call my name
 デグレアに戻ってからというもの、彼女と顔をあわせる時間がめっきり減っていた。

 野営中はほとんど一日中一緒にいるようなものだったが、国に戻ってみれば特務部隊隊長という立場の自分にはあれこれと仕事が待っている。軍事訓練のほか、机上の雑務もかなりのものなのだ。

 そんな中、頭を抱えながら作成した会議議事録を片手に、そういえば今日はまだ彼女に会っていないな……などと思っていた矢先、イオスは偶然にもの姿を目撃することになる。


 ――上司、ルヴァイドの執務室で。
第12夜 理解者
「ルヴァイド様、昨日の会議の書類を――
……?」

 上司の執務室。応接セットのソファに腰掛け、真剣な面持ちで本を読むの姿を見つけてイオスがわずか眉を上げる。どこにいるのかと思えば、こんな所に……。

「イオスさん」

 本に夢中になっていたらしい少女は、突然名を呼ばれて驚いたのか目を大きく見開いた。

「また、本読んでたのか」

 ルヴァイドに書類を渡したイオスがの座るソファの右隣――左隣では、テテが少女に寄りかかってすやすやと寝息を立てていた――へと腰を下ろす。の膝の上には、細かい文字のびっしり詰まった分厚い本が広げられていた。
 そのタイトルを覗き込んで、イオスがうっと顔をしかめる。

「『デグレア軍法大系譜』?
……軍法解説書じゃないか、これ」

  軍に関る法律や裁判の歴史などを綴ってある書物。あまりに難解な言い回しで書かれているそれに頭痛を覚えた経験のあるイオスはぎょっとしたように目の前の少女を見やった。

 ――リィンバウムの文字を覚えたいと言って、ついこの間まで絵本片手に一生懸命文字を追っていたはずの少女が、いつの間にこんなものまで読めるようになっていたのだろう。

 まじまじと見つめてくる青年に、は戸惑ったような、照れたような表情を浮かべた。

「いえ、あの。
せっかく時間があるから、軍のこととかね、勉強しようって思って……」

それで、軍関係の書物が揃っているこの部屋に邪魔しているのだと。そう言っては小さく笑った。



 「名も無き世界」から召喚された存在である。おそらく元の世界とリィンバウムとではしゃべる言葉も違うのだろうが、幸い召喚獣には術が絡んだ時点で何かしらの力が加わるらしく、会話そのものは当初から全く不自由しなかった。
 しかし、話すことは出来ても読み書きは出来ないらしい。それに気付いて以来、少女は時間を見つけてはこの世界の文字を勉強していたのだ。イオスやルヴァイド、ゼルフィルドを始め、旅団の誰かしらに教わりながら。

 たどたどしく文字のひとつひとつを追うその姿はまるで小さな子供のようで、それを横から眺めている穏やかな時間がイオスはわりと好きだったのだが――少女は驚くようなスピードで全てを吸収していった。結果、今ではこんな本を読むまでに成長している。

 この様子では、もうあんな風に自分が彼女に読み書きを教えたりする必要もないのだろうな、と。そんなことを思ったら、何だか一抹の寂しさを覚えるイオスなのだった。



「――でもな、。あんまり無理するな。
この前も図書室にこもって夕食を食べ忘れたって女官から聞いたぞ」

  元来本好きであるらしいこの少女は、一度本に夢中になると時間を忘れてしまうらしい。
 デグレアに来てからは、炊事だとか洗濯などという日常の雑務から解放されたせいで時間を持て余しているらしく、ついつい本に走っているようなのだが、イオスとしては少々心配だ。

「勉強もいいけどな。
せっかくデグレアに来ているのだから、買い物に行ったりとか……もっと、遊んでいいんだぞ?」

  レルムで召喚してしまって以来、少女にはずっと不自由な野営生活を強いてきた。それがようやく街中で過ごせるようになったのだから、今まで我慢してきたぶんも含めにはもっとのびのび過ごして欲しいのだ。

「本当は僕が色々連れ出してやりたい所なんだが、ちょっと仕事が立て込んでてな……。
また後で面白い場所とか教えてやるから、女官達と行っておいで」

 眺めのよい公園とか、ミュージカルの公演をやっている劇場とか、美味しい卵料理の店とか。いくつかめぼしい場所の名前をあげ、イオスは少女の頭をポンポンと撫でる。
 黙ってイオスの手を受ける少女は、はいと頷きながらもどこか困ったように視線を落とした。


 ――いつだって、こうやって。イオスはを気遣って、優しく接してくれる。
 一方的に慈しまれることへの悦び。それはとてもとても心地のよいものなのだが……その心地よさは、今のの心に大きな影を落とすのだった。

 ……彼を好きだと、気付いてしまった自分には。まるで恋人を気遣うかのように優しく触れるその手のひらがどうしようもなく危険なのだ。

 そうでは、ないのに。暖かい手にくらりと一瞬、甘い夢を見て錯覚しそうになる――……。




「――イオス」

 様々な想いが交錯して。どうしたらいいかわからなくて思わずぎゅっと目を瞑ってしまったの耳に、ルヴァイドの低い声が届いた。
 イオスが持ってきた書類をパラパラとめくりながら、ルヴァイドは視線を上げぬまま部下に指示を出す。

