call my name
 ――それは、不自然な程にひどく静かな夜だった。


  ローウェン砦北部にある森に設けられたデグレア軍駐屯地。対トライドラという大きな戦を勝利で収めたにも関わらず、今夜は誰一人、その喜びに酔える者などいなかった。
  皆顔に疲労の色を濃く滲ませ、ただ黙々と戦の後処理にかかるその姿はむしろ敗軍の陣営を思わせる。
  あまりに非道なやり方で決着のつけられた昼間の戦いに誰もが複雑な想いを抱いている中、特務隊隊長としての仕事を終えたイオスは、静まり返った駐屯地へと背を向け、ひとり木立の中を歩いていた。

  駐屯地から十分ほど歩いた場所にある、今はもう使われていないらしい古びた樵小屋。そこに、とテテ、そして彼女を庇い怪我を負ったローウェン砦の守備隊長がいる。
  敵将であった人物をデグレア陣営の真ん中で介抱するのはさすがにはばかられたためだ。
  離れた小屋でひとり。は必死に敵将の治療にあたっていた。


  胡桃の木の向こうに小屋から漏れるわずかな明かりをとらえたイオスは、一度足を止め、長く重いため息をついた。


  ――あれから。暴れ狂うビーニャを抑えるべく戦ったイオス達だったが、何度か打ち合いをしたところで嵐のように降り注いでいた雷撃が突然嘘のようにぴたりと、止んだ。
  唖然とするイオス達の目の前で、虚空を見つめたビーニャはぽつりとこう言った。

「……レイムさま?」

  イオス達にはよくわからないが、レイムとその配下の人間は、召喚術の力なのか何なのか……とにかく独自の通信手段のような、意思を通わせる何かを持っている、らしい。
  この時も、どうやらあの顧問召喚師から何らかの連絡が入ったらしく――ビーニャはまるで力の抜けた操り人形のようにあらぬ方向を見つめて動かなくなり。しばらく後、焦点の定まらなかった瞳にいつもの狡猾そうな光が戻った頃には、ビーニャを取り巻いていた黒い閃光は跡形もなく消えていた。

「……レイムさまが、よんでるから、かえる」

  子供が、それまで夢中で遊んでいたおもちゃを突然放り出した時のように。

  疲れた。面白くない。飽きた。ぶつぶつとそう繰り返したビーニャは、血色の瞳をつまらなさそうに細め、すうっとその場から姿を消した。

  残されたのはただ、半壊状態の砦と、トライドラ兵の屍。
  突如訪れた静寂に、イオス達はしばらくの間呆然と、各々武器を構えた格好のまま息をするのも忘れて風の吹き抜けるローウェン砦の屋上に立ち尽くしていた。


  そんな彼らを現実に引き戻したのは、しゃくりあげながら必死で召喚呪文を唱え続けるの声。


  そして――それからが、大変だった。


  もともとデグレア軍の攻撃により兵の数を減らされていたローウェン砦だったが、ビーニャが放った魔獣により、とうとう全滅という最悪の結末を迎えてしまった。
  あの、スルゼン砦と同じように。

  ――ただひとつ違ったのは――生存者がいるということ。

  そのたった一人の生き残り、守備隊長シャムロックもを庇った時に負った傷により意識がない。幸い致命傷ではなかったが、けれど一刻も早く落ち着いた場所で手当てをする必要があった。

  一騎打ちの誓いを破った責任として、ルヴァイドはシャムロックを捕虜ではなくひとりの人間として助けることを選択した。
  そのシャムロックの治療は、移動中も、そして駐屯地に戻ってからも、彼の傍から片時も離れないがずっとひとりで請け負っていた。
  しかし、意識のない状態の大の男を介護するのは、のようなか細い少女には並大抵のことではない。見かねて手伝おうとしたイオスや医療班兵士達の申し出を、けれど彼女は頑なに拒んだ。

