――いきなり喚(よ)んでしまって、ごめんね。
フロト湿原でテテノワールを召喚した翌日。駐屯地の片隅で草の上にぺたんと腰を落とし、テテと向かい合った少女はそう言ってメイトルパの獣に頭を下げた。
――誰か、イオスさんを助けて――
そんな彼女の叫びが具現し、幻獣界から召喚されたテテノワール。
状況としては明らかに「事故」だったが、どういう偶然か、が肌身離さず身に着けているペンダント……サモナイト石のかけらを媒体に、少女とテテの間にはきちんとした「誓約」が成り立っていた。
幸いというべきか、テテノワールはメイトルパの召喚獣としては馴染みのある存在であり、召喚方法やその生態も比較的研究が進んでいる。
旅団召喚師の手を借りながら、やはり媒体としては不安定な存在である「かけら」からちゃんとした「サモナイト石」へと誓約の魔力を移したは、新たな石を手にテテの瞳を覗き込んだ。
「これからあなたとの誓約を解きます。
メイトルパに戻してあげるね」
自分自身も突然リィンバウムに喚(よ)ばれてとても驚いた。だからきっと、この小さな救世主もさぞかし戸惑ったことだろう。
本当にごめんねと繰り返して、は誓約解除の呪文をとなえるべくサモナイト石をテテの前へと掲げる。けれど、メイトルパの獣精は何を思ったか、まるで解除を阻止するように少女の手を下へとさげさせた。
「……?」
きょとんとするの両手を小さな手でうやうやしく捧げ持ち。テテは、己の額へと少女の手の甲を押し当てた。
まるで、聖なる誓いの儀式のようなその仕草。意味がわからず不思議そうに目を瞬かせる少女の横で、様子を見守っていた旅団召喚師の男が小さく笑った。
「殿。
このテテノワール……どうやら、貴女の護衛獣になるつもりのようですよ」
「……ごえいじゅう?」
まだリィンバウムに来て日が浅い少女は、その言葉がどういう存在を指すのかよくわからない。
同じくのそばでこのやりとりを見ていたイオスがあのな、と口を開いた。
「召喚主のことを護る召喚獣のことだよ。その名の通り、護衛」
「護衛……」
「まあ、難しく考える必要はない。
要は、このテテノワールは君のそばにいることを望んでいるんだ。……ずっと一緒にいたい、友達になってくれって、そんなところかな」
イオスの言葉に、少女は心底驚いたように目をまるくして。まじまじと目の前の小さな獣を見つめた。
「……かえらなくて、いいの?」
テテは、何の迷いもなくこくんと頷いた。
「私と一緒に、いてくれるの?」
テテはまた、うんと頷く。
「ともだちに……」
次の瞬間。感激のあまり飛びつくようにテテに抱きついてしまった少女は、テテもろとも勢いに任せて草の上にひっくり返ってしまった。
ぎょっと目をむくイオスと召喚師を尻目に、はびっくりしているテテを高い高いするように抱き上げた。
「ありがとうっ!」
――にとって、自分から「そばにいたい」と望んでくれたのは、この小さな獣が初めてだった。
嬉しくてうれしくて、どうにかなってしまいそうなくらい。それは、晴れた日に見上げる青空のような高揚感での全身をいっぱいに満たしていった。
こんな自分を、好いてくれるなんて。望んでくれるなんて。なんてなんて、幸せなことだろう。
どうやらご主人様がものすごく喜んでいるらしいことに気付いたテテは、こちらもニカっと歯を見せて嬉しそうに笑う。
その笑顔のなんと可愛らしかったことか。
――テテ越しに見えた青空は雲ひとつなくとてもきれいだったこと。
そして、頭上でイオスが大爆笑していたこととか。
陽だまりの中で笑っていたあの優しい日は、今でも鮮明に彼女の脳裏に焼きついている。
◆◆◆
フラップイヤーの力を借りてひとりビーニャのもとへと向かったを追いかけ、ローウェン砦に飛び込んだイオスは死に物狂いで石の階段を駆け上がっていた。
(ビーニャを相手にするなんて……無理に決まってるだろう、あの馬鹿っ……!)