「これにトライドラ側の予想戦力データを加えて、明日の資料にしてくれ。
次の会議には財務卿も来るようだから……二十人分だ」
「あ、はい。わかりました」

 柔らかだったイオスの表情がすっと仕事用のそれに戻る。
 ルヴァイドから書類を受け取ったイオスは、じゃあなとに軽く手を振って上司の執務室を後にした。






◆◆◆






 イオスの背中が消えた扉を見つめていたの口から、はあ、と重いため息がもれた。
 切なく締め付けられる胸の内。好きだと認めてしまって以来、どうにも落ち着かないこの心をもう少しなんとかしなければ、この先とてもやっていけない。
 いっそ誰かに全て打ち明けてしまえれば少しはすっきりするのだろうが、旅団の隊長様を好きになってしまいましたなんてそんなこと、一体誰に話せるというのだろう。

(まいった……なあ……)

 最近本を読み漁っているのだって、もちろん戦の前にきちんと勉強しておきたいというのは本音なのだがもうひとつ、彼のことを考えたくないからというのも大きな理由だったりする。
 本にのめりこんでいれば、その間だけはイオスのことを考えなくてすむからだ。
 そうしてどうにか自分の想いをなだめようとしているのだが。こんな風にふいうちでばったり会ってしまうとやっぱり胸がいっぱいになって、結局些細な努力なんて水の泡と化してしまう。

(……なんか、泣きたい……かも)

 疲れたように肩を落として再びため息をつく。
 けれど、なんとかしてこれを乗り越えなければならないのだ。別にこれが初恋というわけでもなく、勝手がわからないわけでもない。いつまでもおろおろしていないで、しゃんとしなければ……。




「――大丈夫か?」

 ひとり考えに沈んでいたは、ルヴァイドの声にはっと顔を上げる。
 大量の書類を片付けていたはずのルヴァイドは、いつの間にか羽ペンを動かす手を止め、どこか気遣わしげな目をしてこちらを窺っていた。

「え?
わ……私のこと、ですか?」
「ああ。
……泣きそうな顔をしているぞ」

 ずばり、指摘されて。は言葉を失った。
 出来るだけ顔には出すまいと努力しているつもりだったのに、見え見えだったらしい。
 なんとか取り繕おうとして、しかし何も言えなくなってしまった少女の様子を見たルヴァイドは、ひとつため息をついて執務机の上に頬杖をつくと、こう言った。



「好きなのだろう? ――イオスのことが」



「……っ……!?」

 あまりにはっきりと口に出されてしまって。ルヴァイドの言葉に、の頭の中は一瞬にして真っ白になった。

 ……どうして、わかったのだろう。

 否――確かに、赤くなったりうろたえたり、自分の感情は馬鹿みたいにわかりやすいのかもしれない。

 けれど、駄目だ。イオスに近い誰かにこの感情を知られるわけにはいかない。戦を控えたこの大事な時期にこんな浮ついた想いを抱いているなんてそんなこと、絶対に絶対に、知られたくない――!


「ちっ、違……違うんです、そんな――……!」

 否定の言葉を述べようと、慌てたが思わずソファから立ち上がる。
 しかし、その拍子に膝に置いていた本が滑り落ち、厚く重いその角がしたたかに足を打った。
 甲を打つ鋭い痛みに、がぐっと顔をしかめる。

「――っ!」

 余りの痛みに再びソファに沈み込んでしまったのもとにルヴァイドが駆け寄った。

「……全く、何をしているんだお前は……!」

 呆れたような、怒ったような声でそう呟いたルヴァイドは、手際よく手ぬぐいを水で濡らすと赤くなってしまった少女の足に当てる。おそらく痣にまではならないだろうことを見て取ると、ようやくルヴァイドはきつく寄せていた眉を緩めた。

 足の痛みと、想いを言い当てられてしまったことと、ルヴァイドの手を煩わせてしまったことと。色んなことがいっぺんに起こってもうどうしたらいいかわからなくて、混乱したは駄々をこねる子供のようにただ何度も首を横に振った。

「……ちがうんです……ルヴァイドさま、ちがうの、ちが……」

 震える声でうわごとのように否定の言葉を繰り返す。
 ついには顔を覆って泣き出してしまった目の前の少女に、ルヴァイドは滅多に見せないような困り果てた表情になった。
 参ったなとでもいうように少し唇を噛むと、座るの前に膝をついてそっと少女の頭に手を置いた。

「別に、隠さなくてもいい。……悪いことではないのだからな」

 ゆるやかに髪を撫でつける大きな手と静かなルヴァイドの声に、ようやくが顔を上げる。涙の揺れるその黒い瞳を覗き込んで、再びルヴァイドが言った。


「イオスが、好きなのだろう?
そのことでお前が困っているように見えたから尋ねたのだが――違うか?」


 ……たとえば、ここでが否と言えば。ルヴァイドならもうそれ以上追及しなかっただろう。
しかし、は。迷って迷って、長い間ルヴァイドの瞳を見つめた後――まるでうなだれるかのようにこくりと一回、頷いた。