「敵将を助けたと知れたら、後々皆さんが責められる可能性だってあるでしょう?
このひとが怪我をしたのは、私のせいなんです。
怪我をさせたのも、治療するのも、みんなみんな私の我侭だから……だからこれは、私ひとりでやらなきゃいけないことなんです」

  皆さんを巻き込むわけにはいきませんから。そう言って血の気のない顔で微笑んだ少女の笑顔はひどく儚くて、皆の心を締め付けた。
  敵将であるシャムロックを助けるというルヴァイドの決断に、異を唱えるものは誰もいなかった。だからが何もかもひとりで背負う必要などなかったのに、それでも彼女は、全ては自分の責任なのだと言ってゆるく首を振った。


(……どうして)


  イオスには、わからないことだらけだった。

  あのトライドラ軍の長がどうしてを庇ったのかも、どうして彼女があそこまで彼を助けることに執着するのかも。
  雷が降り注ぐ中、は聖女一行に必ず彼を助けると、自分の命をかけてもいいとまで言った。ビーニャに槍を向けながら、それを聞いた時イオスは我が耳を疑ったのだ。
  ルヴァイドを侮辱され、ビーニャの残虐な行為を目の当たりにし、せめてひとりだけでも助けたいと彼女が思う気持ちは……わかる。

  けれど。あの必死さには、何か――それ以上の何かが、含まれているような気がして。イオスの心をどうしようもなく掻き乱していた。

  彼が怪我をしたのは自分のせいだ、と彼女は言った。すると、こだわる理由はやはりシャムロックがを庇ったからか。
 
  敵にあたる少女を庇った、トライドラの長。けれど、単に女の子だったからとかそんな理由だけで、あの男が身を呈してを庇ったとは思えない。――では、何故あの男はあんな真似をしたのか?
  特務隊隊長として軍の采配の一端を担うイオスとしては、今後のことを考える上でも、シャムロックとの間に何があったのかは知っておかなければならない。

そう、隊長として――……。


(……違う、僕は)

  考えれば考えるほど、胸のうちに湧き上がる苛立ちを抑えきれなくなったイオスが思わず舌打ちをする。それから、彼はぐしゃぐしゃと己の髪を乱暴にかきあげた。

  今度こそ、騎士らしく戦えると思っていた僅かな希望すら打ち砕かれて、皆憔悴しきっている。
  こんな状況だからこそ隊長である自分がしっかりしなければいけないのに、今イオスの心の中に渦巻いている感情は、身勝手な振る舞いをしたビーニャへの怒りではなく、もっと別のものだった。

  イオスよりも早くを庇った、あの男。絶対に助けるのだと言ってあの男から離れない、
  面識なんてない筈なのに、敵同士なのに。何故あそこまで、互いを護ろうとするのだろう。

  ――イオスの知らないところで。あのふたりに何かが起こったことだけは、確かだった。
  けれど、それを確かめるのが、イオスは、怖い。

  彼女が見せる必死さは、彼が見たことのないものだったから。
  ずっとそばにいたあの子が、まるで知らない誰かのような錯覚を覚える。


  彼女が全てをかけて護ろうとしているものへの――これは、嫉妬だ。


(……最低だな)


  そんな個人的な感情で目を曇らせている場合ではないのに。なんて情けないのだろう、自分は。


  ぎゅっと拳を握り締め、内にこもった邪魔な感情を全て吐き出すかのようにイオスは深く息をつく。
  これ以上ひとりで悶々としていても仕方がない。とにかく、彼女の様子を見に行こう。そして頃合を見て、話を訊こう。
  そう決心したイオスが再び小屋に向かい歩き出そうとした時、ふいにうしろで草を踏みしめる音がした。
  背後に感じた気配に慌ててイオスが振り返る。

  どくんと一度、強い痛みを伴って心臓が跳ねた。


「……
「……イオス、さん」


  月明かりの森の中。やつれた表情の少女が、そこにいた。






◆◆◆





「大、丈夫……か?」

  月明かりのせいだけではなく、確かに生気のない、青白い顔色をしている少女を前に、イオスは思わずうろたえた声を発してしまった。
  ゆっくりと瞬きをした少女は、悲しげにその瞳を伏せる。

