call my name
 にわかには信じ難い少女の告白に、ローウェン砦の応接室は波を打ったようにしんと静まり返る。

  スルゼン砦の門扉に結ばれていたというこの黒いリボン。その持ち主が、まさか敵国の少女だとは……。

  誰一人声を発することも出来ず、ただを食い入るように見つめることしか出来ない。

  少女の握り締めた手の甲に、ぽたり、ぽたりとこぼれ落ちる涙の雫。シャムロックの瞳には、それがどこか別世界の出来事のようにひどく現実味のないものに映った。


(……この子が?)


  何故、敵国の兵を弔ったのだろう。
  何故、そんな風に泣くのだろう。


  ―― 一体。どういうこと、なのだろうか。






◆◆◆






「――私がスルゼン砦に辿り着いた時には、もう誰も生きていなくて……」

  涙を拭うこともせずに。ただ肩を小刻みに震わせながら、少女は語った。

「確かにあの事件はデグレア側に非があります。どれだけ謝っても赦されることじゃないってわかっています。
でもあの事は……砦があんな結末を迎えたことを、デグレア軍の殆どの人が知らされていないんです。
僅かに知っている人達も、表立って口にすることは出来なくても、皆本当に申し訳ないと……悲しんで、悔やんでいて……」

  スルゼン砦の一件の後。デグレアに戻ってすぐ、事情を知る旅団員達に口外を禁止する旨の通達が下された。

  ――国の機密につき他言無用。
  お前達は最初から「何も見ていないのだ」……と。

  元老院議会による絶対の命令。逆らうことは許されない。

  またか、と。胸に苦いものを抱えながらも、以来イオス達は砦の話を口にすることはなかった。
  ……出来なくなったのだ。


  けれどは、その後度々あの雨の砦を夢に見ることがあった。
  ガレアノに無理矢理流し込まれた悲劇の真相は、彼女の記憶の奥底に深く染み付いて悪夢となり少女を苦しめていたのだ。

  ――だが。それは、誰にも打ち明けられないことだった。

  イオスに言ったら、彼は責任を感じてしまうだろう。
がガレアノに受けた仕打ちも、死んだトライドラ兵達のことも。 きっと彼は自分を責めるに違いない――けれどあれは、イオス達の力ではどうしようもなかったことなのだ。

  イオスだって傷ついているのに、ひとり弱音を吐くわけにはいかない。

  だからは、明け方恐怖に怯え飛び起きても、横で眠るテテをすがりつくように抱き寄せてずっとひとりで耐えてきたのだった。

  それでも最近は、ようやくその悪夢も落ち着いていたのだが……。


  ――けれど本当は、誰かに言いたかった。誰かに、謝りたかった。


  心の奥底に眠らせていたそんな想いが、シャムロックというトライドラの人間を前にしたことで、今堰を切ったように溢れ出していた。

  ――大事な交渉の場で泣きたくなんてないのに。……どうしても、涙が止まらなかった。


「デグレア軍が皆、あんな卑怯なことをするわけではないんです…・・・。
だからこそ、今度こそ、騎士らしく戦いたいと願ってこの交渉を」

  スルゼン砦の前で黙祷を捧げていたイオス、さっき自分を送り出す前、頼んだぞ、と言ったルヴァイドの顔。遡ればあのレルムの一件も……イオス達はいつだって、理不尽な任務に苦しめられていた。
  彼等だっては本当は、騎士として恥じぬ戦い方をしたいのだ。そして今回、その好機がようやく巡ってきたのだ。


  ――決して、皆があのガレアノのような人間ではないのだ。
  それだけは、信じて欲しかった。どうしたら信じてもらえるのだろう――……?


