「本当にごめんねぇ! すっかり連れと間違えちゃって……」
「そんな、大丈夫ですから。ぼうっとしてた私も悪いんですし、気にしないで下さい」
悪かったねと頭を下げ、それじゃあねと遠ざかる中年の女。心配そうに振り返る彼女には笑顔で手を振ってみせる――大丈夫だと。
だが、女の姿が人混みに見えなくなったところで、少女の口からは重いため息がもれた。
抽選会を知らせるファンファーレの音。中央大通りで怒涛の人波に飲まれたあの時、は先程の女に間違えて腕をつかまれ、そのままこの広場へと連れてこられてしまったのだった。
(どこだろう、ここ……)
見覚えのない広場。勿論イオスの姿は見当たらない――はぐれてしまったのだ。
だが、知らない場所にひとり取り残された恐怖よりも、とりあえず彼の隣を逃げ出せたことに安堵している自分に気がついて、は再びため息をつく。やがて彼女は、広場を取り囲むように造られている石畳の階段にしゃがみこんでしまった。
――これだけの人混みだ。はぐれる可能性はじゅうぶんに予測出来たから、イオスとは「万が一はぐれて半時相手を探しても見つからなかったら宿に戻ること」という約束をしてある。宿の名前は覚えているから、誰かに聞けば道も教えてもらえるだろう。だから、イオスとはちゃんと再会出来る。
だが、果たしてどんな顔で彼に会えば良いのか――にはわからなかった。
髪に飾った赤い花、恋人の花が、夏の風にふわりと揺れる。
……イオスに、まるで恋人同士のような触れ方をされて。びっくりして、思わずその手を振り払ってしまった。明らかに気分を害した彼は、その後何かを言おうとしていた。何かを思いつめた瞳で、何かとても大切なことを。
あの時。彼は何を言おうとしていたのだろうか。
――恋人同士なら手をつないでもいいんだな?――
イオスの声が、言葉が、耳の奥によみがえる。
――僕は
真剣な眼差し。どこか熱を帯びたような、初めて見る特別な赤の色。
――僕は、君が――
その先に続く言葉は?
――僕は。君が。
――……「好き」――……?
(違う違う違う! 好きなのは私だけ! イオスさんは違うの!)
ふいに頭に浮かんだその言葉をは必死に否定した。
彼が自分のことを好きだなんて、なんて贅沢な妄想だろう。そんなこと考えてはいけない。期待してはいけないのだ。
期待して浮かれたりしたら、後戻りが出来なくなる。
優しくされて、もしかしたら彼も私のことを、なんて勝手に思い込んで、告白して、そうして傷つく。リィンバウムに呼ばれる直前に経験したあの過ちを繰り返すのだけは嫌だった。
それに、この世界においてイオスへの想いは「ただの失恋」では済まない。彼と気まずくなったりしたら、もう旅団にもいられない――居場所がなくなってしまうのだ。それを考えただけで、は目の前が真っ暗になった。
傷つきたくない。今を失いたくない。彼への想いを消すことはもう出来ないけれど、この恋はただそっと、心の奥底に大切に大切に、誰にも見つからないようにしまっておければそれで良かった。それで彼の隣にいられるのなら、それ以上なんて何も望まなかったのに。
なのに。……それなのに。いつもいつも。――今日も。
(イオスさんが、期待させるようなことばっかりするから……っ!)
じわり、と目に涙が浮かぶのを感じて、は己の膝に顔を押し付けた。
手をつないだり、抱き合ったり、キスをしたり。恋人同士だけに許される筈の「特別」を、イオスはいとも簡単にやってのける。それがどれだけを悩ませているのか、あのひとは全然まったくわかっていないのだ。
(イオスさんが悪いんだから……! ずるい、ずるい……ひどい)
こんなに苦しいのも、涙が止まらないのも、みんなみんな彼のせいだ。
イオスにとっては何気ない戯れであっても、その一回一回がにとっては忘れたくても忘れられない、想いの袋小路に誘い込む甘く残酷なぬくもりなのだ。
(イオスさんは軽い気持ちでも、わたしはっ……!)
悲しくてくやしくて、たまらずぎゅうっと瞳を閉じる。
その時、まぶたの裏に再びはぐれる前のイオスの顔が浮かんだ。
だけをまっすぐに見つめる、澄み切った紅の瞳……。
あの瞳さえ、イオスの「軽い気持ち」の表れ、なのだろうか?
あんな瞳を見せてまで、イオスは「誰かの気持ちを弄ぶ」ようなひとだろうか?
本当に?
――本当に……?
