの耳には届かなかった。


「それで……あの。
その人も――亡くなられたんですか?」

 鎮魂の白い花とともに植えられているということは、そういうことなのかと。しかし、の問いにイオスは意外にも否、と首を振った。

「――いや、彼女とは配属部隊が違ったから。
……もっとも、向こうも卒業後は――ああ、彼女も軍学校の同級生だったんだけれど――軍人になっただろうからね、そういう意味では、今も確実に生きているという保証はないけれど」

 じゃあどうして、と不思議そうに揺れる瞳で問う少女に、イオスはただ小さく笑って見せた。

「この……ロゼの花を植えたのは、それこそただの自己満足だよ。
――彼女にも、謝らなければならないからね」

 突然の敗北。そして始まった異国での生活。
 あまりに様変わりしてしまった自分を取り巻く環境についていくのが精一杯で。
 出発前、またな、と別れた同級生の恋人――ロゼッタのことを思い出したのは、ようやくデグレアでの生活に少しは慣れ、心にわずかばかりのゆとりが出来た……敗戦の日から二ヵ月後のことだった。

 思い出したところで、けれど今更どうしようもない。
 手紙でも書こうかと思ったが、やめた。戦死扱いに(しかも国の都合で)なっている人間から連絡が来たりしたら彼女をややこしい事態に巻き込みかねないし、何より、どのみち自分はもう祖国には戻れないのだ。だったら死んだと思って忘れてくれた方が彼女のためにもいいだろうと……そう思った。

 そうして過去の想いにひとり終止符を打ち、デグレアで忙しい日々を過ごして――黒の旅団への配属が決まった二年前のこと。本格的にルヴァイドに仕えることを受け入れてしまった後ろめたさから、同朋に捧ぐこの花園を造ろうと思いついた時、植える花を探すうちにロゼの花の存在を知った。
 それは、かつての恋人の愛称。懐かしいその名前に、自分が謝らなければならない相手がもう1人いたことを思い出して……イオスは、花園の片隅にこのマゼンタの花を植えたのだった。




 とつとつと過去を語りながら、ロゼの花を見つめるイオス。
 花を通して、幼い恋を思い出しているのだろうか……その瞳があまりに柔らかで、優しくて。
 唐突に、の心にある疑問が氷の矢のように突き刺さった。




 花を見る彼の瞳に浮かぶ優しさが示すもの。
 それは、ただ学生時代の恋への懐かしさなのか、それとも



 ――その女性(ひと)への、愛情なのか。





(――っ……!)

 その可能性に気付いた瞬間、ははっと身を硬くした。
 イオスが、まだその相手に想いを寄せているかもしれないということ。理不尽な形で引き裂かれてしまったかつての恋……当然、有り得る話だ。

 だけど、もし。



 そうだとしたら。だとしたら、自分は――……。





「……イオス……さんは……」

 声がわずか、震える。
 ずきずきと、茨の蔦で締め上げられているように心が痛む。
 聞いてはいけないと、の中の何かが強く警告した。けれど、吐き出さなければ苦しくて苦しくてどうしようもなくて。
 はその怖れを、口にしてしまった。


「……今でも……。

その人のことが、好きなんですか……?」


 言葉にした瞬間、絶望を覚えるほどに後悔した。
 一体自分は、何をやっているのだろう。何で、こんなことを口にしているのだろう。

 どうしてこんなに、今。自分で聞いたくせに、彼の答えを聞くのが怖くて、逃げ出したいくらいに足が震えるのだろう。どうして。

(なに……。
何なの、 なんなの、わたし……!)

 わけのわからない感情がぐるぐると渦巻く。甦る混乱が顔に出そうで、はうつむき足元の地面を見つめた。




 混乱する少女の横で、イオスは参ったなとわずか肩をすくめた。
 ――君が、それを聞くのかと。柘榴の瞳が困ったように揺らめき、うつむく少女の黒髪を見やる。
 複雑な心中をあらわすかのように、青年はひとつため息をついた。


「――いや。
五年も、経ってるしな。その辺のケリはつけているよ」


 耳に届いたイオスの言葉に、はほっとしたように強ばっていた身体の緊張を解く。
 けれど、彼の答えに自分が安心しているという事実に気がついて愕然とした。

 ――これでは、まるで。まるで自分は、その答えを望んでいたようではないか。



(……私……?)



