シャムロックに受け入れてもらえたことが嬉しかったのか、いくらか瞳に明るさを取り戻した少女は、薬を持ってきますと言ってドアノブに手をかける。
けれど、まだ完全には貧血から立ち直っていなかったのだろう、ふいに眩暈を覚えた彼女はふらりとたたらを踏んだ。
「!」
また倒れてしまう。慌てて少女を支えようと手を伸ばしたしたイオスに、何とか踏みとどまって体勢を整えたは大丈夫ですとちいさく笑った。
そんな彼女の肩に背後からかけられた大きな手。が何かを言う間もなく、その手はを無理矢理ベッドへと座らせた。
強い力で己を引き寄せた人物には目を見張る。
「シャ――シャムロック、さん?」
唖然としている少女に対し、彼女とは反対側の端に――気まずいほどの空間をあけて再び腰を下ろしたシャムロックは、肩を落として静かにため息をついた。
「……痛みは、だいぶよくなりましたから……薬のことは、そんなに急がなくても大丈夫です。
それより今は、貴女が自分の身体を癒すことの方が先決でしょう」
「で、でも」
大丈夫ですからと言って表情を取り繕う少女にシャムロックは首を横に振る。
「貴女は、まだこれから生きていく……勝者の側にいるのですから。
もっと、自分を大事にしなければいけませんよ」
「……え……?」
どこか含みのあるシャムロックの物言いに、嫌なものを感じたは眉をひそめる。
自分を気遣ってくれたシャムロックの優しさは、ただ、嬉しい。けれど、彼のこの言葉にはもっと何か違うものが――酷いあきらめが込められている気がして、を焦らせた。
言葉の意味を図りかね、ひとり困惑している少女を傍目に、シャムロックはぽつりとこう告げた。
「……貴女が身を削ってまで助けるのなら……どうせ助けるのなら、もっと生きる気力を持った人間を助けた方がいい」
予想外の科白には驚きその黒い瞳を大きく見開く。
突然のことに、ショックで言葉が出なかった。
やっと、受け入れてくれたと思ったのに。どうして彼はそんな悲しい言葉を口にするのだろうか。
生きる気力を持った人間を、なんて。どうして。
――これでは。これではまるで、彼が……。
「……皆を失って……。
騎士として、護るべきものも、護りたいものも全て失ってしまった私には……もう、生きている資格も目的も……何もないのですよ」
その声から感じられるのは、ただ、虚無という名の悲しみだけ。
打ちひしがれ、丸められた背中に敵将が背負っているのは果てのない影。あまりに重いその姿を前に、もイオスも身じろぎひとつ出来なくなってしまった。
床を見つめたまま、シャムロックの視線は上がらない。
「私はもう、死んだも同然の人間なんです。
貴女の気持ちはじゅうぶんわかりましたから……だからもう、貴女がそこまでする必要はないのですよ」
――デグレア軍の長……ルヴァイドなりの騎士道精神によって。そしてひとりの少女によって与えられたこの命。
けれど、シャムロックはもはや、己の生にまったく希望を見出せなかった。
騎士として、護ると誓ったものは全て、自分の手の届かない場所へと奪い去られてしまった。
護れなかった自分に、騎士たる資格はない。
そして、騎士でない自分に、生きている資格などないのだ。
このまま静かに、闇に溶けるように、消えてしまいたかった。
消えて、そうして先に逝ってしまった仲間達のもとへと行きたい。不甲斐無い己の罪を、彼等に伏して謝りたい――……。
デグレア側にいくら謝罪されても。この少女がいくら献身的に尽くしてくれても。
シャムロックが望む明日はもうどこにも無いのだ。
これ以上無様に生きながらえても。もう、何も――……。
◆◆◆
「……どうして」
息苦しいほどに重く悲しい空気が流れる中。気の遠くなりかけていたシャムロックは、ふいに手の先にあたたかさを感じてゆるゆると顔を上げた。
ベッドの端に座らせたはずの敵国の少女が、いつの間にか自分の前に跪いている。少女の細く小さな指がそっと、握り締めた己の手に触れていた。
「どうして、そんなことを、言うんですか」
