――シャムロック様。
――シャムロック様。
耳に馴染んだ懐かしい声が彼の名を呼ぶ。
臆するシャムロックの後ろで、大丈夫ですと彼等は笑った。
――我々は隊長を信じています。
――貴方がいる限り、我らトライドラの騎士は、決してデグレアに屈したりしません――。
力強いその言葉はいつもシャムロックの不安を拭い去ってくれた。
若くして守備隊長の座についた彼が今日までやってこれたのは、この優秀なる部下達のおかげなのだ。 大事な大事な、かけがえのない存在。ずっと一緒に、国のため剣を捧げていこうと誓った仲間。
彼等がいれば、大丈夫。シャムロックの口許におのずと笑みが浮かんだ。
「よし、もう一度態勢を整えるぞ! 我々は負けるわけにはいかない」
――はい、シャムロック様。
聞こえてきたのはいつも通りに彼の心を奮い立たせてくれる皆の返答。
けれど、振り返ったシャムロックの瞳に映った彼等は
首から上が、無かった。
第15夜 ナイト・オブ・ナイツ
「――あああアアアアアァァァァァァ!」
ずらり整列し敬礼する首の無い身体。その横を鞠のようにころころと、赤い涙を流す頭部が転がり落ちていく。
奈落に続く坂道。叫びながら、シャムロックは部下の首を追いかけた。
――申し訳ありません、シャムロック様。
――我々が至らないばっかりに、砦を明け渡してしまいました。
ひとつ、またひとつ。嘆きながら首は闇に飲まれていく。
「お前達は何も悪くない!
護れなかった私に責任が――全ては私が!」
掴み取ろうとした最後の首は、彼の側近、アリヤ。
――もうお傍でお役にたてないことをどうかお許しください、シャムロック様……。
そう言い残して、首は彼の手をすり抜け、消えた。
坂を駆け下りたシャムロックは、とうとう力尽きその場に崩れ落ちた。
皆、死んでしまった。護れなかった。全てを失ってしまった。
シャムロックの嘆きに呼応するかのように、手をついた地面からじわじわと闇がうまれ、彼の身体を侵食していく。
とうとう首から上も闇に浸かろうとしていたその時、ふいに目の前にきらりと光る何かが落ちてきて、シャムロックは顔を上げた。
宝石の粒のように透明な光を宿したそれは、ひと雫の涙。
もはや絶望以外は存在しない筈の、まるで新月の夜のように真っ暗な空間の先に、いつの間にかひとりの少女がいた。
しゃがみこんだ彼女は、顔を両手で覆ってさめざめと泣いている。流す涙が泉のように溜り、少女の身体をつめたく蝕んでいた。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
少女はひたすらそう繰り返して泣き続ける。
――ごめんなさい。ごめんなさい……。
溜まり続けた涙は海となり、とうとう少女の身体を飲み込んでしまった。ああ、死んでしまう。助けねばと思ったシャムロックはとっさにそこへと飛び込んだ。
たゆたう水の中で少女が彼を振り返る。震える唇が何かを呟いた。
――しなないで。
(何を――死にそうなのは、貴女の方でしょう!?)
水の底に引きずられていく少女に、シャムロックは夢中で手を伸ばす。
もう目の前で誰かに死なれるのはたくさんだった。
水の向こうで少女の髪に結わえられた黒いリボンが揺れている。
それは決して失ってはいけない尊いもののように見えて、彼は水の中で必死にもがく。
あと少しで手が触れるというその瞬間。少女の黒い瞳が彼の鳶色の瞳をとらえた。
「……シャムロックさん?」
開かれた少女の口が紡いだのは、そう、自分の名前。
けれどその声は、不思議とずいぶん上から聞こえた気がして彼は遥か上の水面(みなも)を見上げる。
「――シャムロックさん!」
はっきりとした声が光となって彼の身体を包み込み、引き揚げる。意識が覚醒するのだとわかった。
重い瞼をゆっくりと開ける。
――長い長い悪夢から目覚めた彼が最初に見たものは、涙の海に沈んだはずの、黒髪の少女の姿だった。
◆◆◆
気だるい身体の端部から次第に感覚が戻ってゆく。夢なのか現(うつつ)なのかはっきりしない霞がかかった視界の中、シャムロックの瞳が目の前で揺れる黒い瞳をとらえた。
まだ完全に思考能力が戻らずただ瞬きを繰り返すシャムロックを前に、はまるでそれが現実のものであることを確かめるかのように彼の肩にそっと触れ、幾度も撫で下ろす。 ややあって、震える指先を離した彼女は泣き出しそうに顔を歪ませた。
「よ、よかった……よかったあっ……!」
何度もそう繰り返して、安堵のあまり膝の力の抜けたはシャムロックが横たわるベッドの脇へとしゃがみこんでしまった。
そんな少女の姿をぼんやりと眺めながら、シャムロックはゆっくりと口を開いた。
「ここは、私は一体……?」
「ローウェン砦の北側の……国境の近くの森です。
南に少し歩いたところに、デグレア軍が」
「……ローウェン砦? ……デグレア……?」
「砦で怪我をして、あなたは気を失ってしまって……。 それで、治療のために私達がここへあなたを連れて来たんです」
「怪我……?」
「はい。
あの……覚えていませんか?」
一体何がどうなっているのかわからないまま、シャムロックはただうわごとのように浮かんだ疑問を口にする。
請われるまま律儀に答えを返していた少女が、ここで初めて言葉を濁らせた。
「その……。
砦で、あなたは私を庇って、怪我を」
「……貴女を? 私が……?」
不思議そうにこちらを見つめてくるシャムロックを直視することが出来なくて、は思わず視線をそらしてしまう。
哀しげなその横顔をどこかで見たことがあると、シャムロックは思った。
(――この人は、誰だ……?)