「……召喚術で怪我そのものは治りました。
だけど傷のせいか、高い熱があって……なかなか、下がらなくて」
「違う! そうじゃなくて……!」

  あの男のことじゃなくて君のことだと怒鳴りかけたイオスは、すんでのところで荒ぶりかけた言葉を飲み込んだ。
  不思議そうに瞳を揺らす彼女を直視できなくて、視線をの手元へと移す。少女の手に握られている薬瓶を見て、イオスは取り繕ったようにああ、と頷いた。

「傷からくる発熱なら、そのチドメグサの薬湯、効くと思う」

  イオスの言葉に、もこくんと首を縦に振った。

「はい。だから飲ませてみようと思ってこれ、取りに行って……」
「そう、か」

  シャムロックが苦しんでいるのがいたたまれないのだろう、明らかに意気消沈した様子で肩を落とすは、それきり口を開かない。
  沈黙に耐え切れなくて、イオスはとうとう胸に抱いていた疑問を口にしてしまった。

「なあ、
……あいつはどうして、敵である君のことを庇ったんだ?」

  理由がわかるかと問われ、ははっと顔をあげる。
  イオスと目があうなり、彼女はみるみるうちに泣き出しそうにその顔を歪ませた。
  血の気のない唇が小刻みに震え出すのを見て、イオスが眉をひそめた。

「……?」

  尋常ではない彼女の様子に、イオスは怪訝そうに少女の名を呼ぶ。
  わななく唇をぎゅっと噛み締めて。は再び視線を落とした。

「……スルゼン砦で、ね。
私がせめてもの弔いにって、門にリボンを結んだの……イオスさん、覚えてますか?」
「……? 
ああ、そういえば……あの黒いリボンのことだろう?」

  一瞬何のことかと思ったが、雨上がりの門前でほどかれた少女の黒髪が風に揺れていたのを思い出し、イオスが頷く。ふと、あれは街に買出しに出た時に、自分が戯れに彼女へと買ってやった物だったなと、そんなことも頭をかすめた。

「そのリボンをね、あのひと、持ってて。
私がトライドラ兵のために祈って、泣いたから……だから私のことを信じるって、シャムロックさん、そう言って……」
「――っ!?」

  思いがけない少女の言葉に、イオスは驚き紅玉の目を見開く。
  まだ記憶に新しい、スルゼン砦のあの悲劇。このローウェン砦と同じように無念の最後を遂げたトライドラ兵を想って彼女がとったあの些細な行動が、巡り巡って今、敵将の心を動かしたというのか。

  声を失った彼の目の前で、は空いた左手で顔を覆った。

「離してって、私何度も言ったんです。
なのにシャムロックさん、 離してくれなくて。私はあのひとに庇ってもらえる資格なんかこれっぽっちもなかったのに、敵なのに、なのに――……!」

  次第に言葉に嗚咽が混ざり、少女の告白が途切れる。
  うつむいたまま肩を震わせるに何と言ったらいいかわからず、イオスは狼狽した。

……泣くな」

  告げられた真実と、おそらく泣き出してしまったであろう少女を前に、混乱する頭を抱えたままイオスは無意識のうちにの肩へと手を伸ばす。
  けれど、抱き寄せようとしたその手が触れる前に、が顔を上げた。

「泣いて、ません」

  顔を覆っていた左手を下ろして。イオスの方を向いた少女は、確かに泣いてはいなかった。
  身にまとう気配も、月明かりを映す瞳も、今にも泣き出しそうなのに。それでも彼女は決して泣くまいと歯をくいしばってイオスを見つめた。

「もう、泣いたり、しません。
だって、今本当に、泣くほどつらいのは、私じゃなくてあのひとだから……だから私はもう泣かないって決めて、だから――……」
「――っ!?」