少女の声が震えていた。
「確かに、私達はあなたから、あなたが大切に護ってきた全てを奪ってしまいました。
だけど、シャムロックさんはまだ、生きています。……手だってこんなにあたたかい」
ね? と言って、は力の緩んだシャムロックの手をほどき、人差し指の先をちいさく握る。
そのあたたかさに、シャムロックは驚き目をみはった。
遠慮がちに握られた手。とてもとても弱々しいのに、けれどそれは、闇に身を捧げようとしているシャムロックを光の中へ引き戻そうとするかのように――何故だろう、不思議な力強さがあった。
「本当に、何もないんですか?」
「……え?」
「砦は、無くなってしまいましたけど……。
他に、シャムロックさんが護りたいものは、本当にもう何もないんですか?」
少女の問いかけが、悲しみに浸かり、ただぼんやりとふやけていたシャムロックの頭に思考を取り戻していく。
あの砦以外に、自分が護りたいもの。護るべきもの。何か、あっただろうか。少女の黒い瞳を吸い寄せられるように覗き込みながらシャムロックはそう自問した。
――守備隊長に抜擢されて以来、シャムロックは全身全霊をかけてあのローウェン砦を護ってきた。砦こそが騎士としてのシャムロックの全てだったのだ。
けれど、砦に就任する前からすでにシャムロックは「騎士」だった。
トライドラの騎士は、『何か』を護るために存在する。それに誓いをたて、剣を、命を捧げる。
では、その時自分は一体何を護っていたのだろうか?
騎士になった時、自分が最初に護ると誓ったものは?
……何を、護りたくて。何のために、自分は騎士の道を――……。
「私はものを知らなくて……おかしなことを言っていたらごめんなさい。
でも、騎士って、『国』を護るための存在なんですよね?
シャムロックさんの国は、トライドラはまだちゃんとあるんです。国まで無くなってしまったわけじゃないんです。
……デグレア兵の私がこんなことを言う資格なんてないのはじゅうぶんわかっています。すべては私達のせいだということもわかっています。
だけど、国があるから・・・…だからシャムロックさんにはまだ、帰る場所も、護るべきものも存在している――違いますか?」
はっと、シャムロックは息をのんだ。
ゆっくりと、慎重に選びながら紡がれた少女の言葉。その声に、シャムロックは横っ面を思い切りはたかれたような気分に陥った。
まじまじと、彼はの顔を見つめ返す。
――国。
そうだ。自分にはまだ国が残っている。トライドラが残っている。
国の為にこの身と剣を捧げると、叙任式の折、シャムロックはそう主君に誓ったのだ。
生涯の忠誠を。国と、トライドラ領主――リゴールに。
(リゴール様……!)
シャムロックの脳裏に、ローウェン砦を頼んだぞと、そう言って自分を送り出してくれた敬愛する領主の顔が浮かんだ。
若い自分に目をかけ、厳しく暖かく己を導いてくれた主君。
その恩に報いないまま命を断つことなど許されるわけが無い。
否――砦を落とされた時点で報いることなどすでに出来なくなっていたが、けれど自分には、あのお方にひと目お会いして真実を告げるという最後の義務が残っている。
――守備隊長としての責務を果たせなかった自分を裁くのは、他の誰でもない、トライドラ領主・リゴールその人のみだ。
彼の人に会うまでは。己の勝手で生を捨てることなどどうして許されよう。
(……お伝えせねば。リゴール様に、ローウェン砦のことを)
砦を、騎士達を失ったと知ったら、リゴールはさぞかし嘆き悲しむだろう。領民達も涙を流すだろう。そんな国が背負う痛みは全て、シャムロックが責任を持って受け止めなければならない。
トライドラに戻っても、シャムロックを待っているのは安息ではなく怒りと悲しみだ。それでも、自分がこの戦いの結末を伝えねばトライドラ防衛網の再建は遥かに遅れるのだ。砦を奪われてなお、国を危険に晒すなど……シャムロックの最後の誇りにかけて、それだけは防がなければならない。
戻らなければ。
戻って、愛する母国を、領主を、護らなければ――!