追い抜いた聖女一行に何かを言われた気がするが、もはやそれどころではなかった。立ち塞がる魔獣を愛用の槍で薙ぎ倒し、必死に頂上を目指す。
ようやくたどり着いた最上階――屋上へと続く扉を、イオスは勢いよく蹴った。
「――!」
開いたドアから屋上へと踏みこんだ彼の瞳をまぶしい太陽の光が射抜く。目が慣れたところで、最初にイオスの視界に飛び込んできたのは石畳に横たわる小さな塊だった。
群青の中にまだらに散った赤黒い染み。ひどくぐんなりとしているそれは――……。
「テテ!?」
見慣れた護衛獣の変わり果てた姿に目を見開いたイオスは、そう叫んでテテの身体を抱き上げる。
ぷくぷくした短い足をどろっとした血液が伝う。太股の後ろから背中にかけて、剣で切り裂かれたような大きな傷跡があった。
一瞬、ひやりと胃が浮き上がるような嫌な感覚を覚えたイオスだったが、落ち着いて傷を確かめれば、それは出血のわりに深いものではない。
慌てて彼は懐から緑のサモナイト石を取り出した。
「石の誓約により命じる……幻獣界の勇者、僧侶クリム! 汝らの同朋に治癒の光を……!」
詠唱と共に現れた獣人の少女が手にした杖をふるうと、こぼれ出た光がテテの身体に降り注ぐ。クリムの力によりみるみるうちに傷は塞がったのだが、それでもテテが呼吸をしていないことに気付いたイオスはぐっと顔を歪めた。
(死ぬような傷じゃない――何か他に原因が)
ちょうどその時、テテの胸部が一回だけぴくりと痙攣するように動いた。肌の表面が引きつったような小さな動きだったが、イオスはそれを見逃さなかった。
はっとして、彼はテテをうつぶせに抱え直す。傷跡を刺激しないように注意しながら、どんっとその背中を叩いた。
――戦場で何度か、イオスはこんな状態の人間を見たことがある。
衝撃による内出血で、気管に血を詰まらせ呼吸困難に陥っているのだ。
イオスの手が三回背中を打ったところで、テテはげほっと咳き込み口から血を吐き出す。しかし、それでもまだぐったりと動かない護衛獣に向かい、イオスは力の限り叫んだ。
「起きろ! 戻って来いっ!
お前の主人を置いて逝く気か――テテノワール!」
――イオスの声が届いたのか。
ややあって、全身を大きく震わせたテテの喉がひゅうっと音を立てて空気を吸い込み始めた。胸が上下に動き出したのを確認して、イオスは再びクリムを召喚する。苦しそうに繰り返されていた咳が止まって、脂汗が浮いていたテテの表情がようやく安らかなものになった。
テテの容態がひとまず安定したのを見て取って、イオスは全身の力が抜けるような脱力感に襲われる。しかしほっとしたのもつかの間、どんっと響いた爆砕音に、イオスは現実へと引き戻された。
(そうだ……テテがこんなことになって――は!?)
護衛獣が死に掛けていたというのに、片時も離れない筈の少女の姿が見当たらないとはどういうことだろう。
――自分がたどり着くまでの僅かな間に。一体ここで、何が起こったというのか。
呼吸を取り戻したテテの身体を床に横たえイオスは慌てて立ち上がる。まさか、と、胸を蝕む嫌な予感を必死で打ち消しながら爆音のした方へ向かった彼は、そこで見た光景に愕然とし、金縛りにあったかのように全身の動きを封じられてしまった。
信じ難い光景が、そこにはあった。
砂の混じった風が吹き抜けるローウェン砦の屋上。悲惨な戦場とは不釣合いに晴れ渡った空を背後に、少女がひとり、片手に短剣、片手に人の頭――正確には髪を持って、佇んでいる。
きゃらきゃらと笑う少女の左手、肩に触れる長さの黒髪を無残にも鷲掴みにされ、引きずられるように石畳の上を這わされているのは――……。
「――!」
イオスの悲痛な叫びに、を引きずったままのビーニャがくるりと振り返る。あまりのことに足がすくんで動けないらしい特務隊隊長の姿を見つけると、彼女はそれはそれは嬉しそうに口の端をあげた。
「あーら、イオスちゃん? 遅かったねー」
うふっと肩をすくめたビーニャは、左手に捕らえたをまるでごみのように無造作に投げ出した。
縛めという名の支えを失い、少女の身体は力なく石畳の上へと倒れ込む。
「ごめんねぇ。
ちょっと遊んであげるだけのつもりだったのに、イオスちゃんのお姫様、弱くってさあ」
――壊れちゃったかなァ。
そう言って、ビーニャは倒れたの頭を靴先でつつく。それでも、は身じろぎひとつしなかった。
「ビ、ビーニャッ……。
貴様……きさま一体彼女に何をしたあッ!」
「やだなァ、正当防衛だよォ。
先につっかかってきたのはちゃんだもーん」
がちがちと歯の根を鳴らしながら怒りにわななくイオスにあっかんべーをして、ビーニャは悪びれる様子もなくの横へとしゃがみこむ。
髪を引っ張り、うつぶせていた顔を無理矢理上げさせると、少女の口からはくぐもったうめき声が漏れた。目を開けることすらままならないその様子に、ビーニャは嘲笑を浮かべる。
まるで獲物を前にした肉食獣のようなビーニャのその表情と、ぐったりと動かないの状態に、イオスの背筋がぞくりと凍った。
――きゃあきゃあとはしゃぐデグレア城の女官達に囲まれ、人形のように布をとっかえひっかえされながら作ってもらったという少女の軍服はあちこちが破れ、そこからのぞく白い肌にはむごい傷跡が滲んでいた。
しかもそれは、相手を倒そうと付けられたものではなく、明らかに苦痛を与え、弄ぶために刻まれたもの。簡単に意識を失わないように、長い時間痛みを感じているように――ビーニャがの身体を傷つけることで「遊んでいた」のは明白だった。
かっと頭に血が上ったイオスがビーニャに向かい槍を振り下ろそうとする。しかし、その眉間にぴたりと闇色の剣があてがわれ、イオスの動きが止まった。
憤怒の形相の青年をくつくつと笑いながら、ビーニャはの喉元に短剣を滑らせる。つっと赤い糸が一筋流れ、イオスは一気に蒼白になった。
「ねェイオスちゃん。このコ、アタシのお仕事の邪魔したんだよォ?
