「ここから数刻馬を走らせたところ……この森の入り口にある一軒家に、トリスさ……フォルテさん達が滞在しているそうです。
あの時砦にいたということは、きっと皆さん、何かシャムロックさんに用事があったんでしょうし、それにたくさん心配もしていると思いますから……。
トライドラに行くには少し遠回りになってしまいますけど、出来れば寄ってみて下さい」
偵察兵からの情報を口にして、はシャムロックへと地図を手渡す。
――樵小屋での出来事から数日後。日頃の鍛錬の賜物か、驚異的な回復力で体力を取り戻したシャムロックは、デグレア軍から与えられた馬とともに、駐屯地から少し離れた小高い丘の上にいた。
緑の息吹を含んだ夏の風が頬を撫でる。眼下には南――トライドラ方面へと続く街道が広がっていた。
あんな惨劇があったすぐ後だというのに、変わらず景色は美しい。まるで砦の一件など嘘のように……血の匂いなど微塵も感じられないその澄み切った朝の空気に、シャムロックは密かに嘆息した。
寂寥感、とでも言うのだろうか。針で胸を苛まれるような、切ない思いが去来する。
けれど、いつまでも過ぎた悲劇を悔やんでいるわけにはいかないのだ。一刻も早く本国に戻らねばならない。
力強い瞳で草原の彼方を見つめるシャムロックを見て、の口許が僅かにほころんだ。
――彼はもう、大丈夫だ。二度と道を失ったりしないだろう――強いひとだ。
出発の時は近い。離れる前に伝えておかなければならない言葉があるのを思い出し、はシャムロックの前へと立った。
「たくさんみっともない所を見せてしまって、本当にすみませんでした。
だけど、そのままでいいって……頑張ったねって言ってくれたシャムロックさんの言葉、本当に嬉しかったです。
……ありがとうございました」
そう言って、はまぶしそうに目を細める。
とめどなく湧きあがる混沌とした感情に心を引き裂かれそうになっていた自分を、シャムロックの言葉が救ってくれたのだ。
――あれから。森の中に駆け込んで、目が溶けるのではと思うくらいたくさん泣いた。ひとり、子供みたいに声をあげてひたすら泣いた。
さんざん泣いて、そうしたら不思議と心が軽くなったのだ。
ためこんでいた何もかもを涙と共に流してしまったのだろうか。あんなに悩んでいたくせに、思う存分泣いただけで妙に清々しい気分になっているげんきんな自分が可笑しくて、たまらずは笑いだしてしまった。
自嘲でも狂気でもなく、それはまざりもののない笑い。
――まだ、笑える。だから大丈夫だと――はそう思ったのだった。
「心の中のわだかまりが全て解決したわけじゃあないですけど……。
でも、ね。正しいとか間違ってるとか決めようと焦るんじゃなくて……。とりあえず、自分なりに、自分の出来る範囲でね、なんとか頑張っていこうと思います」
ありがとうございました、と。再び礼を口にするの顔に浮かぶのは穏やかな笑顔。
白い朝日の中、少女は二本の足でしっかりと大地に立ち、シャムロックを見上げていた。
その頬にもう涙の跡はない。自我を取り戻した彼女の姿に心の底から安堵して、シャムロックはの言葉を肯定するためにしっかりと一度、頷いた。
それから、シャムロックはふいに何かを思い出したかのように口を開いた。
「――ああ、そうでした。
このリボンなのですが……このまま私がもらってしまっても良いでしょうか?」
「え?
