デグレア城敷地内、兵舎の一角にある女官用控え室。
朝食の片づけを終え、顔なじみの女官達とお茶をしていたは、思いがけない訪問者の姿にきょとんとその瞳を瞬いた。
「、いるか? あ、いた。よし逃げるなよ?」
ノックの音と共に姿を現したのは、黒の旅団内でもトップクラスの人気を誇る麗しの特務隊隊長。
しかもこの時の彼はいつもの軍服ではなくラフな私服姿で、滅多にお目にかかれないそれに室内にいた女官達が黄色い悲鳴を上げる。
そんな反応にはもう慣れっこなのか、に静止を命じたイオスはさらりとした顔で近くの女官を手招いた。
「ごめん。休憩中に悪いんだが、の服を用意してくれないか?
ええと、一週間分……いや、途中で買い足せばいいからとりあえず三日分くらい。ああ、いつも着ているような地味なのじゃなくて、もっと可愛いやつがいいな。今はどんなのが流行りなんだ?」
突然のイオスの要求に控え室はにわかに大騒ぎになる。幸い、慌てて衣装部屋に駆けて行った女官が持ってきた服の中にイオスのお眼鏡にかなう物があり、これまたどこからか引っ張り出された旅行鞄にそれらの服やアメニティグッズが詰め込まれた。
出来ました! と差し出された鞄を満足げな笑顔で受け取ったイオスは、優秀な彼女達に心からの感謝を口にする。
――そう、多少ミーハーなのが玉にキズとはいえ、厳しい選抜試験としつけを受けている彼女達は中央エルバレスタ地方でも群を抜く有能さを誇るのだ。その仕事ぶりは聖王都に宮仕えする女官達にすら引けを取らないだろう。この手際の良さこそが何よりの証拠だ。
もう一度ありがとうと繰り返して。それからイオスは、未だティーカップを手にしたままぽかんと椅子に座っているを振り返り、こう言ったのだった。
「さあ、君はこれにサインして」
差し出された一枚の紙切れ。それは。
「……休暇届?」
――しかも、有給。
第16夜 祭の夜の夢
〜 silent confession 〜
「はあー……本当にすごい人ですね……!」
「ファナンの豊漁祭といえば、この辺りでは一番大きな祭だからね。あちこちから観光客も集まるし」
港街ファナンにある宿屋。二階にある廊下の窓から外を覗いたが、眼下の通りを行き交う人の多さに改めて感嘆の声をあげる。 ファナンに着いてからもう何度目になるであろう少女のその言葉に、イオスはくすりと笑った。
――デグレアを出発してから数日後。ここ港街ファナンに、イオス、、そして旅団員三名というデグレア勢の姿があった。
今回は仕事ではなく、お遊びだ。最も、金の派閥が管理するこの街で堂々と名乗れないという点では半分お忍び状態になるのだが……。
それでも、 トライドラ関係のごたごたがひと段落した今、普段なかなか消化出来ない休暇をファナンで遊んで過ごそうという訳である。おりしもファナンは豊漁祭真っ只中の、一年で一番賑やかで、一番面白い季節だった。
◆◆◆
――デグレアで、突然イオスに旅支度をされて、休暇届まで書かされて。驚く彼女にイオスが告げた言葉は「ファナンに遊びに行こう」だった。ファナンで大きな祭があるから一緒に見に行こうと。
イオスからの誘い、行き先はもいつかまたゆっくり行ってみたいと思っていたファナン、しかもお目当てはお祭。 嬉しくなかったといえば嘘になる――いや、実際この時の彼女は期待と喜びにぱあっと顔を輝かせたのだが……。一度ははい、と頷きかけたものの、は動きを止め、ちいさく唇をかんで首を横に振った。
行きたいと思う反面、そんな気にはなれない自分もいた。
デグレアに戻ってからというもの、の心はずっと陰鬱に支配されていたのだ。
ローウェン砦から帰還してしばらく後、今度はトライドラ領主リゴール崩御の知らせが伝えられた。何でも急な病で亡くなったらしい。
偉大なる指導者をなくしたトライドラは、混乱を避けるため一時的に金の派閥の力を借りて街の治安を保っている。「新興の召喚師の集団に頼るなど、聖王都の盾も最早見る影なし」と嘲笑する貴族達を複雑な思いで見つめていたに、隠してもいずれ解ってしまうことだと判断したルヴァイドがそっと真実を教えてくれた。