 再び思考が堂々巡りに陥りそうで、は慌てて湧き上がる混乱を無理矢理頭から振り払おうとした。
 黙ったりしたら変に思われる。何か話さなければと思うのだが、けれど言葉が、出ない――。





「まあ、花なんか植えてたら、誤解されるのも当たり前か」

  黙り込んでしまったに気まずさを感じたのか、イオスが取り繕うような口調で言った。

「デグレアに来て、いろんなことがあったからね。
向こうには、申し訳ないと思うけど……過去の話になってしまった、かな」

  必死で動揺を押しとどめたがようやく顔を上げる。過去、という言葉に、少し戸惑ったように首をかしげた。

 過去の話、と彼は簡単に言うが。こうして同じ名前の花を見つけてきたりする辺り、きっとそれなりに良い恋だったのだろう。だったら。

「……会いたい、とか……思わなかったんですか?」

  の問いに、イオスはうーん、と考え込んで空を仰いだ。

「まあ……、一度も会いたいと思わなかったとか言えば、嘘になるけど」

 でも、彼女に会うために逃げ出そうとか、そういう考えには及ばなかったなあとつぶやいた。

 会いたいと思ったことは、何度かある。どうしているだろうと気になることも。
 けれど、たとえば――復讐を果たして、いつか必ず帰るから――とか。そんな甘やかな嘘を思いつけるほど、当時のイオスは大人ではなかったし、そこまで熟した恋でもなかった。
 薄情だとは思ったが、あの頃はもう本当に自分のことで精一杯で、とても遠い地に残した恋人に焦がれるような余裕は無く……結果、ロゼッタへの想いは時とともに薄れていったのだった。
 要は、子供だったということなのだろう。いろいろな意味で。


「我ながら、ひどいヤツだと思うけどな」

 自分自身への呆れを口にするイオスに、何て答えてよいかわからずは曖昧な笑顔を浮かべる。
とんでもない出来事が起きて、恋心にまで気が回らなくなるというのは自分にも身に覚えがあったから、イオスの気持ちはなんとなく、わかる気がした。


それでも、きちんと別れも告げられないままだったから……さすがに、申し訳なくてね」

 それがこの花を植えたきっかけかな、とイオスは言った。



「そう、ですか……」

 複雑な感情がぐるぐると交錯して。一体どうしてなのかわからないその混乱を彼に悟られることのないよう、はあふれ出そうな感情を必死に押し殺しながら言葉を探した。

「で、でも……あの。
イオスさんはそう言っても……もしかしたら、もしかしたらね。待っているって可能性は、ないんですか?
そのひと……ロゼッタさん、が。イオスさんを」

 すると、イオスはくすりと笑った。

「いや。それはないよ。
――僕がこう言うのはおかしいのかもしれないけど、過去にいつまでも拘るような……そういうタイプじゃなかったからね。ちゃんと、とっくに、新しい道を切り拓いていると思う」
「そ……そうなんですか?」

  妙に自信ありげな、見方によっては少々傲慢とも取れるイオスの答えにがきょとんとした表情になる。イオスはうんと頷いて見せた。

「気が強いヤツだったから。絶対、めそめそなんかしてないよ」

 口ではとても敵わなかったかつての恋人の勝気な笑顔を思い出し、イオスの口許が楽しそうにほころぶ。
 名家の生まれでありながら、それに甘んじることなく常に理想の騎士像を目指して鍛錬に励んでいた彼女。誇り高きあの令嬢がいつまでも過去の男になど固執しないであろうことは容易に知れた。
 勝手なこと言ってるんじゃないわよ、と文句のひとつも聞こえてきそうな気がしたが……けれどイオスには、ロゼッタが自分よりいい相手を見つけて明るい人生を歩んでいるであろうことへの確信があった。