黒い髪、黒い瞳。確かに覚えがある気はするのだが、けれどシャムロックの記憶は目の前の少女が一体誰なのか、その答えを導き出すことが出来ない。
何もかも、わからないことばかりで。彼はただ困惑した。
どうして自分はここにいるのだろう。
どうしてこの少女は、そんな今にも泣き出しそうな顔をしているのだろう。
――背中で疼く傷は、彼女をを庇って負った怪我だという。
庇った? いつ、どこで?
ずきん、と頭の芯がひどく痛んだ。
たくさんの叫び声が耳の奥にこだまする。
(このひと、は)
掛け布を握り締める手に、知らず力が込められた。
震え出す手首。 そこに結わえられた黒いリボンを見た瞬間、シャムロックの脳裏に閃光が弾けた。
……砦?
「そうだ、私は……――っ!」
全てを思い出して、シャムロックは飛び跳ねるように身を起こす。けれど、直後背中を貫いたあまりの痛みに、彼はその先の言葉を発することが出来なかった。
額に脂汗を滲ませ、歯を食いしばって激痛に耐えるその姿を前に、の瞳に怯えの色が走る。ひっとちいさく息をのみ反射的に一歩後ずさってしまっただったが、すぐに我に返った彼女は慌ててベッドへとすがりついた。
「だ、駄目です! まだ無理をしたら傷がっ……」
どうやら峠は越したらしいが、それでもシャムロックは未だ熱も高いままで、まだ絶対の安静を要する状態なのだ。青ざめ、寝ていて下さいと言っては起き上がった彼の身体をベッドへと押し返そうとするのだが、肩に触れた少女の手をシャムロックは乱暴に振り払った。
目を見開くをよそに、シャムロックは転げ落ちるようにベッドから木の床へと身を投げ出す。壁に手をついてなんとか立ち上がった彼は、ふらつく足取りで扉へと向かった。
「砦は、ローウェン砦はっ……!」
「駄目っ! お願いです、ベッドに戻って……!」
「離せっ……離して下さい!