  唐突にぷつりと言葉が途切れたかと思うと、少女はふらりと前のめりになる。
  力を失い倒れかけたその身体を慌ててイオスが抱きとめた。

「おい! しっかりしろ!」
「だ、だいじょうぶ、です。
ちょっとくらくらしただけ……」

  青くなってうろたえるイオスとは対照的に、は弱々しくはあるが冷静な声で答える。
  酸素を求めて何度か深く息を吸い、遠のきかけた意識をなんとか引き戻した彼女は、イオスの腕に手をかけるとそっと身体を引き剥がした。

「ごめんなさい。もう大丈夫です。
早くこのお薬、シャムロックさんに飲ませてあげなくちゃ……」

  顔を上げたは、うわごとのようにそう呟いて手にした薬瓶を両手でぎゅっと握り締める。
  未だふらつく身体でそんなことを言う彼女に、イオスの中で堪えていた何かが爆発した。

  どうして。……どうして彼女は、そこまでして、あの男を――……。


  小さく頭を下げて、は小屋へと向かい歩き出す。
  けれど、すれ違いかけたその身体をイオスが無理矢理抱きしめて、止めた。


「――っ!?」

  いきなりものすごい力で抱き寄せられて、は抵抗することも出来ずにイオスの腕の中へと閉じ込められる。 驚きのあまり緩んでしまった手のひらから、シャムロックのためにと選んだ薬瓶がすべり落ちた。

「イ、イオスさっ……」
「なんで君がそんなになってまであの男を助ける必要があるんだ!
君だってビーニャにあんな目に遭わされて傷ついて、身体だって弱っているんだぞ! これ以上無理したら君の方がおかしくなる!
――いいか、あの男が君を庇ったのもそれで怪我したのも全部ぜんぶあいつの勝手だ! だから君がそこまで責任を感じる必要なんて何も無い!」
「イオスさん……」
「どうせ、敵だ!
あんな男のことなんかもう助けなくていい、どうでもいい! それより君の方がっ……」
「イオスさんっ!」

  夜の森に、の叫び声がこだまする。
  イオスがはっと気付いた時には、腕の中の少女は充血した瞳にいっぱい涙をためて、イオスを見上げていた。

「……そんなこと、いわないで……」

  泣き出しそうになるのを必死に堪え、蚊の鳴くような声でが呟く。
  イオスの言葉に打ちのめされ、とうとう立っている力さえ失った彼女はずるりとその場にへたりこんだ。

「……

  しゃがみこんでしまった彼女に引きずられるように、イオスも地面に膝をつく。
  震える少女の背中できつく拳を握り締め、彼は深く深く嘆息した。


  ――これでは、ただの、八つ当たりだ。


  今の彼女にかけてやるべき言葉やしてやれることは、もっと他にある筈なのに。けれどイオスには、どうしてもそれが、何が最善のことなのか、わからなかった。


「……ごめん……」

  そっと囁かれた謝罪の言葉に、は地面に視線を落としたまま小さく首を横に振った。

「私のほうこそ、ごめんなさい……。
わかってるんです。どんな理由があるにしろ、あのひとは敵だから……私がシャムロックさんを助けようとしていることが、イオスさん達にものすごく迷惑をかけているんだって……」
「……、それは」
「でも、でもね……!
私がリボンを残してきたりしたから、シャムロックさんに怪我をさせてしまった。私があんなことさえしなければ、あのひとがこんな目に遭うこともなかったんです。
やっぱり私のせいだから……どうしても私、あのひとだけは、あのひとだけはっ……!」

  乾いた大地にひとしずくだけ、涙が落ちた。
  嗚咽をこらえるため、少女は息を塞ぐほどにきつく両手を口許へと当てる。
  声を押し殺し、ただ華奢な肩だけを震わせる腕の中の少女に、イオスはもうどうしてやることも出来なかった。


(……


  座り込んだ二人の頭上で、夜風に揺られた梢がざわざわと不穏な音をたてた。
  今確かに、自分はに触れているのに。イオスには、指先に感じる彼女の身体が頼りない月明かりに飲まれて今にも消えてしまいそうな気がした。