「……だか……らっ……
……どうか……!」

  ぎゅっと瞳をつぶって、はきつく握り締めた手を振るわせる。
  胸がいっぱいで、苦しくて。まだ言いたいことはたくさんある筈なのに、もうこれ以上言葉が出なくて、そんな自分が悔しくて歯がゆくてどうしようもなかった。




  ――涙に濡れた少女の独白。誰ひとり、口を挟む者はいない。
  静寂に支配された室内に響く少女のすすり泣きがようやく落ち着いてきた頃、何かの呪縛が解けたかのように――シャムロックは、長い長い息ため息を吐いた。
  頭痛がするのだろうか、こめかみを押さえた彼はしばらくの間天井を仰ぐ。それから、身を起こすと静かにの方へと向き直った。

  頭(こうべ)を垂れ、くすんと鼻を鳴らす少女の姿をじっと見つめて。シャムロックはぽつりとこう言った。

「……貴女はもう少し、自分が軍属だという自覚を持った方が良いのでしょうね……」

  思いがけないシャムロックの言葉に、顔をあげたの瞳に久しぶりに悲しみ以外の色が宿る。
  意味を図りかね、彼女は戸惑い何度も瞬きを繰り返した。

「……?」
「スルゼン砦に関する我々トライドラの抗議に対し、現在デグレアからの返答はありません。
つまり、貴女の国はあの件に対し肯定も否定もしていないのですよ。
なのに、一兵士の独断で真実を口にしてしまったら……

――それは、国に対する裏切りになるのではないですか?」

  どこかあわれみの混ざった声音で諭され、ははっと目を見開いた。
  言われた意味を理解し、少女は一気に青ざめる。
  無意識のうちに取り返しのつかない失態を犯していたことにようやく気付いたは、きつく唇を噛み締めた。


  ……何ということをしてしまったのだろう。


(イオスさん、ルヴァイドさま、
……私……!)



  ――言われてみれば。確かに、この敵将の言うとおりだった。



  ああ、とは目の前が真っ暗になる。
  絶望とはこういう感情のことを指すのだと、彼女はこの時初めて理解した。

  一体自分はどこまで皆に迷惑をかければ気が済むのだろう。
  悲しくて情けなくて、はもう今すぐ自分というこのあまりに愚かな存在を消し去ってしまいたい衝動に駆られた。



  うつむき、打ちひしがれる少女の様子にシャムロックは今日何度目になるであろうため息を漏らす。
  いくら敵国の兵士とはいえ、嘆く少女の姿は元来人の良いシャムロックの良心をしくしくと痛めた。

(もし万が一、これすら作戦なのだとしたら、敵ながら天晴れですけどね……)

  卑怯を通り越して完敗ですよ、と。そんなことを思いながら、シャムロックはやれやれと一度肩の力を抜いた。

「――自白させるような方向に話を導いた、私も悪かったですね」
「……え……?」

  ひとりごとのように呟かれたシャムロックの言葉に、まるで世界の終わりに直面したようなどん底の気分に陥っていたが驚いて顔をあげる。
  涙の跡が残る少女の顔と、周囲に控える部下達の顔とを交互に見比べて――シャムロックは小さく頷いた。

「――今のは、聞かなかったことにしておきます」
「えっ……!?
で、でも、それは――!」

  予想だにしなかった守備隊長の科白。
  何か言い返そうとした少女を首を左右に振ることで制して、シャムロックは改めて目の前に座るデグレアの少女の瞳を見つめた。

  未だ涙の乾かない、揺れる黒曜の色。
  泣いたせいで両の目は赤く充血していたが、それでもシャムロックはこの黒い瞳を素直に美しいな、と思った。

  年齢のせいか、はたまた彼女自身の心がまだ純真だからなのかはわからないが、少女の瞳から受けるのはただ無垢な印象。


  ――この瞳で。この子は、スルゼン砦の前でもこうやって……泣いたのだろうか。


  シャムロックはもう一度、手元に結わえたリボンへと触れた。

  ――決して、デグレアに対する猜疑心が消えたわけではない。
  けれど本当に、この少女がトライドラ兵の為に涙し、このリボンに祈りと想いを託したというのなら。

  ――瞳と、リボン。


  このふたつの黒を、信じても良いのかもしれない……。


  残された時間と選択肢は、もう限られているのだ。



「……さん、と、おっしゃいましたね」
「は、はい」
「――貴女の上官は、私の部下の命を預けるに値する……
信頼に足る、人物ですか?」

  何事か考え込んでいた様子の敵将から投げかけられた唐突な問いに、は一瞬きょとんとした表情を見せる。
  けれどすぐに、迷うことなく頷いた。

「はい――もちろんです。
これ以上余計な血を流したくないと思うから、だからこそ貴方と直接戦うことを望んでいるんです……!」

  必死に説明する少女の言葉を黙って聞き終えたシャムロックは、もう一度、何事か確かめるように並ぶトライドラの騎士達をぐるりと見渡す。
  その表情から部下達の答えを読み取ると、シャムロックは再び瞼を閉ざした。

