――自分でまいた種とはいえ、どうしてこうも収集のつかない事態にまで発展してしまうのだろう。
「シャ、シャムロック、さんっ……!?」
よりにもよって、今ここにこのひとが現れるなんて。
己の間の悪さを心底恨めしく思いながら、はおそるおそるシャムロックへと視線を向ける。
目が合った彼は、あきらかに「ものすごく恥ずかしいものを見てしまった」という顔をしていて、シャムロックに自分の醜態を目撃されてしまったことはいよいよ明白で、いたたまれなくなったは慌てて諸悪の根源である丼をテーブルの上へと置いた。
まるでさっきの行動を隠そうとするかのように丼を放置したの奇妙なうろたえぶりに、イオスがぐっと眉間の皺を深める。
「あ、あの、ええと……これは、そのっ!」
赤くなったり青くなったり、くるくると忙しく表情を変えるを前に彼女の混乱を汲み取ったシャムロックは、ひとつ苦笑を浮かべて先に口を開いた。
「――とにかく、お会い出来てよかったです。
貴女がここに来ていると聞いて急いでやってきたんですよ? 何とかしてお礼を言いたかったので」
「えっ? お、お礼って……」
きょとんとするに、シャムロックは鳶色の瞳を優しく細めた。
「……あの時はありがとうございました。おかげ様ですっかりよくなりました」
「あ……」
ローウェン砦戦後のことを言われているのだとわかり、ははっと目を見開きシャムロックを凝視した。
憑依させていたエルエルが問題なく戻ってきたことから、シャムロックは無事快方に向かったのだとわかってはいたが、直接確かめる術を持たなかったため本当に大丈夫なのか気がかりだったのだ。
今目の前にたつシャムロックは、本人が口にするとおり確かに元気そうだ。安心したはほっと胸をなでおろした。
「よかったです……!」
思わずこぼれた少女の無邪気な笑顔に、一瞬シャムロックの顔が赤く染まる。
どうしてそんな顔をされるのかわからず、は怪訝そうに首を傾げたのだが、やああって彼女は大切なことに気がつきこちらも一気に頬を上気させた。
――そうだ。
自分は前回、彼に告白されているのだ。
好きだ、と。
(ど、どうしよう……)
鳶色の瞳を見ていたら、急に先日シャムロックと別れた草原での出来事が鮮明に思い出されて、の心臓が勝手に早鐘を打つ。さらなる混乱の予感には慌てて回想を振り払った。
自分を好きだと言ってくれたひとが目の前にいる。もう会うこともないかもしれないとさえ思っていた相手にこんな形で再会してしまって、正直どんな顔をしたらいいのかわからなかった。
けれど、とにかく今はそのことに頬を染めて良いような状況ではない。
何とか話題を変えようと、は必死で言葉を探した。
「――で、でもシャムロックさん。どうしてファナンに?」
とっさに出た疑問をそのまま口にしたは、トライドラに行った筈ではと言いかけたところで慌てて口をつぐんだ。
――また自分は何と言うことを聞いてしまったのだろうと激しく自己嫌悪する。
どうして、なんてそんなこと。デグレアのせいでリゴールが死に、トライドラが崩壊してしまったからに決まっているではないか。
デグレアに属する自分が亡国の騎士となってしまった彼にそれを問うのは、あまりに残酷で、罪深いことだ。
デグレアのせいで故郷まで失ってしまったシャムロック。
本当は彼に会わせられる顔なんてないのに。自分は一体こんな所で何をしているのだろう……。
「……ああ。
ご存知かとは思いますが、リゴール様が亡くなられまして……。
国に残っても身を持て余してしまいますので、トリスさん達に同行させてもらうことにしたんです。
私に残された使命を果たすためには――じっとしてなどいられませんし、ね」
「……使命……」
淡々と語るシャムロックの表情は驚くほど穏やかだ。
だが、その言葉に秘められた意味を敏感に感じ取ったはきつく唇をかみしめた。とても直視できなくて、シャムロックから視線を外す。
――残された使命。それは間違いなく国と主君を奪ったデグレアへの復讐だろう。