ええと、はい、別に構いませんけど……でも、どうして」
手首に結わえた黒いリボンを見せながら請うシャムロックに、とりあえず頷き返したもののは不思議そうな表情を浮かべる。
首をかしげる少女に対し、シャムロックはどこか照れくさそうに笑って見せた。
「貴女が私の言葉を嬉しかったと言ってくれたように、私もこのリボンに託された貴女の想いが嬉しかったんです。
このリボンは、砦の騎士達を想って泣いてくれた人がいたという、ただひとつの証ですから……。
スルゼン砦とローウェン砦の皆への慰霊の意味もこめて、手元に持っていたいと思ったんです」
ちょっと女々しいですかね、と肩をすくめるトライドラの騎士に、は静かに首を横に振った。
「……いいえ。
それで、少しでも弔いになるのならば……。私も嬉しいし――救われます」
一時は、シャムロックを傷つける原因になってしまったと悔やみ、いっそ呪わしくもあった黒いリボン。
けれど、シャムロックは今、そのリボンを持っていたいと言ってくれた。
自分の祈り……追悼の想いが彼に届いたことが、はただ、嬉しかった。
ありがとうございますと言って、少女は深々とシャムロックに頭を下げる。
それを見たシャムロックも静かに瞳を伏せ、同じく頭(こうべ)を垂れたのだった。
――ふたりの間を、風が吹き抜ける。
日差しが少し、強くなった。いつまでもここに留まるわけにはいかない――先に、進まなければ。
ひらりと馬に跨ったシャムロックは、最後にもう一度、丘の上に佇む少女を振り返った。
「……それでは……お元気で」
「……シャムロックさんも」
互いに顔を見合わせ、ちいさく微笑む。
――いつか、また、なんて。そんな言葉は言えなかった。
シャムロックが手綱を取り、馬が一度高く嘶く。
大勢の騎士に囲まれていた筈の彼が、たったひとりで長い道のりを辿ろうとしていた。
ゆっくりとゆっくりと、白い背中が、遠ざかる――……。
「――って……!
待って下さい、シャムロックさん――……!」
「――え?」
風の向こうに聞こえた少女の声に、驚いたシャムロックは慌てて馬を止める。
振り返ると、デグレアの少女が必死になって自分を追いかけ丘を下っているのが見えた。
あっけにとられているシャムロックの許まで走ってきたは、額に汗を滲ませながら膝に手をつき、はあはあと肩で息をする。
「なっ……さん!? 一体どうし……」
「すみま……せんっ。
ひとつ、忘れ、ものっ……!」
なんとか呼吸を整え顔を上げたは、ポケットから紫のサモナイト石を取り出した。
呪文の詠唱と共に少女の手からまばゆい光が溢れる。一瞬の後、そこには頭上に黄金の輪を戴くひとりの天使がいた。
「エルエル。
シャムロックさんが無事に街に着くまで、一緒にいてあげてくれる?」
最近喚(よ)び出してばかりでごめんね、とすまなさそうに肩をすくめる少女に対し、霊界の賢者は気にするなとでも言うように口の端を上げる。それから、天使はその姿をシャムロックに重ね、光とともに消えた。
――天使エルエルによる召喚魔法、リカバアンジェ。自動回復を行うその力により、シャムロックは体がすっと楽になったのを感じた。
「動けるようになったといっても、シャムロックさんはまだ怪我人なんです。
街に着くまでに何かがあったら大変ですし……だから、ね」
無理だけはしないで下さいねと告げる少女の黒い瞳が心配そうにゆらめいている。
その瞳を前に、シャムロックの胸は息苦しいほどの切なさでいっぱいになってしまった。
押し込めていた気持ちの箍が外れる。
「あ……貴女という人は、本当に……」
――次の瞬間。シャムロックは、自分でも信じられないようなことを口にしていた。
「――さん!
貴女も一緒に……トライドラに来ませんか!?」
「え、ええっ!?」
……これほど突拍子も無い科白を耳にする機会なんてそうそうないだろう。
あまりに唐突過ぎるその誘いには驚きのあまりとんでもなく素っ頓狂な声を上げてしまう。当のシャムロックも己の口から飛び出た言葉に驚いて――けれど、もともと胸のうちに秘めるものはあったのだろう、しばし逡巡した彼は、キッと顔を上げると迷いを振り切るかのように一気にまくしたてた。
「このままずっと彼等のもとにいても、また今回のように辛いことがあるかもしれません。
ですが、トライドラなら……トライドラは女性の地位がとても高く、女性に軍属を強いたりなどしません。
貴女が自分の心を押し殺して、無理をしてまで戦う必要はなくなります」
シャムロックの言うとおり、三砦都市トライドラは、子を産み子を育て、しいては国家の繁栄に繋がる存在である女性を何より尊いものとして敬っている。また、外から国を護る騎士――男に対し、女は内から国を守るものとして、戦いに赴き国を留守にする男性の代わりに女性の高官も多く起用されており、いまだ女性の政治介入が認められていないデグレアとは天と地ほどの差がある。
トライドラに生まれた男子は、まず最初に母を、そして姉妹を守ることを教えられる。騎士国家の男たるもの、いついかなる時でも女性という高貴な存在を守らねばならないと、物心ついたときにはそういった価値観が完成しているのだ。
そんなトライドラにおいて、女性を戦わせる、つまり危険にさらすなどという行為はもってのほかなのだった。
――こういった騎士道精神は当然シャムロックの性格にも大いに影響している。彼が敵兵であるを庇ってしまったり拒みきれなかったのは、元を正せばこれが原因ともいえるのだろう。
「それに、トライドラは聖王国や近隣のファナンの影響もあって召喚獣に対してとても寛大です。デグレアと違ってか弱い存在への理解もあります。勿論私も全力で貴女を保護して、護ってみせます!