 ――隠せないと思ったのだ。ルヴァイドのこの深い瞳の前には、とても。


「……ごめん、なさい……」

  謝罪の言葉を口にする少女に、ルヴァイドがフッと笑った。

「何も謝る必要はない。
あいつも大概、色男だからな……無理もないさ」

 茶化すような物言いに一瞬きょとんとしただったが、でも、と再び瞳を曇らせた。

「でも今、トライドラ戦の前で大事な時期なのに……。
勿論あの、このことを今どうこうしようとか思っているわけでは、ないんですけど」
「……人を好きになるのに、時期も何もないだろう?
お前は何も悪くないのだから、そんなに自分を責めるんじゃない」

 どうにも自責の念が抜けない少女の髪を撫でながら、ルヴァイドが諭すように言う。

 そう、恋をすることには何の罪もないのだ。ただ――。

「……色々と。状況が悪いのは、確かだがな……」

  ふう、とひとつため息をついてそう呟くルヴァイドに、も力なく頷いた。


 そう。この少女が恋をするには、今旅団を取り巻く環境はあまりに厳しかった。
 失敗続きの旅団に対し、元老院の目はかなり厳しくなっている。のことはレイムから話がいっているらしく今のところこれといって言及されてはいないが、この状況でとイオスが恋仲にでもなったりしたらさすがの元老院も黙ってはいないだろう。任務中にも関らず不埒な、と、イオスが特務隊長から降格される可能性だってある。

 それに、この少女をイオスにとって公私共に認める「特別な存在」にしてしまうことが、ルヴァイドは不安だった。

  ――自分が、父への想いを利用されているのと同じように。彼女はイオスの枷になる。
 あの男――レイムが、必ずそう仕向けるだろう。
 も、イオスも。傷つくだろう……身も心もきっと。

 だから――……。




「すまないな。
こんな状況でなければ、協力のひとつもしてやりたいところなんだが……」

 申し訳なさそうに目を伏せるルヴァイドに、がゆっくりと首を左右に振った。ごしごしと涙を拭いて、無理矢理笑顔を作ってみせる。

「そんな。ルヴァイドさまこそ、謝らないで下さい。
私なら大丈夫です。ちゃんと、わかってますから。何とかしますから、だいじょうぶ……」
「……とても、大丈夫には見えないが」

  実際、本当はどうしたらいいのか当ても無かったは、ルヴァイドの指摘に言葉を詰まらせてしまう。
 辛そうに顔をゆがめる少女に対し、ふいにルヴァイドは優しく微笑んでみせた。


「他には、何もしてやれないがな……。
。……辛くなったらいつでも、俺のところに来い」

「ルヴァイドさま……?」

 言われた意味がわからず、が不思議そうに首を傾げる。

「ひとりで抱え込んでいたら辛いだろう?
いつでも話しにくるといい――俺だって、お前の話を聞いてやるくらいの余裕は、持ち合わせているぞ」

 誰かに話すだけでも、いくぶん楽になるだろうからとルヴァイドは言う。
 突然の申し出に、びっくりしてしまって。しばらく呆けたように目の前にある顔を見つめていただったが、しばらくしてその瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ出した。

 この恋が、悪いことではないと。辛いなら吐き出していいと優しい言葉をかけられて、の中で張り詰めていたものがぷつりと切れる。

 ――つくづく自分は、この世界で恵まれている。切ない想いを抱えても、こうやって救いの手を差し伸べてくれるひとが、そばにいる。
 こんなに、幸せなのだ。だから、たとえこの恋が叶わなくたって、自分はちゃんと生きていけるはずだ。
 この上、イオスの心まで手に入れたいなんて願ったりしたらそう、ばちが当たる――。



「ごめんなさい……ルヴァイドさま……
ありが……っく、ふえっ……」

 堰を切ったように溢れる涙を止められなくて、嗚咽とともにが肩を震わせる。
 再び泣き出した少女の横では、いつの間に目覚めていたのだろうか、テテがまるで「自分もいるぞ」とでも言うようにぎゅっとの腰にしがみついた。

「テテ……も。ありがと……ね……」

 泣きながらそう言う主人に、テテはこくこくと頷いた。
 そんな彼女に、ルヴァイドがまるで痛々しいものを見るかのような視線を向ける。

 ……本当なら、この年頃の少女にとって恋は何より楽しいものであるはずなのに。 見知らぬ異世界で突然舞い降りた恋に涙するの姿は、あまりに哀れで。
 そもそも、自分が聖女を取り逃がしたりしなければ……任務が成功していれば、この娘がここまで悩む必要もなかったであろうことを思うと、ルヴァイドの胸に苦いものが広がった。


「我慢しなくていい。いつでもこうやって、泣いて構わないのだからな……」

  の頭を片手で包み込むようにして胸に抱き寄せる。
 しゃくりあげるその背中を、ルヴァイドは彼女が泣き止むまで繰り返し、撫でてやったのだった――。






第12夜 END