リゴールは、元老院議会の命令により、レイムの手の者に暗殺されたのだと……。
ローウェン砦を失って動揺しているトライドラを一気に無力化するのが狙いだった。
時期が時期なだけに、うっすらとそんな予感がしていたは、特別驚いたり取り乱したりすることはなかったが、ひとり国に戻ったあの高潔なる白騎士、シャムロックのことを想うと胸が痛んだ。彼は大丈夫だろうか、今どうしているのだろうか。ひどく気に掛かったが、もちろん彼を心配しているだなんてそんな事、とてもイオス達の前で口にすることは出来ない。だから、彼女にはただ黙って頷くしか術は無かった。
そしてもうひとつ、何よりの心を沈ませていたのは、テテの具合がまだ本調子ではないという事だった。
ローウェン砦で大怪我を負ったテテ。傷そのものは召喚術で完全に塞いだが、流れ出た大量の血液までは戻らない。 血液と共に、テテは体力と、そして魔力を失っていた。それらを取り戻すため、テテは今一日の殆どを眠って過ごしている。人間と同じで睡眠は一番の回復剤なのだ。
毎日テテを旅団召喚師のもとへ運び薬湯を飲ませ、軍医オーレイヴの診察も受け、自分自身も注意深く見守り、その結果テテが確かに快方に向かっていることはもよくわかっていた。それでも、いつものように自分のまわりで元気に飛び跳ねてくれないテテが、その眠りの深さが、小さな身体にかかった負担がどれ程大きかったのかをはっきりと物語っていて――……。
全ては自分の責任なのだということを強く感じていたからこそ、テテのそばを離れてひとり遊びに行くなどとんでもないと、はイオスの誘いを断ったのだった。
一瞬嬉しそうな顔を見せてくれたのに、再び憂鬱そうにうつむいてしまった少女に、イオスはその綺麗な眉根を寄せる。
めっきり笑わなくなってしまった彼女を心配し、デグレアにいては気が滅入るばかりだろうからとを連れ出す計画を立てたのだが、肝心のの心はこの程度ではなびいてくれないらしい。
さてどうしたものかと考えあぐねていたイオスだったが、タイミングを見計らったかのように現れたルヴァイドがの説得に加勢し、さらにはゼルフィルドに抱きかかえられてやってきたテテまでもが、驚くに対し、自分は大丈夫だから気にせず行ってきてくれとばかり笑ってみせた。
まどろみ続ける日々の中で、テテもやつれていくご主人様を心配していたのである。「金髪」が一緒なのは少々いただけないところだが、それでも大好きなご主人様の気が晴れるのなら、またいつものようににっこり可愛らしく笑ってくれるのなら、そのためならばという健気な護衛獣心だった。
だが、テテが促しても、それでもは困ったように瞳を揺らすだけで素直に首を縦に振ろうとはしなかった。
どうにも煮え切らない彼女に、焦れたイオスはこう提案した。
「ファナンには金の派閥があるから、召喚獣のための薬や食べ物も色々売っている。それを買いに行くと思えばいいだろう」
――と。
それは、自分だけが遊びに行くわけにはいかないと己を戒めていた少女の想いを見抜いたイオスが示した大義名分。
これが決定打となって、とうとうも外出を承諾したのだった。
皆の瞳に「いい加減素直になれ」とせかされて。わかりました、と言って少女はようやく顔を上げる。そこには、弱々しくはあったが、何日ぶりになるであろう笑顔が浮かんでいた。
◆◆◆
――遠くで花火の音がする。否、あれは大砲の音だ。漁師達が海へと捧げる感謝の音。
改めて、は窓の外に広がるファナンの街を見た。
色とりどりの花や紙細工できらびやかに飾りつけられた街。楽団が陽気な音楽を奏で、道化がそれに合わせて面白おかしく踊ってみせる。楽しそうに笑いさざめく人々の群れ。
そこにあるのはただ、平和そのものの光景だった。嘆きなんてひとつもない、明るい世界……。
(みんな……本当にトライドラのこと、知らないんだ……)
窓枠に置いていた手を、はぎゅっと握り締めた。