  そのまま、数秒。深い呼吸を繰り返す。

  皆が固唾を呑んで見守る中、ゆっくりと開かれたシャムロックの鳶色の瞳には、ひとつの決意が浮かんでいた。


「……わかりました。
いいでしょう――休戦の交渉、お受け致します」


「――ッ!?」


  シャムロックの言葉に、ははじかれたように背筋をびくんと一度、震わせた。
  もう駄目かと思っていたのに。展開について行けず、少女は声も出ない。
  望む答えを出した筈なのに、ただ驚きの表情を浮かべて目をいっぱいに見開いている幼い使者殿が、シャムロックは何だか急に可笑しくなってしまった。

「デグレアを信じたわけではありません。
けれど……同朋を弔ってくれたことが、ひとりの人間として私は嬉しかった。
だから――貴女の言葉を真実として、貴女だから、信用しましょう」

  何度も触れたせいで解けかけていた手首のリボンをきゅっと結び直して。それに、とシャムロックは付け加えた。

「これ以上女性に泣かれるのは、困ってしまうのです。
騎士としても、男としても――ね」

  そう言ったローウェン砦・守備隊長の顔に浮かぶのは、本当に困ったような――それは自分に対してなのかに対してなのかはわからないが――やれやれといった感じの、笑顔。
  けれど笑ったその瞳は、意外なほど……がびっくりするほどに、人懐っこく優しくて。


  この笑顔で、きっとこの人はさぞかしたくさんの人に好かれ慕われているのだろうな、と。

  ――初めて見た敵将の笑顔を前に。はぼんやりと、そう思った。






◆◆◆






  戦場を、風が吹き抜ける。

  ローウェン砦を背後に、向かい合ったトライドラ軍とデグレア軍。
  護衛の任を終えたゼルフィルドがルヴァイドの横へと戻ったのを確かめてから、はふたつの軍の狭間に立つルヴァイドに歩み寄り、胸に手を当て静かに膝をついた。

「――ルヴァイドさまに申し上げます。
ローウェン砦守備隊長・シャムロック様をお連れ致しました」

  少女がとったのは上官に対する正式な礼の形。
  ルヴァイドの横にいたイオスは、複雑な思いで頭を下げる少女の姿を見つめていた。
 
  ――誰も教えてなどいないのに。いつの間に彼女は、こんな軍の儀礼など覚えたのだろう。

  彼女なりに気を遣った末の見よう見まねなのだろうが。彼女が軍に染まりつつあることを見せ付けられたようで、イオスの胸に苦いものが広がった。
  と同時に、ずっと気が狂いそうな想いで砦を見上げていたイオスは、少女が無事に帰ってきてくれたことに心底安堵する。
  一時はどうなることかと思ったが……何はともあれ、は無事に帰ってきた。しかも、約束どおり敵将を連れて。

  手を伸ばせば届く場所に、彼女は戻ってきたのだ。

  けれど、一騎打ちはこれからだ。
  本当は今すぐ駆け寄って抱きしめて怪我はないか、大丈夫だったかと確かめたいのを必死に堪え、イオスは平静を装うため槍を握る手にきつく力を込めた。
 

  交渉は成立。少女の言葉に頷いたルヴァイドは、の後ろに佇む男――シャムロックの前へと歩を進め、剣の刃先を大地に向け騎士の礼をとった。

「デグレア軍総指揮官・ルヴァイドだ。
休戦の提案を受け入れて頂き、感謝する」
「ローウェン砦守備隊長・シャムロックです。
――この一騎打ちをもって勝敗を決し、互いの兵士達はもうこれ以上争わせないという貴殿の提案、真(まこと)のものと受け止めてよろしいか」
「ああ。
これ以上の流血は、忍びない」