「負けん気が強くて、自信家で……。絶対に後ろを見て悩んだりしない、強いヤツだった。
明るかったから本当に、誰からも好かれてて」

 孤立していた自分に同世代の輪に入るきっかけを作ってくれたのも彼女だった。むしろ、恩人と言った方が良いのかもしれない。
 屈託無く笑うロゼッタの周りにはいつも明るい笑いが絶えなかったことを、よく覚えている……だから。



「――だから。
彼女は、僕がいなくても大丈夫なんだ。絶対に」



 そうだろう? とでも言うように。イオスは、まっすぐに咲き誇るロゼの花を見る。





 そうやって過去の恋人の話をするイオスは、どこか誇らしげで。
 ――イオスにここまで想われる女性とは、一体どんな人だったのだろうと。気の遠くなるような切なさを抱えながら、は微笑む青年の横顔をただ見つめることしか出来なかった。







◆◆◆






「――今の話。オーレイヴ殿には言うなよ、絶対に」
「……え?」

 ふいにかけられた言葉にが間抜けな声を上げる。不思議そうに瞬きをする少女に、イオスは、かのご老体にロゼの花のゆえんは話していないんだよと告げた。

「……もし、知られてみろ。一生からかわれ続けるぞ僕は」

  それだけならまだしも、きっと、他の人に黙っていて欲しかったら――とかあのにんまり笑顔で脅されて、医療書庫の整理やら薬品の選別やら、面倒な雑用を山のように押し付けられるのが目に見えている。それだけは絶対に、勘弁願いたい。
 君の口の堅さを頼りにしてるからな、と言うイオスに、先ほどの老人とのやりとりを思い出したは思わずぷっと吹き出してしまった。

 ずっと緊張したように強張っていた少女の顔に笑顔が戻ったのを見て、イオスはどこかほっとしたように頬を緩めた。
 ――どうも今日は、あれこれ喋り過ぎてしまった気がする。重い話を延々聞かされて、彼女も息が詰まったことだろう。

「なんか……悪かったな。つまらない話を聞かせてしまって」

 ごめん、と目を伏せる青年に、はいいえと静かに首を振った。

「そんなことないです。
ええと……イオスさんのこと、色々知れて……ちょっと嬉しかったです、よ?」
「……そうか」

 そんな会話の中で視線が合えば、いつものようにお互い柔らかく微笑む。



 ――けれど、目の前の少女の見慣れた筈の笑顔に、わずかな寂しさが混ざっていたことに。
 イオスはこの時、気付くことができなかった。





「――さて……僕はそろそろ戻るけれど。君はどうする?」

 ルヴァイドに話があったことを思い出したイオスが視線を城の方へと向ける。問われたは、少し考えてからこう言った。

「私はもう少し、ここにいます」

 お花、もうちょっと見ていたいので、と言われ、イオスは一瞬照れくさそうに目を細めたのだが、特に反対することも無く、そうか、と頷いた。

「――ああ、そうそう。今日の夕食な、皆で街に食べに行こうって話になってるんだ。
城下に僕らの行きつけの鳥料理屋があって……遅くなったけど、そこで君の歓迎会をやろうって」
「歓迎会?」

 思いがけない言葉にが目をまるくする。

「やってなかっただろ? 君の歓迎会。
ずっと野営続きだったから機会がなかったけど、せっかくデグレアに来たんだしな。
君にうまいもの食べさせるんだって、アル達が張り切ってたぞ?」

 会議が終わるなり予約を入れに飛び出して行った、普段とりわけに構いたがる(上司の厳しい目があるためあまり実行できていないが)若い団員達の様子を思い出しイオスが笑う。
 だから早めに戻っておいでと言われ、も嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、またあとで、な」


 そう言って、イオスはいつものようにの頭をするりと撫で、彼女に背を向ける。
 彼の瞳は、いつも通り――そして、あのロゼの花に向けられたのと同じように。深く、優しかった。