どうしようもない混乱に、の目頭が熱くなる。
何が真実なのかわからない。
気持ちを、心をあざむいているのはどちらなのだろう。
彼か。
それとも、自分か……。
今までのイオスとのやりとりが、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
彼とのふれあいは、心を滅茶苦茶に揺さぶられて、確かに苦しいことも多かったけれど。でもそれ以上に大切な思い出でもあった。
そして、イオスはいつだって、――真剣だった。
そう。彼は真剣だったのだ。
それを認めていなかったのは、他でもない、自身。
ああ、とは嘆息した。
閉じた瞳の間から、ぽろりとこぼれる一粒の涙。
ゆっくりと頬を伝うその感触が、まるで意地っ張りな自分の心を優しく諌めているかのようで。……とうとう、は観念した。
(違うよね。
悪いのは……私……)
……彼が、ただの戯れで特別な言葉をささやいたりするような人ではないことくらい、もじゅうぶんわかっていた。
確かに、イオスは「女あしらいが上手い」ところがある。けれどそれは決して不誠実を意味するわけではないのだ。
召喚されたあの夜からずっと、イオスはいつだって、自分にまっすぐに向き合ってくれた。瞳も言葉も触れる手のひらも、だけを求めてくれたその結果だった。
けれどには、それはイオスにとっては特別な意味など持たない、何でもないことだと無理矢理思い込む他に術がなかったのだ。
彼の行動が自分だけに向けられた特別なものだと認めてしまったら、その先に繋がる想いを期待してしまう。彼が自分を特別な女の子だと意識してくれている、召喚主と召喚獣以上の好意を持ってくれているのだと、どうしても考えてしまう。舞い上がってしまう。それが、はたまらなく怖かった。
だって失いたくない。一緒にいたい。境界線を越えた先に足がつくとは限らないのだ。
だから、だから……!
――でも。
(……イオスさんは、手をさしのべてくれた……)
怯え足をすくませる自分に、イオスは手を伸ばしてくれた。なのに、境界線の向こうに連れ出してくれたかもしれない優しい手のひらを振り払ってしまったのはなのだ。
彼の手を拒んでまで、自分はずっとこのまま、白線の内側に立ちつくすつもりだろうか。
そうして怖いからと目も耳も心も塞いで、安全な殻の中に閉じこもっていたら、彼はいつか、さしだす手のひらさえ止めてしまうのではないだろうか――……。
(――そんなのは、いやだ……!)
きつく唇をかみしめる。震える両手を力いっぱい握り締める。
拒み続けることで、彼を失う。それは、踏み出すことよりもっともっと恐ろしくて、かなしいことだ。
やっぱり、怖いけれど。それでも。
……さしのべられた手を握り返すことくらい、許されるのではないだろうか……。
勇気が無くて、ただ膝を抱えてうずくまるだけ。そんな自分は――もう、嫌だ……!
彼を、失いたくないから。
(……戻ろう)
すんっと鼻をならし、は決意する。
戻ろう。戻って、イオスに謝ろう。
そうして今度は、自分から彼に手をのばすのだ。
言葉に出来なくても、それでも、やっぱり自分は彼が好きだから。だから……!
ごしごしと涙で濡れた顔をこすり、は勢いよく顔を上げる。
もう怯えない。迷わない。頑張って勇気を出すんだと、そうかたく心に誓ってきっと前を向いた――その時だった。
「――ちょいとあんた、大丈夫? 人混みに酔ったのかい?」
ふいに頭上から降って来た声には驚いて上を向く。
心配そうな声音。こんなところで座り込んでいるから勘違いされてしまったのだろう。
「いえっ! ち、違うんです! ごめんなさい、大丈夫……」
慌てて立ち上がりかけたところで、はまだ少し涙の残る瞳を大きく見開いた。
視線がぶつかった相手の方もびっくりした表情を浮かべている。
――目の前にいたのは、健康的に焼けた肩を出した金髪の少女。
「モ、モーリン、さん……!?」
「、じゃないか!」
太陽を背にしたその少女は、が数日宿を借りたこともあるファナンの娘――モーリンだった。
◆◆◆
モーリン。ファナンに住む少女。トリス達の仲間。
とっさにの頭を埋め尽くしたのはたくさんの「ごめんなさい」だった。
デグレアを出発する前も、今日宿屋を出る前も。絶対に彼等には、聖女一行にだけは会わないようにときつく言い含められていたのだ。だからイオスは彼等がいそうな下町近辺には近づかないようさりげなく気を配って行動してくれていたのに――これはとんでもない失態だ。
とにかく、今日は戦いに来たわけではない。それだけはモーリンに伝えなければならなかった。
「あああああのモーリンさん! 今日は戦いとかじゃないんです! ルヴァ……く、黒騎士、も、いません!