  真偽を見極めるべく。目の前に立つ敵将の顔から目をそらさずに、シャムロックは再び問いを発した。

「騎士の誇りにかけて、その言葉に嘘はないと誓えるか」
「勿論だ」

  じっとルヴァイドの瞳を見据えたのち。シャムロックは大きく頷いた。

「わかりました。
――貴殿との戦い、喜んでお受けする」

  そう言うと、シャムロックは先刻ルヴァイドが見せたのと同じ騎士の礼をとる。それは受諾を意味していた。


  ――双方の合意により、いよいよ正式に決定した敵将同士の戦い。

  これで、全てが決まる。
  勝つのはデグレアか、トライドラか。辺りの空気が痛いほどにぴんと張り詰める中、はひとり、交渉が成立したことにほっと胸を撫で下ろしていた。

  自分は、何とか。役目を果たすことが出来たのだ。

  とんでもない緊張感からようやく解放されて、安堵のあまり一瞬くらりと気が遠くなる。けれど問題はこれからなのだとは慌てて呆けかけた意識を引き戻した。
  いくら命を失うことはないとはいえ、これから始まるのは剣と剣とがぶつかり合う戦いである。当然はルヴァイドの勝利を信じて疑わなかったが、それでも勝ち負けが決まることで何かが大きく変わることになるのだ。ただ怪我をするとかそういう問題ではなく、どうしても実感がわかないのだけれど――もっと大きな何かが。
  戦争に勝敗がついたら、その後どうなるのか。見たことのないそれがには恐ろしくすら思えた。
  けれど、怖いからと言って目を逸らすわけにはいかない。ぎゅっと唇を引き結んで、少女は前を見た。


  ――動きの止まった戦場。聞こえるのは風が鎧を打つ僅かな金属音。
  張り詰めた空気は、真冬の冷気のようにキンと頭を軋ませる。


  デグレア軍を背後に、ルヴァイド。その横にイオス。
  トライドラ軍を背後に、シャムロック。その横に彼の側近、背後には


  目配せしあったルヴァイドとシャムロックは、各々自分の剣を胸の前へと構える。
  その二人の間に、厳かな表情をしたイオスとシャムロックの側近とがゆっくりと割り入った。

  ――彼らは、一騎打ちの審判に当たる。昔から、最高位の者同士が戦う場合は互いの側近がその戦いを見届けるものと決まっているのだ。

  トライドラ側の審判にあたる騎士が己の槍を上に掲げて名乗りをあげる。続いて、イオスも手にした銀槍を空高く掲げた。

「――デグレア軍特務隊隊長・イオス。
母国と騎士の誇りにかけて、全ての戦いが厳正に行われることを願い、ここで我らが将の戦いを見届けるものとする」

  凛と響く声で口上を述べたイオスは、ちらりとその視線だけを敵将の背後へ動かした。
  休戦交渉の使者として、しきたりにのっとりはまだシャムロックの傍――トライドラ側へと身を置いている。あと数歩という距離にいるのだが、今二人の間には目に見えない大きな壁があった。
  イオスと目が合ったは一瞬驚いたように瞬きをしたのだが、彼の視線の意味を感じ取った彼女は大丈夫ですとでも言うように口許だけでそっと微笑んで見せた。

(――変わりない……か)

  まるで連れ去られるように――イオスの目には、そう見えた――敵陣に向かった少女が無事なのを間近で確かめ、見慣れた、いつもどおりの彼女の笑顔にイオスは改めて安堵する。
  けれど、視線の先……の目が赤く腫れているのに気付いた彼ははっと身を硬くした。

(涙の跡――……!?)