リゴール暗殺にはも黒の旅団も一切関わっていない。どのような形で何が起こったのかも知らされていない。わかっているのはただ、指揮を執ったのがレイム配下の男だということだけ。
男の名は、キュラーというらしい。はまだキュラーとは面識がなかったが、レイム腹心の部下というだけで、おそらくはまっとうな戦いの形ではなかったのだろうということが容易に想像できた。
軍関係者にさえ詳細が公にされていない時点で、非人道的な振る舞いがなされたのは明らかだ。
……あの時。ローウェン砦で、シャムロックは敵であるを身を投げ出して護ってくれた。
その彼が最後の拠り所としていたトライドラ領主リゴールは、がデグレアでのうのうと日々を過ごしている間に、他でもないデグレアの魔手によって悲劇の最期を遂げていたのだ。
いくら、知らなかったとはいえ。何かもっと、自分に出来ることはなかったのだろうかと、途方もない後悔の念がの胸を茨のように苛んだ。
さっきまでの浮かれた気分が嘘のように心がみるみる沈んでゆく。やはりここにいてはいけないのだと、そんな思いが泥のように全身にまとわりつき、重みに耐え切れず顔を上げられなくなる。
せめて、これだけは伝えなければいけないと、はやっとの思いで血の気を失った唇をふるわせた。
「……ごめん、なさ」
「貴女のせいではありませんよ」
謝罪の言葉を遮られ、は驚いて顔を上げる。
どうして、と辛そうに瞳を曇らせる少女に対し、シャムロックは静かに首を横に振った。
「私はリゴール様の最期を見届けました。これが誰の罪なのかもこの目にはっきりと焼き付けています。
だからこそはっきりと言えます――今回のことは、貴女には何の罪もない。そうやって謝って、自分のせいではない罪まで貴女が背負ってはいけません」
貴女のせいではありませんよと繰り返して、シャムロックは春のお日様のようにやわらかく微笑む。
大切なものを何もかも失ってしまったというのに、それでもこんな自分をいたわってくれるシャムロックの陰りのない笑顔を前に、の胸に熱いものがこみあげた。
こぼれかけた涙を慌てて拭う。
泣くことでは何も解決しないし、伝わらない。シャムロックはそんなことを望んではいないだろう。
だけど、どうしてもこのままでは終わらせたくなかった。謝罪の言葉以外に何かこの気持ちを伝えられるものはないだろうかとはひとり考え込む。
やがて、彼女は両耳に飾っていた花の片方を手に取った。
「シャムロックさん。
……せめて、このお花を……リゴール様に」
追悼の花を差し出す少女。一瞬驚いた表情を浮かべたシャムロックだったが、少女の想いに気付いた彼はおごそかに頷いて花へと手を伸ばした。
「……ありがとうございます、さん……」
甘い香りを纏う南国の花が、の手からシャムロックの手へと渡る。
気持ちを受け取ってもらえたことに安堵したはようやく緊張から解放される。だが、ふと目をやったシャムロックの右手、花を持つ手首に見覚えのある物を見つけて、少女の頬に再び朱が散った。
「あっ……。
その、リボン……」
シャムロックの手首に結ばれていたのは、かつての物だったあの黒いリボン。
の視線に気付いたシャムロックが、ああ、と照れくさそうに笑った。
「……ちゃんと、大切にしていますよ?」
どこか悪戯っぽく、だけに聞こえるように小さな声で告げたシャムロックに、はますます頬を赤らめた。
一度は引いた熱が再びよみがえる。恥ずかしくて、でも動くことも出来なくて、どうしたらいいかわからない。身を包もうとするやわらかな甘さと切なさが、怖かった。
「あ、あの。ええと……」
自分だけに注がれるシャムロックの優しい眼差しが落ち着かなくて、はおろおろと視線を彷徨わせる。
そんな彼女の肩に、ふいに大きな手が置かれた。
「――そろそろ、行くぞ」
「あ、イ、イオスさん!?」
の肩を掴んだのは、露骨に不機嫌なオーラを放っているイオスだった。
眉間に刻まれた皺はそのまま痕になりそうなほど深みを増している。