「私は……。
そうだ、私は……私は戻らなければ……トライドラに……!」
うわごとのようにそう繰り返すシャムロックの瞳に、生きる道を見出した証の強い光が宿る。
それを見て、はこくんと頷いた。
「そうです。シャムロックさんにはまだ、護るべきものがある。
だからお願いです……生きて下さい。
生きて、あの時私を護ってくれたように――今度こそ、あなたが本当に護りたいものを、護って……」
そっと、シャムロックの指を握る手に力がこめられる。それから、離れた。
何もかも投げ出してひとり楽になろうとしていたシャムロックを引き戻したそのぬくもりが離れたことに、シャムロックは一瞬だけ狼狽した。
何故だろう、このちいさな手を離したくないと思った自分自身に驚いて、シャムロックは改めて目の前にいる少女を見やる。
――どうしてだろう。
こんなちいさな手で武器を握って、ひとり震えて、彼女自身もとても辛い筈なのに。なのにどうしてこの少女は、大の男が悲しみに暮れ見失いかけていた道すら指し示すことが出来るのだろう――・・・…。
「シャムロックさんは、まだ、生きる力があります。
――だから、ね? どうか……生きて、前を見て……。
あなたが生きてくれなかったら、私……」
「……、さん……」
うつむき、言葉を詰まらせてしまっただったが、思いがけずシャムロックの唇からこぼれた己の名前にびっくりして顔を上げる。きょとんとした表情で彼女は何度も目を瞬いた。
きっと、彼にとっては自分の名前すら疎ましいものなのだろうとばかり思っていたのに、まさかここで呼んでくれるとは……。
シャムロックが自分の名前を覚えていてくれたことが純粋に嬉しくて、 少女はふわりと微笑んだ。
「……また、あなたに名前を呼んでもらえるなんて……思いませんでした」
――いっぱい嫌われることしちゃいましたから。
そう言って、はわずか小首をかしげ、やわらかく瞳を細める。
「あなた、は……」
儚く揺れる少女の笑顔から、シャムロックは目をそらすことが出来なかった。
――この瞬間。シャムロックは心の奥底に、何か決定的なものが刻み込まれたのを感じていた。
言葉もなく、ただを見つめるシャムロックの姿に、ふたりから少し離れたところで立ち尽くしていたイオスはきつくその拳を握り締めた。
――ただ静かに寄り添い、不安な者の心をそっと包み込む――それは、が持つ不思議な包容力だ。イオス自身も、そんなの言葉に救われたことが何度もある。心を粉々に打ち砕かれるこの戦場において、彼女のぬくもりは自分を取り戻させてくれるかけがえのない存在だ。
優しくて、あたたかくて……一度それを知ってしまったら、きっと離せなくなる。自分のように。
――絶望の淵から救い上げてくれたこの少女を前に、敵将は果たして何を思うのか――。
どうしようもない焦燥感が冷や汗となってイオスの背を滑り落ちる。
とあの男との間に流れる空気が嫌で嫌でどうしようもなくて。これ以上ふたりを近づけてはいけないと、頭の中で何かが強く警告した。
取り返しのつかないことになる。そんな予感がして、少女をこちらに引き戻そうと、よろめくように一歩、イオスは足を踏み出す。
だが、彼が声をかける前に、信じられない言葉がイオスの耳を貫いた。
「――それにね。
シャムロックさんを助けることが、今の私に出来る唯一の罪滅ぼしなんです。
……生きる資格が無いのは、それほど罪深いのは、むしろ私の方だから――……」
「なっ――!?」
突然の少女の言葉に、イオスもシャムロックも絶句した。
罪、なんて。彼女に最も似つかわしくないであろう言葉が、何故いきなり彼女の口から出てくるのだろうか。
つい一瞬前まで敵将であるシャムロックに生きろと説いていた人間が、どうして自分自身を貶めたりするのだろう。衝撃のあまり、彼等の思考が停止した。
――どうして……。
呆然とするふたりの青年に、はゆるく首を振り、ただ悲しそうにその瞳を伏せた。
◆◆◆
「な――何を言っているんだ!