  泣くと、あの子はすぐにああやって目を腫らす。
  今は微笑んでいるけれど。まさか、彼女が涙を流すような何かが、砦の中であったのだろうか。


  その考えに行き当たった瞬間、それまで必死に保っていたイオスの理性が音を立てて崩れた。


「ロ――ローウェン砦守備隊長殿に申し上げる!」

  突如その身をひるがえし、シャムロックの目前へと駆け寄ったイオスに皆ぎょっと目を見開いた。
  デグレア側の審判は一体何を言い出すのかと、トライドラ陣営に緊張が走る。
  イオスが言わんとしていることにいち早く気付いたルヴァイドが部下を諌めようとするのだが、それより早く、特務隊隊長は敵将へと頭(こうべ)を垂れた。

「勝手な振る舞い、平にご容赦頂きたい。
けれど、戦いの前に、どうか――そこにいる我々の使者の身柄を解放して貰えないだろうか」

  静まり返っていた戦場に、ざわりと動揺の波が走った。

  休戦の使者は、勝敗が着くまで拘束されるのがならわしであり、裏切らないという証だ。イオスの発言はあまりに無茶苦茶だった。

  身をえぐるように突き刺さる、疑惑と非難の視線。一瞬にしてそれらを全身に集めたイオスは、しかしひるまず先を続けた。

「こちらから休戦交渉を出しておいてこんなことを言うのはあまりに非常識だとわかっている。
だが……本人のたっての希望で今回彼女に使者を任せることになったが、本来なら彼女は前線にいるべき存在ではないんだ。限りなく非戦闘員に近く、しかも今回が初陣だ。
代わりに自分が使者としてそちらに身を置いても構わない。だから、どうか
――彼女を帰してもらえないだろうか――……!」

  今自分がどれだけ愚かな振る舞いをしているか、イオスとてじゅうぶんすぎるほどよくわかっていた。
  けれどどうしても言わずにはいられなかったのだ。少女の涙の跡は、それほどまでに彼を動揺させていた。

  ――必死だった。



  金の髪を揺らし少女の返還を求める敵将の副官に、さすがのシャムロックも面食らいしばしぽかんとした表情になる。
  そっと背後に控える使者殿に視線を移せば、案の定デグレアの少女は驚きのあまり黒い瞳をまんまるくして自軍の青年を見つめている。
  正面にいる敵将は、呆れかえった様にその額に手を当てていて。

(なるほど、ね……)

  何やら複雑そうな事情があるようだが、 シャムロックが睨んだとおり――いやそれ以上に――このという少女は、デグレア軍にとってかけがえのない存在らしい。

  シャムロックは、ふいに育ちのよさがうかがえるその品の良い口許を僅かにほころばせた。

  敵に頭を下げてまで、ひとりの少女を護りたいと願う。冷徹な印象の強いデグレア軍の騎士が見せたひどく人間らしい感情は、拭いきれない猜疑心をかなり和らげるものだった。
  ――彼らだってそんな感情を持つ、血の通った人間なのだと。場違いではあるが、ほっとする。
  金髪の騎士に向かい、シャムロックはこう言った。

「――もとより、そのつもりでしたよ。
戦場の真ん中に女性を放り込むのは、いくらなんでも気が引けますからね。
あとは私とルヴァイド殿との戦いです。使者はもう必要ありません」

  静かに告げられた敵将の言葉に、イオスははっと俯かせていた顔をあげる。
  目が合った守備隊長はこくりと一回、頷いて。イオスは再び深く深く頭を垂れた。

「――感謝する…・・・!」

  安堵の滲み出た声でそう言って、イオスはの方へと向き直った。

、聞いただろう?
君はじゅうぶんに役目を果たした。だから――戻って来い」

  おいで、と。イオスは視線で少女を促す。
  だが、僅かに躊躇した後彼女はふるふると首を横に振った。

「……いいえ。
私は最後まで、ここにいます」

「なっ……?」
!?」

  シャムロックとイオス、驚く二人の声が重なる。
  驚愕の眼差しを向けられたは少し困ったように首をかしげたのだが、ややあって小さく笑って見せた。

「私なら大丈夫です、イオスさん。
無理を言って自分からこの役目を引き受けたんです……せめて、最後までやらせて下さい」

  それに、と。少女は言葉を失ったイオスからシャムロックへとその視線を移した。

「守備隊長様は、私の言葉を信じてくれました。
だから私も、それに応えたいんです」

  涼やかな声で言う少女に、シャムロックは驚き澄んだ鳶色の目を見張った。

  砂埃が舞う戦場の中。凛と背筋を伸ばして微笑む少女は、何の疑いもなく紅茶を飲んだことを諌められしゅんとうなだれていたあの娘と同一人物だとは思えないほど、何故だろう――まるで包容力にも似たとても大きな力を感じさせた。