下っ端兵士のくせして上司の妨害するなんてさァ……許せないよねェ?」
――だから、お仕置きしてあげてるの。
そう言って、ビーニャは再び少女の喉に剣先を向ける。
やめろ、と、イオスが叫ぼうとしたその時。意識を失っているかに見えたの双眸が突然かっと見開かれた。
一体どこにそんな力が残っていたのか、少女は髪を掴むビーニャの身体を思い切り蹴り飛ばす。不意を突かれ、ビーニャは不恰好に石畳の上へと転がった。
「ギャッ!」
思わず悲鳴を上げたビーニャが体勢を立て直す前に、は倒れた彼女の上へと馬乗りになる。
そのまま、はビーニャの右肩へと手にした槍を思い切り突き立てた。
「――ぎゃああああああああッ!」
肩をえぐられたビーニャの絶叫が響いた。
噴き出した血がの頬に跳ねる。
返り血を浴びても、少女の瞳に走るのは怯えではなく――純粋な、殺意。
憎しみに瞳をたぎらせる彼女は、まるでイオスが知らない存在のようで。
目の前で起こった嘘のような出来事を、彼はただ呆然と見つめることしか出来なかった。
(あの子が、人を――刺した?)
……足手まといになりたくないと言った彼女に槍を教えたのは、イオスだ。
次第に身についていった槍のセンスは決して悪くはなかったが、けれど数多の戦場をくぐり抜けてきたイオスから見れば、には武器を持つ上で決定的なものが足りなかった。
――敵を貫く覚悟と、殺意。
聞けば、彼女の世界では刃を持つことさえ罪であり、軍隊もなかったという。そんな平和な世界で育ってきた少女に人を刺せというのがそもそも無理な話だったのだ。
その手で誰かを殺したら、この優しい娘はきっと己の心まで殺してしまう。
だからイオスは、思いがけずが召喚術を得意とすることがわかった時、複雑な思いを抱いたと同時に安堵もしていたのだった。
――召喚術は、相手を貫いてもその肉の手ごたえを伝えない。傷つけ、殺めたという実感は直接手を下すよりもずっと薄い。
殺意を持たずに身を護る術を得た。
これで彼女が返り血にあの小さな手のひらを穢すこともないと――そう、思っていたのに。
今、イオスの目の前で。優しく笑っていた筈の少女は、人の肉を貫いてなお、殺意を沈めることなく組み敷いたビーニャを見下ろしていた。
その瞳に宿るのは、血を浴びた人間だけが持つ、狂気。
(やめろ)
絶望に堕とされたイオスの心が砕けて泣いた。
(やめてくれ)
そんな感情、知らなくていい。
(――……!)
止めたいのに。干上がった喉は、彼女の名前を呼ぶことすら出来ない。
「許さない……」
ビーニャに突き立てた槍を両手で握り締めながら、が呟いた。
とても彼女のものとは思えない、低く震える声。
どうしようもない怒りに全身を委ねながら、少女は叫んだ。
「――許さないゆるさないあなただけは絶対に!」
の声と共に、槍を突き立てる力が強くなる。
ごりっと骨を砕く音、甲高いビーニャの悲鳴。耳を貫くそれに、イオスは呪縛から解かれたかのようにはっと両の目を見開いた。
突きつけられていた召喚術による剣はいつの間にか消え失せている。彼は、一目散にの元へと駆け寄った。
「――! やめるんだ!」
「はなしてえっ!