君に生きる資格がないだなんて、そんなことあるわけないだろう!?」
はっと我に返ったイオスが、シャムロックの前に膝をついたままの少女の元へと駆け寄り、そのうなだれた肩を掴む。
イオスに真正面から問い詰められても、はただ瞳を曇らせるばかりだった。
「だって、本当のことだから……。
無理を言ってこの戦いについてきて、我侭を通して使者までやらせてもらって……。なのに私は、シャムロックさんとテテを傷つけただけで、何の役にも立てなかった。
勝利に貢献したわけでもなく、ただビーニャさんと争って、余計な混乱を招いて……」
「だからそれは! 君のせいじゃないって何度も言ってるじゃないか!
悪いのはあの女と、それを止められなかった僕達……」
「違うんですっ!」
イオスの科白を遮ってが大きな声を出す。
驚くイオスの前で、少女は頭を抱え、駄々っ子のようにいやいやとひたすら首を横に振った。
「違うの! やっぱり悪いのは全部私なんです!
戦いのことをなんにもわかっていなかったのに、自分でも何か役に立てるかもしれないなんて思い上がって勝手なことばかりして!
戦争なのに……ちゃんとトライドラのことを敵だと思っていざとなったら自分で誰かを殺さなきゃいけなかったのに、その覚悟もないまま、ただのこのこと着いて来て、結局皆に迷惑かけて、やっぱり何にも出来なくて!
私がやったのは、ただ、同じ軍のビーニャさんを、さ、刺したことだけっ……」
「……」
ずっと我慢していたものが一気に溢れ出したのだろう。堰を切ったように己を責め出したを前に、いたたまれなくなったイオスは唇を噛み締めた。
――昨夜も、彼女は覚悟が足りなかったと口にした。テテを傷つけられたことで我を失い、ビーニャを刺してしまったことが、やはりの心を滅茶苦茶にかき乱しているのだ。
初めて人を傷つけてしまった時の恐怖とやり場の無い罪の意識。それは、武器を手にする者なら誰もが一度は通る道だ。
そんな、ただでさえ気持ちが混乱している中で、シャムロックとのやりとりもあり――は生きる資格がどうとかそんなことまで考えるほどに追い詰められているのだろう。
感情を昂らせる少女をなだめようと、イオスはそっとの背を撫でた。
「いいんだ、……君が気に病む必要は何も無いんだ。
君はずっと戦いなんてない世界にいて、武器だって持ったこともなかったんだろう?
培ってきた常識はいきなり変えられない……だからいいんだよ。君が戦いを上手く受け入れられないのは仕方の無いことなんだ。
だから、君は何にも、悪くない。罪なんて何もない。……な?」
暗がりに怯える幼子をあやすかのように、華奢な背中を繰り返し撫で下ろしながらイオスはゆっくりと少女に言い聞かせる。
ここで、シャムロックが不審そうに眉をひそめた。
「戦いなんてない世界、って……。
さん、貴女は一体……」
解せないといった表情のシャムロックに顔を向けたは、困ったように口許だけで笑った。
「……ああ……。
私ね、召喚獣なんです。
名も無き世界からイオスさんに喚(よ)ばれた、召喚獣」
「しょ、召喚獣……!? 貴女がっ!?」
とんでもない少女の言葉にシャムロックが驚愕の声をあげる。鳶色の双眸が大きく見開かれた。
確かに、こんな少女がデグレア軍に属しているのは不自然だと思っていた。何か事情があるらしいことは感じていた。
けれどまさか、リィンバウムの存在ですらない――召喚獣だとは――!