  お茶に無邪気に喜んだり、敵兵の為に涙してみたり。うろたえていたかと思えば、軍人すら黙らせてしまうこんな存在感を見せる。


(……不思議な子だ)


  少女らしい無垢さと、軍に身を置いても擦れることのない、透明で清らかな勇ましさ。
  ――これが、デグレア軍が彼女を愛しく思う理由なのだろうか。


「…………!」

  どうにも納得し切れないイオスが、聞き分けのない子供を諌めるような物言いで少女の名を呼ぶ。
  まだ何か言おうとした彼を、ついにそれまで黙って経緯を見守っていたルヴァイドが制した。

「もう下がれ、イオス。
がああ言っているのだ。これ以上の出過ぎた真似は恥と知れ」

  ルヴァイドの声は厳しい。上官にきつく叱責され、イオスはぐっと拳を握り締めた。

「――申し訳ありません……」

  とうとう観念した彼はシャムロックに向かい無礼を詫びる礼をとる。そうして退いたイオスはもう一度だけトライドラ陣から動かないに視線を這わせたのだが――その紅玉の瞳に浮かんでいたのは怒りではなく悲しみで、思わず胸を塞がれたは反射的に泣きそうになってしまった。

  彼にあんな瞳をさせるほど。自分は心配をかけているのだ。

  ごめんなさい、という想いと、不謹慎を承知の上で、嬉しい、という複雑な感情が交差する。
  けれど今だけは。この我侭を通させて欲しかった。



  ――再び訪れた静寂。
  ルヴァイドとシャムロック、向かい合った二人は静かにそれぞれの剣を構えた。
  その狭間に入ったイオスとシャムロックの側近とが、「待て」をかけるような格好で手にした槍を交差させる。


  ――そして。


「二国の騎士の誇りの元、今ここに一騎打ちの開始を宣言する。
――はじめ!」


  高く澄んだ青空へ振り上げられた二本の槍。

  デグレアの黒騎士とトライドラの白騎士は、そろって大地を蹴る。

  剣と剣とがぶつかり合う硬質な音が響いて。



  ――戦いが、始まった。






◆◆◆






  戦場にいた全ての者が、息をするのも忘れてその戦いに見入った。

  研ぎ澄まされた二本の剣が太陽の光に煌めく。誰にも、言葉を発することも、身じろぎすら許さない威圧感が戦場を支配していた。

「でやあああああっ!」
「はああああああっ!」

  響く声はただ、騎士ふたりの魂を込めた叫びのみ。

  ぶつかり、離れ、またぶつかる。飛び掛り、飛び退くたびにふたりの身体に赤い線が刻まれる。
  ルヴァイドの頬をシャムロックの長剣がかすめ、剣圧で頬に一筋の鮮血が流れる。
  同時に、シャムロックの額にもルヴァイドの大剣による切り傷が出来ていた。

  僅かとはいえ目の前で散っていく朱を見るたび、は心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥る。
  けれど同時に、は戦う二人の姿を綺麗だと思った。