このままデグレア軍にいるよりずっと……傷つくこともなく、貴女らしく過ごしていけると、思うのですが」
――トライドラに。シャムロックの鳶色の瞳が真摯にそう訴えている。
あまりの剣幕に気圧されてしまい、は口を挟むことすら出来なかった。
戦わなくていい場所。召喚獣であることを隠さずとも受け入れてもらえる場所があると、彼は言った。
弱いままの自分でも認めてもらえる場所が――……。
……全く心が揺れなかったといえば嘘になる。
誘いの言葉に吸い寄せられるように、シャムロックの瞳から目が離せなくなっていただったが、僅かな身じろぎに合わせて素肌を撫でたつめたい石の感触に彼女ははっと我に返った。
今日は服の下に身に付けていたサモナイト石のペンダント。それを意識した途端、の脳裏いっぱいにイオスの顔が浮かんだ。
無意識のうちに胸元に手が伸びる。石のある場所がちりちりと痛んだ。
霞む視界の向こうでイオスが微笑っている。優しく、穏やかに。
耳の奥によみがえる、彼の声。
自分をこの世界に喚(よ)び寄せたその声に、の心からどうしようもない愛しさが溢れ出した。
――どれだけ泣いても、傷ついても。それでもやはり、彼のそばを、離れたくない――……!
「……ごめん、なさい……」
「……そう言うだろうと思っていましたよ」
張りつめていた空気がほどかれる。
これ以上シャムロックの顔を直視できず、心底申し訳無さそうにそう言ってうつむいてしまったに対し、こちらも固唾をのんで彼女の返事を待っていたシャムロックはふうっと長いため息をついた。
……いきなり着いて来いと言われて「はいそうします」なんて返事が出来る訳がない。とっさの勢いに任せてずいぶんなことを言ってしまったと、己の早計さにシャムロックは苦笑した。
悪戯に彼女を困らせてしまって、すまないことをしたなと思う。
それでも、今告げた言葉を撤回するつもりはなかった。
「突然おかしなことを言ってしまってすみません。
ですが、もし……いずれ気が変わったら、その時にはこれを持って私を訪ねて来て下さい」
そう言うと、シャムロックはマントを留めていた飾りを外しての前に差し出した。
連なる三本の剣が描かれた銀色の紋章。上部にひとつ、小さな赤い宝玉がはめこまれている。
「ローウェン砦守備隊長の紋章です。
これをトライドラの衛兵に見せれば、すぐに私に連絡がつきますから」
「な……っ!?