砦は、皆はどうなったんですか!? 誰か、誰か生き残った者は、誰か――……!」
「――誰もいませんっ!」
外に出ようとするシャムロックの腕にすがりつき、が悲痛な叫びを上げる。
最後の審判のように響き渡った少女の言葉に、それまで無我夢中でもがいていたシャムロックが、嘘のようにぴたりと全身の動きを止めた。
「……誰、も?」
低く震える声がの胸を締め付ける。これから自分が口にする言葉が、彼にとってどれだけ残酷なものであるのか――その重みに今にも押しつぶされそうになりながらも、は真実を告げなければならなかった。
撤退前に、イオス達が広い砦中を血眼になって探し求めて、それでも得られなかったもの。
あの砦には、もう――……。
「ローウェン砦にはもう、誰もいません。
生き残ったのは、シャムロックさん……あなただけです」
シャムロックが鳶色の双眸を見開いた。
息が、出来なくなる。揺らぐ視界。全ての音が遠くなる。
「う、――!」
嘘だ、と叫ぼうとして。けれど叫ぶことは出来なかった。
目の前で食い千切られた側近。砦に飛び込み石の階段を駆け上がる間に見た、皆の変わり果てた姿。
どれだけその名を叫んでも、誰一人応える者はいなかった。 動いていたのはただ、護ると誓った砦を濡らす赤い雫――大切な部下達の身体から滴り落ちる血液のみ。
――覚えている。そして、認められないが、階段を登り切ったあの瞬間からわかっていた。
デグレアという悪魔によって、たったひとりの召喚師によって。三砦都市トライドラが北の要として誇るローウェン砦は全滅という形で陥落したのだ。
誰も、生きていない。誰も、戻らない。生き残ったのは長である自分、ただひとり。
真実はただ、それだけ。
護れなかった。救えなかった。そうして全て、失った。
――負けたのだ。
「シャ、シャムロックさんっ!?」
崩れ落ちるように床に膝をついたシャムロックにが慌てる。
耳元で聞こえる少女の叫びは自分を気遣うものらしい。けれどもう何もかも全て、シャムロックには現のものには思えなかった。
絶望のどん底に叩きつけられて、心のどこかが麻痺してしまったのかもしれない。泣き叫びたいと思う反面、妙に冷静になっていく自分がいた。
長く長く息を吐いた彼は、視線を床に落としたまま、感情のこもらない声を発した。
「――それで。
私は、デグレアの捕虜になったと、そういう事ですか」
この状況で生かされている理由なんて、それしか思いつかない。そしてこのまま、そう遠くない未来に自分も殺されるのだろう。最も、全てを失い死んだも同然であるシャムロックにとっては、そんなことはもうどうでも良かったが――……。
しかし、シャムロックの言葉にはいやいやをするように何度も首を横に振った。
「違います!
あんな形で、私達はあなたとの約束を破ってしまったから……それなのにあなたは、私を庇ってくれたから……!
だからせめて、あなただけでも助けたいと皆が思って、それで」
「――私が、庇ったから?」
ちいさく呟き、ゆっくりと顔を上げたシャムロックは、彼を支えるように崩れ落ちた身体に手を添え、一緒になって床にしゃがみこんでいる少女を見やる。
底なし沼のようにどこまでも暗いシャムロックの瞳にとらえられて。そこに覗く絶望のあまりの深さに、はしばらくの間、息をすることすらままならなくなった。
(この人を、庇ったから……助けられたのか? 私は)
シャムロックの鳶色の瞳に映る、黒髪の少女。
――そういえば。少女とはいえ、彼女は間違いなく敵国の兵士なのに――どうしてあの時、自分は身を呈してまでこの娘を庇ったりしたのだろうか。
自分を突き動かしたその理由は何だったのだろう。現実味のない感覚の中、ただぼんやりと、シャムロックはそう自問した。
視界の隅を、手首に巻き付けた黒いリボンがよぎる。
デグレアの使者として休戦交渉に来た少女。スルゼン砦で死んだ騎士達のために涙を流し、弔いと謝罪をこのリボンに込めたという彼女を、信じた。そして、裏切られた。
――否――裏切ったのは彼女ではない。あの敵将……ルヴァイドでもない。 砦の最上階に辿り着き、そこでぼろぼろに傷つけられた少女を見て、シャムロックもそれは理解したのだ。全ては、あのビーニャという召喚師がたったひとりで引き起こしたことなのだと。
トライドラ兵を皆殺しにしたあの女によって、この少女まで殺されようとしていた。同朋の為に祈ってくれた彼女を失いたくないと、そう思って――それで、シャムロックはとっさに少女を庇ったのだ。
敵兵だとか、そんなことは関係なかった。ただ、もう目の前で誰かを失いたくなかった。あの時はただそれだけで、必死だったのだ。
――そう。信じたのも、庇ったのも、全ては彼自身が決めたことだ。
そうして。その結果――自分だけがこうして今、生きている。
それはあまりにむごすぎる現実だった。
「……あなたを捕虜にしようとか、ルヴァイドさまは勿論……誰もそんなことは思っていません。
ただ、あなたに生きて欲しい。砦をあんなにした私達がこんなことを言う資格がないのはわかっていますが、それでもこれが、今のデグレア軍全員の気持ちなんです……」