複雑な思いを込めて少女の肩に置いた手にぐっと力を入れたイオスだったが、当のは相当驚いたのかひどく間抜けな表情を浮かべてイオスを見上げた。
「で、でも、行くってどこへ?」
この期に及んでとんちんかんなことを言ってのけるに、イオスの額に青筋が浮かぶ。
無自覚とはいえ、あんまりな仕打ちにさすがのイオスもしばし声を失い地面へと視線を落とす。
「あの、イ、イオスさん……?」
肩を掴んだままうつむかれてしまい、拘束されたままのが戸惑いがちにイオスの名を呼ぶ。
ややあって、イオスはゆっくりと顔を上げた。
その顔に浮かんでいたのは、先程とは打って変わって艶やかな笑み。見るもの全てを魅了するイオス必殺の笑顔だったが、何故か裏に奇妙な威圧を感じて、反射的には背筋を強張らせる。
怯える少女に、イオスはただにっこりと微笑みかけた。
「まったく何を言ってるんだか……。
今日はせっかくのデートだっていうのに、君はいつまで僕以外の男と話している気なのかな?」
まるで恋人同士のようにぐい、と腰を引き寄せて。とろけるように甘い声で、イオスはの耳元にささやく。
突然のイオスの行動に、は火を吹きそうなくらい顔を真っ赤に染めるしかなかった。
「え? ええ? え、う、あの、あの、イオスさ――ひゃああっ!」
戯れにぺろりと耳を舐められて、が甲高い悲鳴を上げる。
予想通りの反応に、イオスは満足げににやりと笑った。
吐息のかかる耳。腰にまわされた腕はしっかりとを捕らえて離さない。
――この状況で、もはやにまともな思考を保つことなど不可能だった。
半分目をまわしてくたりと力の抜けたを一丁上がりとばかり抱きすくめたイオスは、そのままの格好でゆっくりとシャムロックを見据えた。
「……そういう訳でね。
今日はこっちも休暇なんだ。貴重な二人っきりの時間を邪魔しないで貰いたい」
口許に嫣然たる微笑を浮かべたまま、厳しい光を宿したイオスの瞳がシャムロックを睨みつける。
「さあ、行こうか、」
これでもかとばかり、自分はこの少女に触れることが出来るのだということを呆然としている白騎士に見せつけてから。イオスはの肩を抱いたまま、優雅にその場を後にした。
◆◆◆
「……す、すごいもの、見ちゃった……!」
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
イオスとの姿が人ごみの向こうに消えてから、両の手を頬に当てたトリスとアメルが感嘆の声を重ねる。彼女達の言葉を合図に、金縛りにあったかのように動けなかった面々がようやくほうっと息をついた。
「噂にゃ聞いてたが……なんつーか、すっげえ情熱的なマスターってやつだなあ、おい……」
ヒュウっと口笛を鳴らすレナードだったが、ずいぶんと純情そうだったあの少女が異世界の男にいいようにほだされてしまうのではないかと一抹の不安を覚える。
敵側の恋愛事情は何だかややこしいことになっているらしい。皆がにわかに色めき立つ中、屋台から出てきたシオンがテーブルの上に残された丼を手に取ってぽつりとこう言った。
「……せっかく真心込めてお出ししたお蕎麦を残して行くなんて……。
これはもう、次にいらした時にはとっておきのお仕置き用コースメニューでおもてなししなければいけませんねえ……!」
いつも通りの穏やかな口調。だが、あかなべ店主の顔に浮かぶ壮絶な笑みを前に、その場にいた者達はぶるっと全身を震わせた。
夏の盛りだというのに、何だか急に気温が下がったような気がする。
――ちょっと、やばい人を敵にまわしちゃったかもしれないよ、と。
目には見えない、けれど確かに黒い何かを発しながらただにこにこと笑い続けるシオンを横目に、皆はそろって彼等が去っていった方角を嘆かわしそうに見つめるのだった――……。
「……おい。シャムロック……」
が去った時の格好のまま、騒ぎの片隅でひとり遠い目をして立ち尽くしていたシャムロックは、ふいに名前を呼ばれて振り返る。
彼の後ろには、いつの間に来ていたのだろう、苦虫を噛み潰したかのような顔をしたフォルテの姿があった。