だ、駄目です! そんな大事な物、受け取れませんっ!」
困ります、と言っては猛烈な勢いでぶんぶんと首を横に振り、差し出されたシャムロックの手を押し返す。
だが、シャムロックは反対に彼女の手を掴むとその手のひらに無理矢理紋章を滑り込ませた。
あっと、が目を見開く。それから、彼女は弱りきった表情でシャムロックを見上げた。
「シャ……シャムロックさんのお気持ちは嬉しいですけど、これだけは受け取れません。
だってこれは、シャムロックさんが何より護りたかった場所の証で、思い出で、大切なっ……!」
今は亡きローウェン砦。守備隊長の紋章に込められたシャムロックの想いは計り知れないものがある。
そんな思い出の品を自分がもらうわけにはいかない。自らの行動を省みた上で、またデグレアに属しているという立場を考えても――この手に持つことは許されないと思う。それだけは出来ないのだ。
しかし、シャムロックはの哀願にふっと瞳を細め、紋章を返そうと押し付けられる少女の手をなだめるように上からゆるく包み込んだ。
「砦が存在しない今、私はすでにローウェン砦守備隊長ではありません。どのみち外さねばならない紋章なんです。
だったら、いっそ貴女に持っていて欲しいのですよ。我々の為に泣いてくれた、貴女にね」
シャムロックの言葉にも、は首を縦に振らない。……振れない。
困り果て、とうとう泣き出しそうな表情になってしまった少女にシャムロックはこう提案した。
「では、こうしましょう。
この黒いリボンと交換です。私だけが貰いっぱなしという訳にはいきませんから。
――さん? ……受け取ってくれますよね?」
柔らかな光をたたえる鳶色の瞳。
どうあっても紋章を受け取らせるつもりらしいシャムロックに、の心が千切れそうに乱れた。
――ほんの数日前まで敵同士だったのに。傷つけあったこともあったのに。今、目の前にいるトライドラの騎士は、困った時には自分を頼ってくれて構わないと言ってくれて、大切な紋章まで託してくれた。
なぜ。浮かぶのはその二文字だけ。
数え切れないほどの大切なものを失って。彼の方がずっとずっと辛く苦しいはずなのに。何故このひとは、自分をここまで気にかけてくれるのだろう――……。
「……どうして」
蚊の鳴くような声で、が呟いた。
「どうしてですか……?
どうしてシャムロックさんは、そこまで、私なんかのために……」
「……どうしてだと、思いますか?」
少女の問いに、シャムロックは遠い目をしてから視線を外す。
物思いに耽るように少しの間だけ瞳を閉じて。再び双眸を開いた彼は、ゆっくりと瞬きをした。改めて、己を見上げる少女を見やる。
――目の前にいるのは間違いなく敵国の少女。それは今でも変わらない。
けれどもはや、シャムロックにとって彼女はそんな一言で片付けられるような存在ではなくなっていた。
「さん。
もし、このまま……攫って行くと言ったら、どうしますか?」
「――っ!?」
零れ落ちそうなほど大きく大きく黒曜の瞳を見開いて、少女がはっと息をのんだ。 声なんて出ない。
驚きのあまり石のように硬直してしまったを見て、シャムロックはそっと微笑んだ。
「冗談ですよ。……今は、ね。
ですが、ここにいることで貴女がまた涙を流すのならば、……私は……」
「シャ……シャムロック、さん……?」
ひどく思いつめた色を宿す彼の瞳を、は一瞬、怖いと思った。
彼が言わんとしていることがわからない。その行動の意味がわからない。
まるで、ランプも持たずに夜の階段を降りようとしている時のような―― 一寸先の向こうさえ見えないあやうさに全身がからめとられる。足元がぐらりと揺れた気がした。
彼は。何を――……。
「全てを失ったばかりなのに、自分でも本当にどうかしていると思います。呆れます。
けれど、どうやら私はもうひとつ……新たに護りたいものを見つけてしまったようなのです」
含み笑いすらもれる声音。裏腹に、鳶色の瞳は真剣だった。
「私は、貴女を、護りたい」
まっすぐなその瞳が、の逃げ道を断ってしまう。
「人の心というのは本当に、困ったものですね」
追い詰められる。握られたままの手に力が込められる。とらえられ、黒い瞳に怯えの色が走った。
反射的に引こうとした白い手首を、けれどシャムロックは離さなかった。
もう――後戻りは出来ない。
芽生えてしまった感情は、とめられない。
愚かと笑うのなら笑うがいい。それでも、もうこの少女を離したくないのだ。
「私達の為に泣いて、必死になって戦って、祈ってくれた……。
そんな貴女を、私は好きになってしまった。
だから、護りたいと思う――これが、私の答えです」
――その言葉は、から思考を奪った。
呼吸の仕方さえわからなくなる。幕がひかれるように視界がみるみる狭くなって、眩暈がした。
音が遠くなる。感覚が失せる。頬が熱くなるより先に、頭から血の気が引いた。
生まれて初めて告げられたその信じられない言葉に、の意識が真白に染まった。
とっさに夢だと思った。
けれど、違う。これは現実。
白い鎧を纏った敵国の騎士は、今確かに、自分を好きだと言ったのだ。
好き だ と……。
――自分を。
「貴女には、もっと、ずっと――笑っていて欲しいと願います」
動けないにそう告げて、シャムロックは紋章を握らせた手にもう一度、力をこめる。
「貴女を、お慕いしています――……」
引き寄せたちいさな手。
震えるその甲に、シャムロックはそっと唇を寄せた。
身も心も捧げると示す、それは騎士の誓いだった。
◆◆◆
シャムロックの姿が街道の向こうに消えてもそこから動くことが出来ず、金縛りにあったようにただ呆然と彼方を見つめていたは、突然背後に感じた人の気配にびくんと全身を強張らせた。
草を踏みしめる音。驚いて振り返ると――そこには。
「……行ったか?」
「――ッ、イ、イオスさん!?