◆◆◆







(――何を、やっているんだろうな。僕は)

 傾き始めた日差しの中。城への道を辿りながら、イオスは自嘲気味に笑った。

 ルヴァイドに関する過去のことは、いずれ彼女にも話すつもりでいた。けれど、ロゼッタのことまで話す必要はなかっただろう。
 花のことを問われても、いくらでも誤魔化すことは出来た筈なのに。何を自分は、馬鹿正直に全て話してしまったのだ。

 確かに、誰かに胸の内を全て打ち明けて楽になってしまいたかったというのもある――けれど。

(……いや。それだけじゃない……僕はわざと、彼女に話したんだ。ロゼのことを)

. あの花は?と彼女が口にした時。心にふっと、ある思いが浮かんだ。


 ――過去の恋人のことを話したら。彼女は、嫉妬してくれるのだろうか、と。


(子供か、僕は……)

  昔の話をすることで、相手の気持ちを垣間見ようとするなんて。思春期の恋愛じゃあるまいし、あまりに幼稚で、愚かすぎる。
 そして、そんなことをしてしまうほど深みに嵌っている自分に気がついて。イオスはなんだか可笑しくなってしまった。

(……アイツの時は、もう少し上手く振舞えてた気がするんだがな……)

 なあロゼ? と心の中で問い掛けてみれば、あたしにそんなこと聞かないでよと、耳の奥で懐かしい声がする。



 ふいに、もう一度の姿を見たくなって。けれど、どうにも今日の自分は女々しいことばかりしている気がして――イオスは、苦笑しながら振り返りかけた身体を前へと戻した。






◆◆◆





 イオスの姿が木立ちの向こうに見えなくなってから。は、重い足を引きずるように花園のそばへと歩み寄った。
 ロゼの花の前で足を止め、こちらを向いて咲くマゼンタ色の花弁を見下ろす。


 改めて見ても。本当に美しい花だ。

 本当に、綺麗な――……。




(――っ!)


 ……一瞬。まるで勝ち誇ったように咲くこの花をむしりとってやりたい衝動に駆られて。そんなことを思った自分に愕然とし、次の瞬間、はへなへなとその場に崩れ落ちた。

 へたりこんで、手元にあった短い芝をぎゅっと握り締める。

 この気持ちは一体、何なのだ。イオスの大事な花なのに、どうしてこんな恐ろしいことを考えるのだ、自分は。
 どうしてなのかわからない。けれど、視界に入る、あのマゼンタの色が、たまらなく忌々しくて。


 これでは、まるで。





 ――嫉妬だ。





「…………っ!」

 ――そう。これは、嫉妬だ。
 イオスの告白を聞いた時からずっと渦巻いていたこの感情を、ようやく嫉妬なのだと認識して。の頬を一筋の涙が伝った。


 ――悔しかった。イオスが、あんな優しい瞳であの花を見ることが、たまらなく悔しくて、悲しかった。


 リィンバウムに来てからずっと。イオスのあの優しい眼差しは、ずっと自分だけに向けられるものだった。 包み込むようなあの深く優しい赤は、ずっとだけのものだったから。彼にそんな瞳を向けてもらえるということが嬉しくて……同時に、ささやかな優越感に浸っていた。彼にあんな瞳をさせることが出来るのは、自分だけなのだと。

 けれど。それはただの驕りだった。あの瞳は自分だけに向けられるものではない。それどころか、自分なんかよりずっとずっと前から、彼が慈しみ大切に見つめる存在があったのだ。

 涙で滲む視界の向こうにマゼンタの色が揺れる。

 ――イオスは、もう過去のことだと言ったけれど。それでも、自分の知らない彼を知るかつての恋人は、イオスの心に今でもこんなにあざやかな花を咲かせているのだ。そういう存在が、彼にはあるのだ。
 この美しいロゼの花にくらべたら、自分なんて道端で踏みしめられ霞み消えてゆく名も無き花のようで。そんな悲しみに囚われるくらい、この花の美しさはの心を打ちのめした。