あまりに驚いてしばらくの間二の句がつげなかったシャムロックだったが、ややあって彼はある可能性に思い当あたりはっとその表情を強張らせた。
召喚獣だという少女。戦いの無い世界にいたという少女。
そんな女の子が身を削ってまで軍にいるということは……。
「では……。
それでは貴女は、いきなり召喚されて、戦うために無理矢理デグレア軍に!?」
怒りを含んだ声音でシャムロックの口から飛び出たとんでもない推測を、は慌てて否定した。
「ち、違います! それだけは違います!
イオスさん達はいつも私が安全な場所にいられるようにって計らってくれていたのに、ただ私がひとりになるのが嫌で皆と一緒にいたくて、それで我侭言って無理に軍に入れてもらっているんです!
……わがまま、言って、軍に……」
必死に弁明していたが急に声を落とす。
はあ、と深いため息をついた彼女は、辛そうにその唇を噛んだ。
「……最初に、ここは軍隊だぞって……お前には辛いんじゃないのかってルヴァイドさまに言われた時、私は覚悟をきめますって言ったんです。
だけど、やっぱり私は軍人としてやっていく覚悟って何なのか、どうしてもわからなくて。戦って、人を殺すっていう事がどういうことなのか……答えがわからなくて、受け入れられないまま、ここまで来てしまって」
「だから……。
、それは仕方の無いことで」
「――でも」
堂々巡りに陥っている彼女を止めようと挟まれたイオスの言葉を待たずには喋り続ける。
その声と表情にひときわ寂しい影が差した。
いつもは健気な、けれどきちんとした意思を持った光を宿している筈の黒い瞳が、まるで先刻までのシャムロックのように底なしの闇に飲まれている。
イオスですら思わず息を呑むような暗い目をして、は虚空を見つめ、呟いた。
「覚悟を決めなきゃ、理解しなきゃって焦りながらも……。心のどこかで私、その答えがわかってしまう日が来るのが怖いと思っていたんです。
イオスさんと、旅団の皆と、ずっと一緒にいたいって……同じ気持ちを共有したいって思っていたのに、なのに、どうせ私に戦うことなんか出来ないって……どこかで諦めていて。
それじゃ駄目なんだってわかっていたのに、でもどうしても怖くて……ただ目を逸らして、それで済んできたことに密かにほっとしていて」
「……」
「――ひどいですよね、私。
あれだけ役に立ちたいとかさんざん言っておいて、心の奥底では、やっぱり私に誰かを手にかけることなんて出来ないと、そう思っていたんです。
うわべだけ覚悟をしている風に装って……。だけど本当は、私は殺意なんて持たないって……一人だけ手を汚さないつもりでいた」
「、よせ、もういいからっ……!」
「だけど私も、人を刺しました。
あの時確かに、私はあの人を――ビーニャさんを殺したいと、そう思ったんです」
「!!」
胸をえぐるような少女の独白に、堪えきれなくなったイオスが無理矢理の腕を掴み、振り向かせる。
だが、目が合った彼女は、自分自身をあざ笑うかのようにその口の端を上げた。
「結局私がこの戦いでしたことは、テテとシャムロックさんを傷つけて、イオスさん達に迷惑をかけて、ビーニャさんを刺したことだけ……。
――最低、でしょう?
やっぱり私は役立たずで。私が誰よりいちばん、ずるくて、汚い――……!」
イオスに、皆に置いていかれたくなくて、戦いを受け入れたふりをしていた。
覚悟を偽り、結果とんでもない災いをもたらしてしまった自分。ひとりだけ綺麗なつもりでいた、卑怯な自分。
そんなものはないと決め付けて、ずっと心の奥底に隠していたとてもとても醜い感情。
だけど、もう、隠せなかった。これ以上隠そうとしたら、その罪の意識に気が狂ってしまいそうだった。
もう、耐えられなくて――……。
本当は誰より知られたくなかった相手――イオスに全てを吐露してしまい、はこれからどうしたらいいのかさえ考えられなくなっていた。
腕をつかむイオスは、何も言ってくれない。呆れて言葉も出ないのか、それとも何か他の想いがあるのか。彼の口から次の言葉が紡がれるのがたまらなく怖くて、はそっとイオスの手を振りほどいた。
はっと、イオスが息を呑む音が聞こえる。けれど顔を上げられない。イオスの顔が、見れない。
イオスから視線を逸らし、救いを求めるように見上げた先には――悲痛な表情で自分を見下ろしているシャムロックがいた。
悲しげに揺れる鳶色の瞳を見た瞬間、の胸に熱いものがこみあげた。
「だ、だから……だからねっ……!