「…・・・生きて欲しい……だって……?」
少女の言葉に、シャムロックは床についた両手をきつく握り締める。
悲し気なその声が、どうしようもなく耳障りだった。
部下を失ったのも自分だけがおめおめと生き残ってしまったのも、全ては己の行動が招いた結果だ。けれど、その発端は全てこの少女にあって――絶望に沈みきっていたシャムロックの心に、次第にやり場のない怒りがふつふつとこみ上げていった。
彼女さえ来なければ、きっと運命は違っていただろう。
こんな結末ではなかったかもしれないのに。
彼女が泣いたりしなければ。
彼女がリボンを残したりしなければ、自分は、こんな――……。
「――出て行って下さい」
少女から視線を逸らし、シャムロックは腕に添えられたの手をそっと降ろさせる。
静かに告げられた予想外の言葉には肩を震わせ、その瞳を大きく見開く。うつむき、前髪に隠れて表情の見えない彼の横顔は、けれど確かに彼女を拒絶していた。
「シャムロックさん……」
「あの時貴女を信じたのも、庇ったのも、私自身が決めたことです。
戦に負けた一番の原因は、何より私が弱かったからに他なりません。貴女や、ルヴァイド殿のせいではない」
――けれど、と。血の滲むほど唇を噛み締めて、シャムロックは言った。
「貴女を庇ったせいで、私ひとりがこうして命を与えられたというのなら。
……貴女を庇ったことを……心底悔やみたいですよ、私は……」
少女の口から告げられた、生きろという言葉。勿論彼女とて傷ついているのだろう。けれど、他ならぬ彼女がそれを言うのは――あまりに、残酷だ。
「ひとりで生きながらえるくらいなら……。
いっそ私のことも、殺してくれれば良かったんだ……!」
「――っ!」
消え入るようにぽつりと呟かれたその台詞が、の心を粉々に打ち砕いた。
……スルゼン砦の時から。自分は全て、間違っていたのだろうか。誤った歩みの結果が、シャムロックのこの言葉なのだろうか。
――今更何かを悔やんでも、けれどもう遅い。起きてしまった現実は、失われてしまった命達はもはやどうあがいても戻らないのだ。
「ひとりに、してくれませんか」
再び静かに告げられた拒絶の意思。
泣くまいと必死に堪えてきた本人の想いには関係なく、つめたいシャムロックの声を聞いたの瞳からとうとう涙が零れ落ちる。震える手でそれをぬぐうと、は黙って立ち上がった。
言い訳なんて、何もない。
経緯はどうあれ、デグレアは彼から全てを奪ってしまったのだから。自分もその原因に大いに加担しているのだから。
許してもらえるとは思っていない。今が口に出来るのはただ、謝罪の言葉しかなかった。
「……ごめんなさい」
床に座ったままのシャムロックを振り返らないまま、最後にひとことだけそう言い残して。少女は静かに扉の向こうへと消えて行った。
木の扉が閉じられる。そうして訪れたのは、日の出前の静寂。
この世から誰もいなくなったかのような音のない世界が、ひとり床に膝をついたままのシャムロックを容赦なく押し潰した。
「――っ!」
次の瞬間、シャムロックは手首に結わえていたリボンを力任せにほどくと、それを思い切り床へと叩き付けた。
……叩き付けたつもりで。けれど、リボンは何の手ごたえも返すことなく、ただふわりと舞い落ちただけ。やり場のない激情を全て込めた筈の手は、ただ虚しく宙を斬っただけだった。
――空振り。からまわり。どうしようもない今の自分そのままで、シャムロックは思わず天を仰ぐ。
少女の最後の声。嗚咽を必死に堪え、悲しみに暮れたその声が頭から離れなかった。
……彼女にあんな事を言っても仕方がないことくらいわかっていた。あの時自分は確かに彼女を護りたいと思って庇ったのだし、彼女を信じたのも自分だ。だからこれはただの八つ当たりなのだ。
少女の顔に濃く滲んでいた疲労の色。おそらく、気を失った自分を夜通し看病してくれたのだろう。そんな女の子を傷つけたりして、最低だとシャムロックはひとりごちる。
――それでも。もう他にどうしたらいいのか、シャムロックにはわからなかった。
彼にはもう、何もない。護るべきものが何もないのだ。
たくさんの尊い命が失われて。なのにどうして、自分だけが生き残ってしまったのだろう。生き残って、それでこれからどうしろというのだろう。
救いたかった部下達は誰一人救えなくて、敵兵の少女だけを護ってしまった。そのせいで自分が生かされているというこの矛盾がシャムロックはどうしても許せなかった。
「……いっそあのまま殺してくれた方が、ずっとずっと、楽でしたよ……!」
全てを失ってしまったシャムロックの慟哭が響く。
……遠い昔。騎士たるもの、何があっても決して流すまいと固く心に誓ったもの――涙が、誰も居ない小屋の床を静かに濡らしていった。
◆◆◆
とうとう食事も取らずに朝を迎えてしまったを心配し様子を見に来たイオスは、小屋の前でひとり膝を抱えてうずくまっている少女の姿に驚きのあまり紅い瞳を見開いた。
一目散に駆け寄ると、その華奢な肩を掴む。
「――!?