このひとは、テテを、テテを――――……!」
「テテなら生きてる!」
背後からイオスに羽交い絞めにされてもなお我を忘れて怒り狂う少女の耳元に、イオスは思い切り叫んだ。
彼の声に、暴れていた少女はぴたりとその動きを止める。震えながら、彼女はイオスを振り返った。
「……いき、て、る?」
力を失った少女をビーニャの上から引きずりおろしたイオスは、そうだ、と頷いた。
「でも出血のショックが残っていて僕の魔力じゃ回復しきれない。
君なら、治せるだろう?」
「――ッ!」
一瞬、泣き出しそうに顔を歪めて。はイオスの腕の中から飛び出し、横たわる護衛獣へとすがるように飛びついた。
「しょう、か……エ、エルエルうううっ!」
少女の叫びと共にサモナイト石を入れているスカートのポケットから光が漏れる。次の瞬間、テテを抱きかかえへたりこんだの前にひとりの天使が降り立った。
「おねがっ……テテを、テテを助けてえっ!」
無茶苦茶な召喚にも関わらず――否、それは誓約の言葉よりずっと強く悲痛な叫びだったからかもしれない――姿を見せた霊界の賢者・エルエルは、涙と血で顔をぐしゃぐしゃにしながら懇願する少女の頭を落ち着きなさいとでも言うようにそっと撫でた。
広げられたエルエルの翼はふわりと淡い七色の光へと変じ、ぼろぼろになったとテテをまるでオーロラのように包みこむ。
光のヴェールが少女の傷を癒し消えた頃、固く閉ざされていたテテの瞼がゆっくりと開かれた。
光を取り戻したエメラルドの瞳。けだるそうに数度瞬きをして、テテは目前に大好きなご主人様の姿を見つけ、弱々しくはあったが、笑った。
ああっとが泣き崩れる。
「テテっ……テテ、テテ……!」
再びこの手に戻ってきたやわらかなぬくもりに、は何度も何度も護衛獣の名前を繰り返しながら、その身体をもう二度と離さないとばかりきつくきつく抱きしめた。
◆◆◆
「――冗談じゃ、ないわよ……」
とテテの様子にほっと胸を撫で下ろしていたイオスは、背後で聞こえた呪いの様な呟きにはっと身を翻す。
突き刺さったままの槍を自らの手で引き抜いて。血をまとったそれを石畳に投げつけたビーニャは、肩口からボタボタと血を滴らせながらゆっくりと立ち上がった。
「許さないわよ、アンタ……」
ビーニャを中心に、ぶわっとどす黒い風が舞い上がる。それは、風圧に押されたイオスがたたらを踏むほどにとてつもない威力を持っていた。
「ビ、ビーニャ!」
吹き荒れる暴風の中、ビーニャを止めようとイオスが彼女に向かい槍をかざす。けれど、ビーニャを取り巻く嵐は彼の侵入を拒みかまいたちのように姿を変え、その手に無数の血の跡を刻んだ。
「ビー……ニャアアッ! やめっ……!」
ゆらめく黒い焔ををまるで触手のように身体中に巻きつけて。血走った目でビーニャが見据えるのは、テテを抱きかかえしゃがみこんだままの――。
ビーニャの顔に、狂気の笑みが浮かんだ。
「ころしてやる……」
言いつけなんて。もう、どうでもいい。
憎い。あの女が、憎い――……!
大悪魔たる自分に傷を負わせた罪を、その命をもって償うがいい。
断末魔の苦しみに泣き叫び、己の愚かさに打ち震えるがいい。
――コロシテヤル……!
澄み切っていた筈の空に、暗雲が立ち込めた。
雷鳴が轟く。
石畳を打つ無数の雷(いかずち)は、やがてひとつの大きな黒い閃光となり、まっすぐ少女へと狙いを定める。
「しねえええええええええええッ!」
「や、やめろおおおおおおおおッ!」
ビーニャとイオスが同時に叫んだ。
ようやく顔をあげたが、迫り来る黒い雷に気付く。黒い瞳に、今にも己を貫こうとしている邪悪な切っ先が映った。
「――――……!」
イオスの足が石畳を蹴った。
何より大切な存在である少女を護ろうと、彼は必死に走る。手を伸ばす。
しかし、そんなイオスの視界に、唐突に鮮やかな赤と白の色とが飛び込んだ。
(――っ!?)
それは、吹き荒れる風に翻った騎士のマント。
その胸に抱く誇りのように穢れることなき純白と、血ではない、赤。
それは、どれだけ切望しても、もうイオスが手にすることは赦されない純粋なる騎士の色彩――。
――閃光が弾けた。
堕ちた雷。舞い上がる石畳の破片。
「ぐああああああっ!」
黒い雷は、狙いを違えず確かにそこに堕ちた。
けれど響いた悲鳴は、のものでも、イオスのものでもなく。
己を抱きしめ庇ったその人物に、は驚愕のあまりその瞳を大きくおおきく見開いた。
「――シャムロックさん!?」
を庇って背に雷を受けたのは、ローウェン砦守備隊長・シャムロックだった。