私はひどいことをいっぱいしたから、だからせめて、シャムロックさんを助けることが……シャムロックさんを助けて約束を守ることが、私に出来る最後の……!」
罪を贖うために、せめてこのひとだけは、敵味方関係なく自分を庇ってくれたシャムロックだけは助けたいと思ったのだ。
それすらイオス達には迷惑をかけているのかもしれないと思うと混乱のあまり吐き気を覚えたが、それでも、シャムロックを助けることが出来なかったら、愚かな自分の罪は本当に取り返しのつかないものになってしまうと、そう思った。
――シャムロックの命だけが。がすがることのできる最後の希望だったのだ。
きつく両手を押し当てた口許からは、くぐもった嗚咽がもれる。
痙攣するようにびくん、びくんと肩を震わせて、それでも涙だけは必死に堪えていたの頭に、ふいに大きな何かが触れた。
「……私が、生きれば……。
貴女を苦しめている罪悪感を、和らげることができるのですか?」
長い指を持つ大きなシャムロックの手が、しゃがみこんでいる少女の頭に置かれている。
もはや声を出すことも出来ず、ひとり震えながら己を見上げるこの少女を、シャムロックはただ、哀れだと思った。
シャムロックに――他人に対してはあんなにも大きな心で接することが出来るのに、いざ自分のこととなると、この少女はひたすら己を責め続けることしか出来ない。誰かを救おうとするあまり、常に自身を貶めているようにも見える。
それしか手段を持たないのかもしれないが――自己犠牲の精神が大きすぎるのだ。
あまりに。あまりに、脆い――。
壊れそうなこの少女の心を救ってやりたいと、護るべきものを求めるシャムロックの騎士としての心が切望した。
「……わかりました。
大丈夫です、私はもう迷いません――きちんと前を見て、自分の成すべきことの為に、もう一度生きて行きますから……。
だから貴女は、そんなに自分を責めなくていい。貴女に罪があると言うのなら、それはもう償われているんです」
「シャムロック、さん……」
「……それに」
ゆっくりと語りかけながら、シャムロックは少女の黒髪を指で梳いた。
あまりに優しいその動きに心底驚いてしまったは、ただされるがままにシャムロックの指を受け入れながらゆっくりと瞬きを繰り返す。
――目の前の少女は、シャムロックと入れ違いに背負ってしまった暗闇の中、ただ救いを求めていた。
儚いその瞳は、まるで、雨の中ちいさな身体を震わせうずくまっていた所を抱き上げてやった時の子猫のようで。彼女は、誰かが大切に大切に慈しみ護ってやらなければならない存在なのだと、シャムロックは心からそう思った。
手折られてはならないもの。護られるもの。そうして、護るため戦った自分達を胸躍る笑顔で迎えてくれるもの。
本当なら、この少女は武器を手に自分と同じ戦場に立つのではなく――花を手に、騎士の背中で護られるべき存在のはずだ。
召喚獣だとか軍人だとか、……敵国の民だとか、その前に。
彼女は、そう――成長過程の繊細な心を持つ、ひとりの人間の――女の子。
自分達、騎士が。何より護ってやらなければいけない存在だ。
「……戦いを怖れるのも、傷つけることを拒むのも、何も間違ってなどいませんよ。
さっき、貴女は私に言ったじゃないですか。人として、と。
――貴女は人間なのですから。貴女が抱いた感情は、人として当たり前のものです。
むしろ、その思いを忘れてはいけない……それこそが人間の心というものなのですから。
だから……いいんですよ。貴女は、そのままで」
彼女が持つ迷いは全て、彼女が持つ純粋さだ。
それゆえに今彼女は苦しんでいるのだが、戦場を受け入れてしまうことでその心を失って欲しくない。
――その優しい気持ちこそが、彼女が生まれ持ったかけがえのない宝なのだから。
無垢な心を持つこの少女を、同朋の為に祈ってくれた世界でただひとつの優しい存在を、護りたい。
血を見て泣くのではなく。もっと光差す場所で笑っていられるように、護ってあげたい――……・。
視線の先。哀れなデグレアの少女は硬直したままじっと自分を見つめている。
まるで小さな子供にするかのように、シャムロックは動けなくなっている少女の頬を優しく撫でてやった。
「……辛かったでしょう?