どうしたんだ、何でこんなところでっ……!?」
大きな声で名を呼ばれ、膝に顔をうずめていた少女の肩がびくんと震えた。
「……い、おす、さん……?」
心ここにあらずといった声で少女は彼の名を口にする。
ややあって、ゆるゆると頭をあげたの顔は涙の跡でぐしゃぐしゃだった。真っ赤に泣きはらした黒い瞳を前に、イオスの思考が停止した。
「一体何が……っ。
――あいつ、あいつに何かされたのか!?」
「ち、ちが……」
力なく首を横に振って少女はイオスの言葉を否定する。だが、看病のためシャムロックの傍を片時も離れようとしなかった彼女がこうしてひとりで泣いているなんて、何かがあったとしか考えられなかった。
「――っ! あの男っ……!」
ぎりりと唇を噛み締めたイオスは、の静止を振り切りそのまま小屋の中へと飛び込む。
ノックもせずいきなり大きな音を立てて開け放たれた扉に、ベッドの端にぽつんと腰掛けていたシャムロックが驚いて顔を上げる。彼が何かを言う前に、怒り狂ったイオスは敵将の胸倉を乱暴に掴んだ。
「貴様、一体彼女に何をした!」
彼が怪我人であるとか慎重に扱わねばならない敵国の人間であるとか、そんな特務隊隊長としての理性なんて吹き飛んでいた。噛み付かんばかりの勢いでイオスはシャムロックを睨む。
この男を助けようとあんなに必死になっていたが、たったひとりで泣いていた。この瞬間、イオスはシャムロックに殺意さえ抱いた。
――許せなかった。
「な、何ですか、いきなりっ……!」
「お前を助けるために彼女がどれだけ無理をしたかわかってるのか!?
なのにどうしてがひとりで泣いたりしなきゃならないんだ!」
「何の話……」
「とぼけるな!
いいか、はずっと外で泣いてたんだ! お前が泣かせたんだろう!?」
「イ――イオスさんっ! やめて、やめて下さいっ!
私があそこにいたのは私が勝手にそうしたかったからで、だからシャムロックさんは何も――! 」
激昂するイオスの背中にが追いすがる。
突然現れたかと思えばあまりに失礼な振る舞いをするこの金の髪の青年に、さすがのシャムロックも怒りのあまり冷静さを失いかけていたのだが、思いがけない言葉を浴びせられて彼ははっと息をのんだ。
驚きもあらわに、彼は視線を青年の後ろで狼狽している少女へと移す。
「ひとりで、って……。
貴女、あれからずっと、外に……?」
まさかと目を見張るシャムロックと視線がぶつかって。は顔を辛そうに歪ませた。
「だ、だって……。
だってシャムロックさん、まだ熱も下がってないし……ひとりにして何かあったら大変だから、だから……!」
嗚咽が混ざり、その先が言葉にならない。
しゃくりあげる少女の姿に、シャムロックは頭を何かで殴られたような気がした。
出て行けとシャムロックが言ったのは、確か東の空が白み始めた……そう、夜明け頃だ。
今、木漏れ日の揺れる窓の外は明るく、太陽はすっかり昇りきっている。あれからずっと、少女はたったひとりで小屋の前にいたというのか。
――自分のために。
何と言ったらいいかわからず、シャムロックの口があえいだ。
「どうして……。
だからどうして貴女はそこまでして……!」
――砦でも、そして今も。何故この少女はこうして何のためらいもなく敵兵のためにその身を削ってしまうのだろう。
正義と裏切り。流血と断末魔の叫び。ともすれば人の心なんて簡単に失われてしまうこの戦場において、どうして彼女は敵味方関係なく、表も裏もなく、ただ誰かのために涙を流すことが出来るのだろうか。
――戦場に置くにはあまりに無垢な存在。穢したくない、護りたいと思わせるもの。
いっそ敵兵だと割り切れれば楽なのに。憎むことが出来れば楽なのに。それが、出来ない。
彼女がこうして泣くたびに、自分の心はどうしようもなく乱されるのだ。
シャムロックの中で、大切な部下達を失ってしまった悲しみとデグレアへの怒りと、そしてこの少女への行き場のない感情がめちゃくちゃに交錯した。
「あ、貴女はっ……」