少し迷うような素振りを見せてから、フォルテは重い口調で言った。
「……別に、お前の女の好みをどうこう言いたくはねえけどさ……。
わかってるよな? あいつは一応、敵側の」
「――あの人は違いますよ」
間髪入れずに返って来たシャムロックの言葉に、思わずフォルテが声を荒げた。
「でもだからってなあ……!」
むきになるフォルテに、シャムロックはゆるく微笑みながら静かに首を振った。
「――わかっています。
あの人がリゴール様の仇であるデグレアに属していることも、トライドラの騎士である私は、本来こんなことにうつつをぬかしている場合ではないことも、ちゃんとわかっていますよ……」
「……シャムロック」
「でも、フォルテ様。
私はどうしても、あの人にこれ以上傷ついて欲しくない。
あの人を護りたいと……ただそれだけなんです」
ひとことひとこと、かみしめるようにそう言って、シャムロックは少女が去っていった彼方を見つめる。
眩しそうに、愛おしそうに細められる鳶色の瞳を目の当たりにして、フォルテは参ったとばかり大きく嘆息した。
――嫌な予感はしていたのだが、親友はどうやら本気らしい。
純情を絵に描いたようなこの男がまさかあの少女に心奪われてしまうとは。本来なら大いにひやかしてやるところだが、相手が相手だけにそんなお気楽に構えている場合ではなかった。
とはいえ、シャムロックが一度心に誓ったことは決して覆さない人間であることを誰より熟知しているフォルテは、これ以上親友を諌める気にもなれなかった。
本気なだけに、余計始末が悪い。
黒の旅団に身を置く異世界の少女と、彼等が仕える国により滅ぼされた亡国の騎士。あまりに因縁めいた関係に、何か悪いことが起きなければ良いがとフォルテはひとり頭を抱える。
黙り込んでしまったフォルテに、さすがに気まずさを覚えたシャムロックがおずおずと声をかけた。
「……ええと、す、すみません……」
「オレに謝ってどうすんだよこのバカ。
でもなあ……。おいシャムロック、お前こんなにストレートな性格だったか……?」
護りたいとか何とか、よくもまあ人前で堂々と言えるもんだ、見てるこっちが恥ずかしいとかブツブツ文句を言うフォルテに、シャムロックは何だそんなことですか、と笑った。
「私は、手遅れになりたくないから自分の気持ちには正直になると決めているんです。
……もう嫌なんですよ。護りたいと誓った女性(ひと)が、手の届かない場所に行ってしまうのは……」
深い悔恨の情を漂わせた瞳で告げられたシャムロックの言葉に、フォルテははっと顔を上げる。
ふいに、彼の脳裏に幼い日々の思い出がよみがえった。
――もうずっとずっと昔。まだ何も知らなかった頃、自分達はいつも一緒に、ただ無邪気に笑っていた。 陽だまりの中、笑いながら、歌いながら、つないでいた三つの小さな手のひら。
自分と。シャムロックと。――そして――……。
「シャムロック。それは……」
フォルテの問いにシャムロックは静かに瞳を伏せる。
「……もう二度と、伝えられなかったことを後悔したくないんです。
だから、私は――……」
ファナンの潮風がシャムロックの手にある恋人の花を揺らす。
最後の言葉は、少女の残り香とともに風にさらわれ、消えた。
◆◆◆
「イ――イオスさんっ! ちょっと、待って下さ……!」
あかなべを後にしてしばらくはイオスに肩を抱かれていただったが、ようやく衝撃から立ち直ったが気まずそうに身をよじると、イオスは意外にもあっさりと少女の身体を解放した。
だががほっとしたのもつかの間、今度は問答無用で手首をつかまれ、そのまま人波に逆らうように引っ張られる。
イオスに無言で手を引かれるまま、彼のペースで歩かされて、とうとうが悲鳴を上げた。
「待って……いたい、ですっ! お願い、待って……っ!」
背後から聞こえた切羽詰った哀願に、ようやく我に返ったイオスがはっと立ち止まる。
慌てて手を離し少女を振り返ると、彼女は半泣きの状態で苦しそうに肩を上下させていた。