勿論、トライドラ領主リゴールの「病死」はここファナンにも伝えられている。よってトライドラ騎士団は喪に服し、今年は祭への参加を取り止めたとのことだ。街に入ってすぐ、「騎士団の鼓笛隊パレードを楽しみにしていたのに」と残念がる声をすれ違いざま耳にした。
毎年、太陽の光を反射しきらめく白き鎧に身を包み、軽やかな太鼓のリズムに合わせてファナンを行進する彼らトライドラ騎士団の姿は、豊漁祭のメインイベントのひとつに数えられるほど凛々しく素敵なのだという。
そもそも街同士が近いということもあり、ここファナンとトライドラの親交は深い。人格者であった亡き領主を慕い、軒先に追悼の意を示す黒い布を掲げている家をいくつも見かけた。今回の祭の最後には、リゴールに捧げる祈りの歌も用意されているらしい。
敬愛する領主を失い、祭に参加出来ないトライドラ。何も知らずにかの人の死を悼みつつ、年に一度の祭に沸くファナン。リゴールの件はや旅団に直接の関係はないとは言え、真実を知るの心中は穏やかではなかった。
ここにいる全ての人を、騙しているような気がして。
自分がここにいるのは、この祭を楽しむのは、やはり許されない気がして――……。
「……また、そんな顔してる」
ふいに頬にあたたかいものが触れて、ははっと我に返った。
慌てて顔を上げると、沈痛な面持ちのイオスがこちらを伺っていた。
頬に触れているのはイオスの両手だ。彼の大きな手のひらで両頬を包み込まれていることに気付き、の頭にかっと血が上った。
「あ、あの」
「酷な事かもしれないが、今だけはトライドラのことは忘れて祭を楽しんでくれないか?
……君がずっと元気が無いから……皆心配してる」
まるで痛ましいものでも見るかのような、切なげな瞳をまっすぐに向けられて、は思わず息をのんだ。頬を包む彼の手はいたわりに満ちているけれど、彼女が視線をそらす事を許さない、やわらかな戒め。
至近距離でイオスに見つめられて、身勝手に早鐘を打つ心臓に落ち着け、落ち着けと言い聞かせる。それから彼女は、イオスの言葉を頭の中で反芻し、ああ、と深いため息をついた。
自分がどうして今ここにいるのかを思い出したのだ。
イオスが言ったとおり、全ては皆が自分のために考えてくれたことだった。
ずっと気持ちを沈ませていた自分。怪我をしているテテにまで心配をかけていた自分。
実際、ファナンに来るまでの道中も、イオスをはじめ同行した旅団員達は皆ずっと自分を気遣ってくれていた。たくさんの笑い話を披露し、おどけてみせたりして、常にを笑わせようとしてくれていた。
――それほどまでに、自分は皆に心配をかけているのだ。
「ごめん、なさい……」
「いや、あやまられても困るんだけどな……」
真正面から謝られて、イオスは己の台詞通り困り果てた表情になる。
人気の無い宿屋の窓辺で、言葉も無く立ち尽くすふたり――……。
ややあって。沈黙を破ったのはの方だった。
桜色の唇が恥ずかしそうに開かれる。
「あ、あのね、イオスさん」
「……うん?」
「お祭ね、
その……りんごあめ、売ってますか?」
「は?」
何とも唐突な少女の言葉にイオスは素っ頓狂な声を上げる。
そんな彼に対し、はえへへと笑って見せた。
「り、りんごあめね、好きなんです。
赤くてまるいのね、あったら、う、嬉しいなあって……!」
しどろもどろに呟かれた言葉。
一体何を言い出すんだとあっけにとられたイオスだったが、すぐに合点がいった。
(ああ……そうか)
――ようやく、今度こそ。彼女は、祭を楽しむことに決めたのだ。
少女が笑ってくれたことがどうしようもなく嬉しくて、次の瞬間イオスも破顔した。
「あると思うぞ? ものすごい数の屋台が出てるしな。
……あー、でも。あんまりそんなものばかり食べてると、ここがもっとぷよぷよになるぞ?」
そう言って、イオスは触れたままだった少女の両頬をぷにっと引っ張ってみる。
「全く本当にうまそうな頬肉だよなあ。串焼きにして売ったらさぞ人気だろうなー?」
「いっ、いひゃいいひゃい、いひゃいですいおすさんーっ!」
ひとしきり少女の頬の感触を楽しんだ後、イオスは彼女から手を離す。「ひどいひどい!」とむくれるの頭をなだめるようにポンポンと叩いて彼は言った。