  引き寄せられるように上官の剣技に魅入っている周りの誰もが、同じ気持ちなのだろう。

  旧王国と聖王国。それぞれの剣の歴史を真っ直ぐに汲む騎士同士の戦い。これほど高潔な戦いはそれこそ一生に一度見られるかどうか……。

  ルヴァイドとシャムロック、彼等の戦いはこの場にいる全ての騎士の心を完璧に魅了していた。

  同時に、の心を打ったのは剣を振るうルヴァイドの表情だった。
  笑ってこそいないが――彼の瞳は、楽しそうに輝いていたのだ。

  これまでの戦いで剣を抜くたびいつもルヴァイドが背負っていた、あの重い影が――ない。

  意に沿わない任務という重圧から解放され、ただひとりの騎士として剣を合わせるこの一騎打ちは、やはりルヴァイドが渇望してやまなかったものなのだ。

  どうか酷い怪我をしないで欲しいという切なる願いと同時に、の心にはルヴァイドに対し、よかったですねと笑いかけたくなるような、そんな気持ちすら生まれていた。


  やがて、騎士二人は激しく打ち合わせていた剣を引き、距離を取って互いの顔を見つめる。

  ――張り詰めた空気が一層険しいものへと変じた。
  次に剣がぶつかったその瞬間が、決着の時だろう。
  誰もが息を呑み、食い入るようにその瞬間を待った。

  そして、時は満ちる。

  ざらりと音を立て、二人の軍靴の先が一歩、前へと進められる。

  振りかざした剣が風を斬った。飛び跳ねた身体が宙を舞う。

  ――ぶつかる……!


  その瞬間を逃すまいと誰もが目を凝らした、その時だった。



  ――何かが、剣を構える二人の間を尋常ならざる速さで通り抜けた。

  黒い影。大きな闇色の、なにか。

  目前をかすめたそれに意表を突かれたルヴァイドとシャムロックは、討ちかかろうとしていた身体をすんでのところで止める。

  一体何事かと皆が視線をその黒い影に移した、次の瞬間。




「――ぎっ、ぎゃああああああああああアアアアアアアアアアアアッッ!」


  骨を砕く鈍い音と共に、戦場に断末魔の悲鳴が轟いた。






◆◆◆






「なっ……!?」

  誇りをかけて戦うと誓った戦場の大地に、赤黒い液体がボタボタと音を立てて零れ落ちる。
  何かを咥えたその口許からだらしなく血液を滴らせている黒い影――それは、人の背丈ほどもある大きさをした闇色の狼――背に蝙蝠のような黒い翼を持つ、異形の獣だった。


  そして、その獣がぐちゃり、ぐちゃりと租借している柔らかそうな物体は――……。


「ア、アリヤあああああああああああああああああああッ!」

  魔獣に飲み込まれる寸前。最後に見えたのは人間の顔。
  見知ったそれに、シャムロックが絶叫する。

  ――無残にも胴体を引き千切られ、獣の喉へ消えていったのは、つい先刻イオスと共に一騎打ちの開始を宣言したシャムロックの側近だった。
 
「どういうことだ……これは……!?」

  放心状態でガクガクと全身を震わせるシャムロックの横で、驚愕から立ち直ったルヴァイドが怒りに満ちた声で吐き捨てる。
  あれは明らかに、野生の獣ではない。誰かが故意に呼び寄せた――召喚獣だ。

  突然の出来事に恐慌状態に陥った戦場。怒号に混じって、今度はあちこちから悲鳴が上がり始める。
  噴き上がる血飛沫。無駄な流血を拒んだ筈の戦場が、みるみるうちに血で穢されていく。

「ルヴァイド様っ……これは、一体!?」

  ただならぬ状況にイオスは槍を構え戦闘態勢をとる。ルヴァイドは、姿現さぬ敵を捕らえようと射殺すような目で素早く戦場を見渡した。敵は、誰だ。どこに――……!?

「――! こっちに来いッ!」

  次々に崩れ落ちていくトライドラ兵。血柱の中ひとり動けなくなっている少女を護ろうと、夢中で走り出したイオスは声の限りに叫びその手を伸ばす。
  むせかえるような血の匂い。至近距離で起こった突然の惨劇に半分気を失っていたは、耳に届いたイオスの声にゆるゆると顔を上げた。

  駆け寄ってきた青年。伸ばされた彼の手に、顔面を蒼白にした少女が震える手を重ねようとした――その時だった。




「――ねぇねぇ、なぁにやってるのォ、ル・ヴァ・イ・ド・ちゃーん!」



  紅の戦場に、ひどく愉しそうな女の笑い声が響いた。