イオスが怒りに任せてつかんでいたせいで、少女の細い手首にはくっきりとイオスの手の痕が浮かんでいる。
しまったと、イオスは心の中で舌打ちをした。
だが、こんなつもりじゃなかったのにと悔やんでももう遅い。
「……ごめん」
低くつぶやかれた謝罪の言葉に、は痛む手首をさすりながらふるふると首を横に振った。
「い、いえ。
私の方こそ、勝手なことばかりして…………ごめんなさい」
そもそも、全ての原因ははぐれてイオスに迷惑をかけてしまった自分にあるのだと、はぎゅっとくちびるをかみしめた。
消え入りそうな声で謝るに、イオスは曖昧にうなずく。
別に彼女だけが悪いわけでもないのだが、一体何と言ったらよいのか言葉が見つからなかった。
そして訪れる沈黙。
祭の喧騒の中、ここだけ時間が止まっているかのように、イオスもも、気まずさのあまり微動だに出来なかった。
やがて、急にイオスはくるりとに背を向ける。
一瞬、もう彼に嫌われてしまって、このまま置いて行かれてしまうのではと目の前が真っ暗になっただったが、イオスは立ち止まったままぽつりとこう言った。
「――ものすごく、探したんだぞ」
「……え?」
背中を向けたままぼそぼそとしゃべりだしたイオスに、こんな態度をとるイオスを始めて見たが目を瞬く。
微妙な距離を保ったまま、イオスが続けた。
「やっと見つけたと思ったら、あいつらと一緒だし」
「……」
「――僕がどれだけ心配したか……わかってるのか」
「……ごめん、なさい」
ひとりごとのようにぽつぽつと紡がれる言葉には妙な哀愁が漂っていて、見ている者の心を今すぐ土下座したくなるくらいの申し訳なさでいっぱいにする。
いつも自信たっぷりにこちらの目を見て話すイオスがこんなにも打ちひしがれた姿を見せるなんて。一体どうしてしまったのだろうと、あまりのことに、はただひたすら謝るしかない。
どうして。急に、こんな……。
「おまけに、
……あの花、あいつなんかに渡したりして……」
最後の科白はひどく小さな声で言われたので、最初は何のことなのかわからなかった。
顔を少しだけ動かして、イオスは肩越しに少女の反応を覗き見る。だが、が不思議そうに首を傾げているのを見た彼は、再びそっぽを向くと子供のように唇を尖らせた。
「僕が、買った、…………恋人の花、なのに」
悔しそうに呟かれた言葉。思いがけないそれに、ははじかれたように顔を上げた。
とっさに耳に手を当てると、両耳の上にあったはずの花は確かにひとつだけに減っていた――が、弔いの為にとシャムロックに一輪渡してしまったからだ。
花なんか渡して、敵将と馴れ合っている場合ではない、とか、勿論そういう意味もあるのだろう。
だが、イオスが本当に言いたいのはそこではないような気がした。
(……もしかして)
……本当は。こんなことを考えてはいけないのだろうと思う。緊張感のない自分に呆れる。
でも、背中を向けたままのイオスの耳がほんの少しだけいつもより赤みを帯びていて。
こっちを向かずにしゃべるところとか、その口調とか、――花へのこだわり方、とか。
これは。敵との接触に怒っているというよりも。
むしろ、まるで、シャムロックに嫉妬して、いじけているような――……。
黙ったままのに業を煮やしたのか、やはり完全には振り返らないままイオスが顔だけちらりと動かしてを見やる。
一瞬だけ目が合って、すぐまたそらされた瞳。だがその瞬間だけで、は自分の考えがおそらく間違っていないことを確信してしまった。
――イオスが。あのイオスが、いじけている。やきもちをやいている。
(……うそ……)
にわかには信じがたい出来事に、はとまどいとせつなさと、そして不思議な喜びが湧き上がってくるのを感じていた。
……イオスには迷惑をかけ通しだったというのに、まだ完全に許してもらったわけでもないのに、こんなことで浮かれるなんて本当に不謹慎極まりないと思う。
でも、イオスが、まさか自分のことでこんなにも心を乱してくれるなんて――!