  自分ではない男のために心を砕く彼女。それは幻のように現実味の無い痛みを呼び起こす。


  抱きしめているのに。誰より何より、傍にいるのに。どうしてこんなに、遠い――……。



  救いを求めて夜空を仰いでも、星のひとつも見えなくて。
  底の見えない闇に落ちていると。イオスはそう、思った。







◆◆◆






  ――それは長かったのかもしれないし、ほんの数分のことだったのかもしれない。

  けれどイオスには永遠のように長く感じられた時を経て、次第にの震えは治まっていった。
  疲れきった表情で重いため息をついてから、はぽつりと呟いた。

「シャムロックさんを助けたりして……。
イオスさんにとっては、私、裏切り者に、なっちゃいますか?」

  ――黒の旅団員失格かな。
  そう言ってまた肩を落とす少女の身体を、イオスは深く抱き込んだ。

「そんなこと、ない。
君は何も、間違ったことなどしていないのだから……」

  暗闇に怯える子供をあやすように、イオスはそっと少女の背を撫でる。

「……ごめんなさい……」

  消え入りそうな声で呟いてから。
  少しの沈黙を置いて、はぽすんとイオスの胸に顔をうずめた。

「――っ……!」

  彼女が初めて見せた甘えるようなその仕草に、イオスの胸は、息苦しくなるくらいどうしようもない切なさでいっぱいになってしまった。


  彼女はもう、限界なのだ。
  これ以上無理をさせたら、心も身体も壊れてしまう――……。


……。
もう、無理するな。あの男を助けることはルヴァイド様だって承知してる……君が一人で背負い込むことなんてないんだ。
色々、辛いだろう? あとは僕が代わるから、君はもう休め……」
「……駄目」

  優しくかけられたイオスの労わりの言葉を、けれど彼女は受け入れなかった。
  そっと、もたれかかっていたイオスの胸から顔を上げる。身体を離したは、そのままイオスに背を向けた。

「そうやって、私はいつもイオスさんの優しさに甘えてばかりで……。
今までずっと、何にも出来なかったから……今度こそ自分でちゃんと、やるべきことをやりたいんです。
……約束、したから……」

  甘えてばかりじゃ駄目だから。静かにそう言うと、は地面に転がった薬瓶へと視線を移した。

「お薬……持って行かなきゃ」

  シャムロックに飲ませなければならない薬。取り落としてしまったそれを再び掴もうとが手を伸ばすのだが、ふいに震え出した右手は瓶を掴むことすらままならなかった。

「……?」

  様子のおかしい彼女にイオスが小さく眉をひそめる。
  薬瓶を目の前に、震える右手を左手できつく握り締めた彼女は自嘲気味に口の端を上げた。

「駄目、なんです。
駐屯地に戻ってきてから、ちょっと気を抜くとすぐ、こうやって手が震え出して……。
――ビーニャさんのこと、刺したの……思い出しちゃって。手にあの時の感触が、戻って……」
の言葉にイオスははじかれたようにその顔を上げた。
  彼はようやく、何より大事なことを忘れていた自分に気付く。


  ――そうだ。
  彼女は今日、初めて、その手で人を、刺したのだ――……。


「情けないですよね。
ルヴァイド様には覚悟していますなんて言っておいて、自分で武器を持つことを選んだのに、いざ人を刺してみたらこの有様で……」
「……
「結局私、何もかも、覚悟が足りなかったんです。
なのにイオスさん達の役にたてるかもしれないなんて思い上がったりして……。
そのせいで、テテも、シャムロックさんも、傷つけた」
、やめろ」
「みんなみんな、私が悪いんです」
……!」

  たまらず声を荒げたイオスをが振り返る。
  僅かな月光を背に振り向いた彼女は、意外にも穏やかな表情を浮かべていた。
  静かな海のように凪いでいるその瞳からは何の感情も読み取れなくて、イオスは言葉を失う。