 ……いやだ。こんなのは嫌だ。
 彼には自分だけを見ていて欲しい。過去も未来も、あの優しい微笑みは自分だけに向けられるものであって欲しい。
 独り占めしたい。あのひとのことを、あの笑顔も声もぬくもりも、みんな、みんな。





 ――彼が、好きだから。




「……わた、しっ……!」

 ――ずっと。あのファナンからの帰り道、月明かりの下で感じた時からずっと、心の奥底に閉じ込めていた感情が今、堰を切ったように溢れ出した。
 もうこれ以上、自分の心に嘘はつけない。気のせいだと偽って押し込めている間に、彼への想いはもう取り返しのつかないところまで大きく膨らんでしまった。
 過去に嫉妬して、切なさに涙するほど。自分はイオスのことが、好きなのだ。


 ――好きなのだ。




「……っく、……えっ……」

 震える唇から嗚咽が漏れる。濡れた黒い瞳から大粒の涙が溢れ出す。


「――う、うわあああん……!」


 突然、まるで童女のように声を上げて泣き出したにびっくりした護衛獣が、慌てて勝手知ったるご主人様のポケットからハンカチを引っ張り出し、座り込む少女の膝によじ登って頬に流れる涙を必死で拭う。
 テテにハンカチで頬をごしごしやられながら、それでもはただ泣きじゃくり続けた。



 ――気付きたくなかった。彼のことを好きだと、気付きたくなかった。



 だって、気付いてしまったらそこで終わりだ。普通の恋する少女のように、いつか両思いになる日を夢見るとか、そんなことすら出来ない。生まれた世界さえ違う自分達の未来にそんな可能性があるとはとても思えないからだ。あまりに何もかも、違いすぎる。

 ここは、異世界なのだ。それを忘れずに、もっと注意深くしていなければいけなかったのに。
 彼の優しさに浮かれて、有頂天になって、恋までしてしまった。

 イオスが優しいのは、自分を召喚してしまったという責任を感じているからなのに――いつのまにか、心のどこかで、別の期待をして。勘違いをしている自分がいた。

 ――彼は、自分を帰す方法を今も探している。それが、彼の気持ちを何よりくっきりと物語っていた。
無論約束したからということもあるだろうが、もし仮に、イオスが少しでもを恋の対象としてみているのなら、帰したくないと思う筈だ。そうでないということは、やはり自分はイオスにとって「保護」や「責任」の対象でしかない。彼の優しさに、こちらが望むような想いは含まれていないのだ。

 ……それなのに。恋におちたりして――本当に、馬鹿だ。



 好きになっても。その先に道は無かった。
 想いを伝えることが出来ないのなら、あとはただ消していくしかない。
 前進は、ない。待っているのは、必要なのは、後退のみだ。
 だけど、こうなってしまったらもう、簡単に忘れることなんか出来なくて。



 それをわかっていたから。だからずっと、ガラス瓶に閉じ込めて、心の奥底に眠らせていたのに。
 こんな形で割れてしまった瓶から零れ出た感情は、ただ悪戯にの心を掻き乱す。


 ――どれほど、好きでも。彼の全てを手に入れることは、出来ない。この先も、きっと。


 わかっているのに。それでも、涙のせいでもうまともに見えない瞳の先に浮かぶのは、こんな時でもやっぱりあのひとの笑顔で。それが、欲しくて。
 切なくて、苦しくて。もうどうしようもなくて。



「……どうしたらいい……?
テテ……ねえ、わたしどうしたらいいの……?」


 救いを求めるように、すがりつくように。少女は護衛獣のやわらかな身体をきつく胸に抱きしめる。
 顔に、肩に、ぽたぽたと主人の涙を受けて、どうしたらいいかわからずテテはただおろおろとするばかりだった。




 やっと保っていた心の枷を粉々に砕いてしまったロゼの花。そのあざやかなマゼンタをもう見たくなくて、は泣きはらした瞼を閉じる。



 ――イオスへの想いも何もかも。止まらない涙とともに流してしまいたかった。






第11夜 END