言葉を失ったシャムロックの鳶色の瞳を見つめ返して。はもう一度、青ざめた唇を震わせた。
このひとに、まだ言わなければならないことがたくさんあった。
「シャムロックさん。
ごめん……な、さ……」
聞いている方が、切なさのあまり「やめてくれ」と泣き叫びたくなるような、その存在ごと今にも風に消えてしまいそうな声で、少女は謝罪の言葉を紡ぐ。 赤く充血した瞳から流れ頬を伝ったひとしずくの涙を前に、激昂していた筈のイオスも混乱していたシャムロックも頭が真っ白になり、身じろぎひとつ出来なくなってしまった。
――泣かせたくない。
うたかたの涙を目にしたその瞬間、二人の青年の心を支配したのは同じ想い――……。
けれど、最後まで言い終わらないうちに、の身体がぐらりと前のめりになる。糸が切れたマリオネットのように力を失った彼女が床に崩れ落ちるのを、はっと我に返ったイオスがすんでのところで抱きとめた。
「!? しっかりしろ、!」
身体を揺さぶり何度も呼びかけるのだが、少女は固く瞼を閉ざしたままぴくりとも動かない。
長い睫毛が、血の気のない顔色にさらに暗い影を落とす。その不吉さに、ひやりとした嫌な汗がイオスの背を伝った。
「、っ……!」
息は、している。おそらく疲労による貧血だろう。
休ませれば大丈夫だと、頭の片隅でわずかに残った理性が告げるのだが、おそらくこうなることがわかっていただけに、イオスは悔しさで一杯になった。
――どうして。どうして彼女が、こんな目にあわなければならないのだ――……!
ぐったりとしたの身体を抱きしめたまま歯軋りするイオスの横に、よろめくように近寄ったシャムロックが力なく腰を落とす。 少女が倒れたことに動揺した彼は、無意識のうちに彼女の容態を確かめようとその手を伸ばした。
震える指先。こわれものに触れるかのように、シャムロックの手がの頬を辿る。
けれどすぐに、それは横から伸びた別の手により振り払われた。
「――触るなあっ!」
真正面から怒鳴られ、茫然自失だったシャムロックははっと息をのむ。手の甲を打った痛みが彼を現実へと引き戻した。
視線の先、まるでシャムロックから護るかのように少女を抱きしめた金髪の青年は、憎しみをあらわにシャムロックを睨んでいた。
「貴様のせいだ。
……貴様のせいで、はっ……!」
少女を抱きこむ腕にぎゅっと力を込める。
がこんなになってまで助けようとした目の前の男が、イオスはどうしようもなく憎かった。
「貴様さえいなければ、彼女がこんなに傷つくこともなかったんだ!」
お前のせいだと罵る声が、粗末な樵小屋に響く。
イオスの抗議は正当なものであり、シャムロックはぐっと喉を詰まらせる。けれどすぐに、沸き起こった怒りのあまり頭にかっと血が上った。
デグレア兵の青年は、シャムロックが触れるのも厭うほどにこの少女が大切らしい。
けれど。だったら、どうして――……。
「……確かに私は彼女を傷つけたかもしれない。
ですが、そう言う貴方こそ――そんなに大事なら、どうしてこの人を戦場に連れて来たりするんですか! 」
こんなに純粋で傷つきやすい少女を戦場に連れてくる方が、狂気だ。
大切ならば。護りたいと思うならば。何故、むざむざと危険にさらすのか。
そう、 彼女を泣かせることが罪ならば、このイオスという青年とて同罪の筈だ。一方的に断罪されるいわれはない――……!
「こんな穢れた場所にこの人を放り込んでおいて……貴方に私を責める資格があるのですか!?」
怒りに燃える瞳で、シャムロックはただ真っ直ぐにイオスを睨み返す。
胸をえぐった敵将の言葉に、イオスの喉がからからに干上がった。
声が、出なかった。
――何故ならそれは、まぎれもない真実だったから。
敵であるトライドラの騎士にそんな言葉を浴びせられても、イオスは返す言葉がない――。
イオスの腕の中で、は気を失ったまま目覚める気配すら見せない。
物言わぬ少女を挟んで対峙した二人。
床に落ちた黒いリボンが、僅かに吹き込んだ隙間風に煽られ、どこか悲しげにふわりと一瞬、揺れた。