「――悪いのは自分だって、わかってるんです。
それでも……イオスさん、私ね」


  イオスの瞳をまっすぐに見つめて。罪を告白するようにそっと、彼女はこう言った。



「今日……。
生まれて初めて、誰かを殺してやりたいって、思いました」



  ――自分がこんな感情を持つことになるなんて、思いませんでした――。



  そう呟いた彼女は、何かを諦めてしまった力のない瞳を細めて、寂しそうに笑った。


「――もう、行きますね。
私は大丈夫ですから……イオスさんこそ、ちゃんと休んでくださいね」


  おやすみなさいと言葉を残して。儚い微笑を浮かべたまま、彼女はシャムロックとテテが眠る小屋へと消えていった。







◆◆◆
が樵小屋へと姿を消してからも、しばらくの間イオスは身じろぎひとつせず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
  ふらりと足元が揺れる。眩暈を覚えた彼は、どさりと近くの樹の幹に背を預けた。

  彼女が最後に見せたあの儚い笑顔が、二本の足で立つ力すら奪うほど、イオスを絶望の底へと叩き落していた。


「いつから、あんな顔して笑うように、なった……」


  行き場の無いかなしみを知ってしまった者だけが浮かべる、それはあまりに寂しい微笑みだった。
  あんな、消え入りそうな笑顔を見せる少女では無かった筈なのに。の笑顔はもっともっと、春の日差しのように明るくて優しくて――暖かで純粋なその笑顔に自分は惹かれた、のに。……なのに。

  とうとうその場にしゃがみこんでしまったイオスは、けれど過去に一度だけ、彼女のあのかなしい笑顔を見たことがあるのを思い出した。

  記憶を辿る。そんなに昔のことではない。

  そうだ、あれは。
  彼女を召喚してしまった、あの夜。帰れないと知った彼女がたった一度だけ見せた、諦めの笑顔。

(彼女を召喚した時、の――……)

  イオスは、はっと両の目を見開いた。

  彼女をリィンバウムに喚(よ)んだのは、自分だ。
  リィンバウムにさえ来なければ、彼女は殺意なんて感情を知ることも無かった。誰かを刺し貫き、その記憶にひとり震えることもなかった。


  すべてはそう、自分のせいなのだ。
  穢れを知らない彼女のあの小さな白い手を、赤い血で染めさせてしまったのは、自分――……。



「……

  大事な大事な少女の名を、呟く。

  ……大事なのに。ああ、どうして自分は、彼女をこの戦場に連れてきてしまったのだろう。
  彼女がどうしてもと願ったからだなんて、そんなのは言い訳だ。自分が強く言い聞かせれば、おそらく彼女はデグレアに残っただろう。
  そうしなかったのはただ――自分が彼女といたかったから。自分がと離れたくなかったからに他ならない。

  愚かな選択をしたのは、イオスだ。

  彼女のことを思うなら、本当は護衛でもなんでもつけて、絶対にデグレアに置いてくるべきだったのだ。そうすれば彼女は傷つかなかった。そうすれば、あの男と出会うこともなかった。


  あんなに寂しく笑うことも、なかった筈なのに。


  ――悪いのは自分だと、彼女は言った。けれど。

「違うよ、
……一番悪かったのは、僕だ……」

  己の我侭で、を連れてきた自分。
  大事なのに、こんなに好きなのに、彼女を護れなかった自分。間に合わなかった、自分。


  どれだけ後悔しても、もう、遅い――……。




「……

  呼びかけても、彼女の声は聞こえない。

「……

  どれだけ呼んでももう、イオスの声は、届かない。


  夜風に揺れる梢のさざめきさえ、自分をあざ笑っているかのように聞こえた。
  見上げた先、木々の合間に見える夜空に確かに月は出ている筈なのに、森の影に隠れて見えなくて。

  まるで、今の彼女の心のように。彼には見つけられない、捕まえられない――今夜の月。


  暗い暗い森の中。イオスはひとり、いつまでも、そこから動くことが出来なかった。
 

 



第14夜 END