本当にあの、今日は単なる観光で、お祭見に来ただけで、本当に何もしませんから、りんごあめちょっと買えて花火が見れればそれでじゅうぶんですから、だからだからだから……!」
だが、トリスさん達にはどうか内緒に、と言いかけたの言葉は、突然響き渡った大きな笑い声で遮られた。
見れば、モーリンがお腹を抱えて爆笑している。
「……あ、あのう……モ、モーリンさん……?」
一体何がそんなにおかしいのだろう。困惑するに、モーリンは目の端に涙まで滲ませながらごめんごめんと謝った。
「いや、ごめんごめん!
だってさ、あんたがあんまり必死になってるからさ……! っくく……!」
「は、はあ……」
こちらとしては騒ぎになるかならないかの瀬戸際、死活問題なわけで、必死になるのは当たり前だ。怪訝そうな表情を浮かべるを見て、モーリンは再び悪かったよと謝った。
「大丈夫だよ。今日のあんたを見れば戦いに来たんじゃないってことくらい誰にでもわかるって。
まったく、そーんな可愛い格好して戦闘する物好きがどこにいるってのさ……恋人の赤い花まで飾っちゃってまあ」
からかうようなモーリンの視線に、は慌てて耳に差した花に触れる。その頬がみるみる桃色に染まっていくのをみて、モーリンは優しく瞳を細めた。
「心配しなくても騒いだりしないよ。
……まあ、あんた達とは色々あるけどさ……デグレアは信用できないけど、でも、あたいはのことは結構信用してるからね」
「えっ……?」
思いがけないモーリンの言葉には驚いて瞬きを繰り返す。
――ファナン滞在中に世話になっていたとはいえ、あの時もモーリンとはそんなに会話をしたわけでもない。あくまでデグレアに、黒の旅団に属している自分は、こんな簡単に「信用している」などと言ってもらえる立場では無い筈なのだが……。
「……シャムロック。今ね、あたいん家にいるんだよ」
ふいに呟かれた名前にははっと顔を上げた。
その黒い瞳に白騎士を思いやる心を見て取って、モーリンは大きく頷いた。
「傷もすっかりよくなってね。初期の治療がよかったんだってアメルが言ってた。
……でさ、シャムロック本人があんたのことを責めないでくれって皆に言ったんだよ。だからあたいは、のことは信じていいと思ってるのさ」
そう言って、モーリンはにっと口の端を上げ、笑う。
屈託のない、お日様のような笑み。やさしくてまぶしくて、シャムロックの姿が彼女の後ろに蜃気楼のように揺れて。は、泣き出しそうになるのを必死にこらえなければならなかった。
――あんなことがあったのに。どうして彼等は、彼女達は、こんなにも優しいのだろう……。
小さく震えるの肩を、モーリンがぽんと叩いた。
「ま、今日はせっかくの祭だからね! 見つかんなければ無礼講ってことでいいんじゃない?」
またこぼれかけた涙を手の甲でぬぐって。は一度しゃんと背筋を伸ばすと、モーリンに向かって深く深く頭を垂れた。
「……ありがとう、ございます……!」
いきなりかしこまってお辞儀をする敵の少女に、今度はモーリンが慌てる番だった。
「ちょ、ちょいとちょいと、やめておくれよ……! あたいはそういうのダメなんだってば!」
赤面しながらおろおろするモーリン。
だが、ようやくの頭を上げさせたところで、突然彼女はああっと大きな声を上げた。
「いっけない! こんな所で油売ってる場合じゃなかったんだよー!
そうだ、、あんたユエルを見なかったかい!?」
「ユ、ユエル?」
いきなりのモーリンの変貌に若干怯えつつ、は聞き覚えのない名前に首を傾げる。
「ああそうか、あんたは会ったことなかったっけ……!
ええと、青い髪のオルフル、狼みたいな耳としっぽの生えたミニスくらいの女の子なんだけどさ! ちょっと今大変なことになっててさあ!」
ああもう本当にどこいっちまったんだろうねえと言いながら、広場の先、細い裏道の方へ歩き出すモーリン。
あまりの切羽詰った雰囲気に、つられても建物の間を覗き込む。
「オ、オルフルって、メイトルパの子ですよね……?」
何があったんだろうと思いながらモーリンの肩越しに見た道の先。一瞬わずかに揺れる青い毛並みが見えた。
――そして。
「イヤだよぉ……! ユエルっ、もう誰も殺したくなんかないよぉぉーーーー!!」
路地裏に響き渡る悲鳴。
はっと顔を見合わせたとモーリンは、同時にその場を飛び出した。