い、今の、見てっ――!?」
心臓が口から飛び出るかと思うほどの衝撃。
いつの間にそばに来ていたのだろう、視界に飛び込んできたイオスの姿にの頭がパニックに陥った。
――まさか、先程のシャムロックとのやりとりも見られていたのだろうか。動揺し、とっさに敵将が触れた右手を庇うように後ろに隠し、握っていたままの紋章をポケットに押し込む。
だが、うろたえる少女とは裏腹にイオスの声はあくまでいつもどおり、冷静なものだった。
「――何を?」
……問い返されたその声が不自然なほどに硬質だったことに、彼女は気付かない。
「えっ?
え、あ、い、いえ、な、何でも……」
イオスの言葉を耳に届いたそのままの意味でただ素直に受け止めたは、彼が自分達のやりとりまでは見ていなかったのだと判断しあからさまにほっとした表情を浮かべた。
……紅玉の瞳が、そんな彼女の一挙一動をあますことなく見つめていることにも、気付かずに。
ひややかに張りつめた、赤。
緊張の糸が一気に緩み、桜色の唇から知らず安堵のため息がもれる。
少女が見せた一瞬の隙。
――次の瞬間、イオスはの身体を乱暴に己の胸へと抱き寄せた。
(――え!?)
何の前触れも無くいきなりイオスの腕の中に閉じ込められて、の呼吸が止まった。
さっきまで見えていた草原の風景はもはやどこにもなく、今はただ目の前いっぱいにイオスの胸だけが広がっている。状況を把握するのにずいぶん時間がかかった。
(な……んで……?)
抱きしめられた、その理由がわからず少女はひとり狼狽する。
逃れることの出来ない力が自分をとらえている。ひどく余裕の無いそれが、の混乱に拍車をかけた。
力が、強い。加減なんて一切無かった。いたわりなんて、無い。
軋む身体は、まるで知らない誰かに触れられているかのような幻覚を呼び起こして、は急におそろしくなる。
今までにも、こうしてイオスに突然抱きしめられたことはあった。――そう、ほんの数日前の夜にも。
けれど、今回は過去のそれとは何かが違った。
――まわされた腕は、彼女に身じろぎすら許さぬ程に一層強くなる。
まるで、彼女から彼以外の世界全てを奪おうとするかのように。それは苦しくて、痛くて。
意味も解らぬまま、の瞳に涙が滲んだ。
シャムロックといい、イオスといい。身に降りかかるものは何もかもが突然すぎて、をめちゃくちゃにかき乱す。心が追いつかなかった。
驚きと混乱で視界がぐらりと揺れる。頭の芯がしびれて思考がまともに働かない。
――どうして……。
「」
無理矢理抱きすくめた華奢な身体。小刻みに震えるその耳元で、イオスは少女の名を呼んだ。
きつくきつく抱きしめてもそのぬくもりが現実のものだと思えない。哀しみに胸が張り裂けそうだった。
――シャムロックを見送ると言うが心配で、イオスはひとり、密かに後を付けてきた。
距離を置いた物陰から伺ったふたりの様子。入り込む余地を与えないその雰囲気にずっと胸が苦しくて仕方が無かった。
そうして最後に見たものは――の手を取った、あの男の姿。
会話こそ聞こえなかったが、それでも、あの敵将が彼女に想いを告げたということだけは、わかった。
ずっとずっと、嫌な予感はしていたのだ。
否――おそらくこうなるであろうことはわかっていた。
大いなる喪失に直面した場合。失ったことで心に出来た虚無を埋めるため、本能的に人は新たに愛することの出来る対象を渇望する。 だから、敵将がを求めたのは必然のことにも思えた。
怒りと絶望が通り過ぎた後、あの男はその先に残ったただひとつの清らかなもの――彼女に、魅かれたのだ。
シャムロックと自分は、同じ想いを抱いている。
そして、自分が告げられずに持て余している言葉を――あの男は、口にした。
自分より先に。彼女に好きだと告げたのだ。
やり場の無い悔恨の情がイオスを苛む。
果ての無いこの苦しみから解放して欲しくて、イオスは少女に救いを求めた。