「ほら、もう行こう? せっかくの祭なんだ、時間がもったいない」
「あ、は、はいっ!」
笑いながら階段を降りて行くイオスの後ろを慌てて追いかける。
イオスが触れた頬がまだ熱い。そういえば、彼とこんな他愛も無いやりとりをするのも何だかずいぶんと久しぶりな気がした。
――トライドラのことが気に掛からないといえば嘘になる。
けれど、このままがひとり悩んでも何も解決しない。とりあえず今の自分に出来ることは、せめてこれ以上皆に心配をかけないよう、笑顔でいることだ。
今だけは……イオスや皆の優しさに甘えてしまおうと、彼女はそう決めたのだった。
◆◆◆
「あれ? アルさん達一緒に行かないんですか?」
「う、うん。ちょっと俺らは他に寄りたい所があってね」
宿屋のロビー。顔なじみの旅団員達にここからは別行動だと告げられた少女は、寂しそうにその瞳を曇らせた。
「そう……ですか……。
せっかく皆で賑やかにお祭見れると思ったのにな……」
可愛らしく小首をかしげ、何とも健気なことを言ってくれるに対し、三名の旅団員達は思わず「やっぱり一緒に行こうか!」と言いそうになる。だが、そんな気持ちは少女の背後に控える上司を見た瞬間一気に萎えた。
の後ろで腕組みをしているイオス。一見笑顔を浮かべてはいるものの、その瞳ははっきりとこう言っていた。
まさかお前ら、邪魔する気じゃないだろうな? ――と。
……彼らとてわかっていた。デグレアを出発したときからもうじゅうぶんわかっていたのだ。ファナンの祭を、上司は彼女とふたりきりで楽しむつもりでいる。自分達の同行は、賑やかな旅路にすることでともすれば沈みがちな彼女を元気付けることと、もうひとつ――ふたりきりで泊まりの旅行なんてどうせ彼女が素直に承知するする訳が無いから、下心なんてないんだよと少女を安心させるための、いわばおびき出すためのエサに過ぎなかったのだと。
わかっていたし、それでもいいと思っていた。
だが、いざ上司の横暴を目の当たりにすると、何と言うかこう――ものすごく、理不尽だ。
「まったく、せっかくの機会なのに身勝手な奴らでごめんな? 」
「いえ、仕方ないです。アルさん達だって滅多にファナンには来られないんだし、やりたいこととかお買い物とか、色々ありますよね」
しょんぼりとうなだれたに対し、イオスはいけしゃあしゃあとそんな台詞を言ってのける。
彼女を気遣うフリをしながら、特務隊隊長はちらりと部下に視線を走らせる。声を発することなく、その優美な口許が動いた。
――さ・っ・さ・と・行・け。
声無き命令を聞いたその瞬間、旅団員達はさまざまなものを諦めるしかなかった。
心の中でひっそりとため息をつく。ああ、ちゃん騙されてるよと誰かに泣きつきたい気持ちで一杯だった。
「じゃ、じゃあなちゃん。悪い虫に食われないようにねー!」
「えっ? あ、は、はい。楽しんできて下さいねー!」
ぶんぶんと手を振って、三人は祭の喧騒の中へと駆け出していく。
最後のひとことにはきょとんとし、イオスはぴくりと頬を引きつらせた。
「……ああ、そっか。今夏ですもんね、デグレアと違ってファナンは暑いから、虫も多いですよね」
彼等の後姿を見送りながら、刺されないように気をつけないと、とひとり納得する。
去り際に言われた台詞をお約束のボケで片付けてくれた少女に対し、部下の言わんとしている真意をわかっているイオスはただ曖昧に笑うしかなかった。
――とりあえずあいつらは次の訓練で徹底的にのしてやると、イオスが心密かに誓ったのは言うまでも無い。
やがて、取り繕うかのように数回咳払いを繰り返して。気を取り直したイオスがに向き直った。
「じゃあ、僕達も行くか」
「あ、はいっ!」
イオスに促されも宿屋を出る。
宿屋のある道から少し歩くと、そこはファナンの中央大通りだ。日差しを遮るかのように左右に建物が並ぶ薄暗い小道からさんさんと光降り注ぐメイン・ストリートへ出ると――……。
そこには、夢のような世界が広がっていた。