ひとりで、よく、頑張りましたね」
あたたかく大きな手が、ふわりとの頬に触れる。
心臓が止まるほどびっくりして、は目を見開く。頭上のシャムロックは、狼狽する自分にただ優しく笑いかけてくれた。
触れる指。かけられた言葉。
慈しむようなその瞳は、まるで、家族に向けられるような――見返りを求めない、掛け値のないぬくもりがあって――……。
それは、本当に……が何より、欲しかったもの。
我侭すぎる願い。
けれどずっと、誰かに、そう言って欲しかった。
――大丈夫だよ、と。辛かったね、と。
――頑張ったね、と……!
シャムロックを見つめるの瞳に、透明な涙が一気に盛り上がった。
そのまま、しばらくの間夢見るようにただぼんやりと優しい鳶色に見入っていたは、頬を伝った涙にはっと我に返った。
「――っ、あ……!
わ、私! お、お薬、取ってきますっ……!」
自分が今にも大声を上げて泣き出そうとしているのを感じて、は慌ててその場に立ち上がる。
涙が止まらなくなる前に、彼女はひとり、樵小屋を飛び出して行った。
◆◆◆
「――あの人は……。
いつもああやって、何もかもひとりで背負って、ひとりで泣いているのですか」
「な、に?」
溢れた涙を隠すようにが走り去って行った扉を見つめながら、シャムロックがぽつりと呟く。
その口調にただならぬ何かを感じてイオスははっと顔を上げた。
イオスの声など耳に入っていないのか、シャムロックの視線は少女が消えた扉から動かない。
「……かわいそうに」
再び、シャムロックが呟いた。
敵将の口から飛び出た思いがけない言葉に、イオスの表情がさっと強張る。
(かわいそう、だって?)
――確かに、彼女をこの戦場に連れてきて、結果傷つけてしまったことをイオスは深く深く悔やんでいる。本当に、かわいそうなことをしてしまったと思う。だから、どれだけ自分の時間を割いてもいい、これから彼女に向き合って、ずっとそばにいて、心の傷を自分に出来る精一杯で癒してやろうと、償おうと思っていた。
なのに、どうして――この男は、そんな哀れみのこもった眼差しで彼女の残像を追いかけるのだろう。
一度は敵だと突き放して、泣かせたのに。どうして、あんな
――おそらく……自分が彼女を見るときと同じ、庇護欲と……そして隠しきれない愛しさのこもった瞳で。
どくん、どくんとイオスの心臓が息苦しいほどに早鐘を打った。
そんなイオスを、シャムロックはゆっくりと振り返る。
「どうして貴方は……あの人を護れないのですか」
冷ややかな声。
底の知れぬ深い泉のようにつめたく透明なその瞳にとらえられ、イオスはまるで自分が処刑を待つ囚人になったような錯覚に陥った。
「彼女が、大切なのでしょう?
なのに、どうして」
再び敵将の唇が開かれる。
「――私だったら……」
呆然としているイオスに告げられた言葉は、まさに断頭台で聞く死刑宣告にも等しいものだった。
「私だったら、あの人に武器を持たせたりしない。
もっとずっと笑っていられるように、全てをかけて、護ってみせるのに――……」
――大切な女性を護ること。
貴方も騎士なのに、何故それが出来ないのですか――。
挑むようにそう言って、シャムロックはイオスを真正面から見据える。
同時に彼は、自分の中に芽生えたある感情をついに――肯定した。