「。
……君は……君はこのまま、これからも……。僕のそばに、いてくれるんだよな?」
イオスは、怖かった。
白い鎧を身に纏う敵国の騎士。戦に破れてもなお、その清廉な精神や所業が変わることは無い。
――遠い昔。イオスも騎士という存在に憧れた。
けれど、軍人にはなれても、自分はとうとう真の意味での「騎士」なることは出来なかった。それはこの先の未来も変わらない。返り血を隠すため黒を身に纏うような自分に、あの純白の鎧はまぶしすぎた。
……自分が辿ってきた道はあまりに血塗られ過ぎているのだ。かといって、ルヴァイドのような高潔な心を持っているわけでもない。だから、そんな自分に、あの男のように日の光の下で堂々と騎士を名乗ることなど、もう許されない――……。
自分が追いかけても追いかけても得られないものを持っているあの男に、が攫われてしまうような気がして。イオスはどうしようもなく怖かったのだ。
彼女を失いたくなかった。だから、彼女の口から確かな言葉が欲しかった。
でなければ、自分は永遠にこの狂おしい感情から逃れられない気がして……。
苦悶に満ちたイオスの声音に、の瞳からとうとう涙が零れ落ちた。
どうして彼はそんなことを口にするのだろう。泣き叫びたいほどに切なかった。
哀しいかなしい彼の声。苦しそうな声。イオスが壊れてしまうと、そんな予感がを焦らせる。
彼にこんな想いをさせてはいけないと、それだけがの頭を支配する。
答えなければならない。熱に冒された意識の中、は必死に言葉を探した。
「そばに、います」
縛めの中で。白い喉元を喘がせて、はやっとの思いで口を開いた。
「イオスさんが、ゆるしてくれるのなら。
私は、ずっと、あなたのそばに――……」
溢れ出した涙はもはや止める術を持たず、少女の頬をとめどなく濡らしてゆく。
――イオスから投げかけられた問い。
けれど、尋ねたいのはむしろ自分の方だとは思った。
今回の戦いにおいて、はイオスを裏切るような罪をたくさんたくさん犯してしまったのだ。
そんな自分でも、まだ彼のそばにいることが許されるのだろうか、と。
離れたくないのは自分の方なのだ。
ずっとずっと、彼のそばにいたいと願う。それだけがの望みなのだから。
誰より恋しく想うひとのそばにいること。彼さえ許してくれるのならば、自分は永遠に――……。
切なく身を焦がす彼への想いを伝えられる言葉がこれ以上出てこなくて。たまらなくなったは、ためらってためらって……それから、震える手をゆっくりとイオスの背に廻した。
ふたりの距離が消滅する。
初めて彼女から伸ばされた手、そして紡がれた言葉に、イオスの肩がぴくんと震えた。
今まで、抱きしめるのはいつだってイオスの方からで、それは一方的に感情をぶつけるようなものだったから。
それは、初めて形となった彼女からの答え。
……は、変わらず自分のそばにいると約束してくれたのだ。
イオスは、愛しい少女の身体をきつくきつく抱きしめ直した。
さらに強まった力に、息苦しさを覚えたは僅かに眉を寄せる。
「イ、イオス、さん。
あの……く、苦し……」
「ごめん。
ごめん――もう少し、このままで――……」
ほんの少しだけ、抱き込む腕の力が緩められる。
けれど、イオスは少女を離さなかった。
重心が傾いて。とん、と、傍にあった木の幹に背中が押し付けられた。
背に廻されていた腕が、驚くの両脇に置かれる。
彼の腕。まるで、彼女を閉じ込める檻のように。
「――」
名前を呼ばれた。
顔が近づく。視界に、紗が降りた。
とっさに、は未だ涙の乾かぬ瞳をぎゅっと閉じる。
鼻先に吐息を感じて。
――震える唇が、触れ合った。
まるで、彼女がここにいることを確かめるかのように重ねられた唇。
受け入れることも、拒むことも出来ずに。はただ、イオスの服の裾をきつく握り締めた。
第15夜 END