彼の想いを暗示するこの夢のような状況に、心躍らせるなと言う方が無理な話だ。
想いを寄せているひとが。嫉妬、してくれているのだ。
相変わらず背中を向けたままのイオス。本当に子供みたいな彼の態度に、の胸がきゅうっとしめつけられる。
どうしてだろう、今すぐに彼に触れたいと、そんな思いで頭の中がいっぱいになった。
やはり自分はこのひとが好きなのだと心の底から感じる。好きで好きで、どうしようもないのだと。
息が苦しくなるほどのこの想いをただ彼に伝えたかった。けれど、今とイオスの間には数歩の距離が空いている。
イオスは、動かない。
この距離は、ほかでもない、自分自身が埋めなければならないのだということをはわかっていた。
――数時間前、彼が差し出してくれた手を自ら離してしまった自分。
これはきっと、最後のチャンスだ。
今、イオスの手のひらは、信じられないほど無防備にの目の前にある。
あとひとつ必要なのは、ほんの少しのの勇気。
すう、と息を吸い込んで。はぎゅっと目をつぶった。
◆◆◆
シャムロックへの嫉妬を露にしてしまい、袋小路に追いこまれてしまったイオスはひとり自己嫌悪に肩を落とした。
あまりの格好悪さに、もうの顔を振り返る勇気さえ出なかった。
……花のことも。さらりと流してやればよかったのに、どうして上手くいかないのだろう。
けれど、一度芽生えてしまった感情を簡単に収められるほどイオスは大人になりきれていなかった。
聖女一行と接触してしまったことはもういい。不可抗力だと思うことにする。
でも、があの男と話すのだけは――どうしても我慢ならないのだ。
気持ちがコントロール出来ない。
あげくの果てにに当たってしまったりして、自分はこんなにも未熟だったのかとイオスは嘆かわしさのあまり今すぐここから消え去りたい衝動に駆られた。
きっと、さぞとまどっているのだろう、黙ったままのの息をのむ気配が気になって仕方がなくて。
でも、いつまでもこうして突っ立っているわけにもいかない。
どうすればこの状況を打破できるのかと頭を抱えていたイオスは、突然指先にやわらかなぬくもりを感じて、驚いて己の手元を凝視した。
そこに信じられないものを見つけて、さらに驚く。
「…………?」
いつの間にか横に来ていたが、ふるえる手でイオスの指をきゅっとつかんでいた。
――何ということだろう。あのが、自らイオスと手をつなごうとしていた。
(……なんで)
突然のの行動に今度はイオスが目を瞬く番だった。
意味が解らない。
だが、どうして、と言いかけて、はたと気付く。
見下ろした先の少女は、顔を真っ赤に染めて、恥ずかしさのあまり今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。
それでも、泣かずに、いっしょうけんめいイオスの手を辿る。彼女が精一杯の勇気を振り絞っているのだとイオスにもわかった。
――シャムロックに花をあげてしまったことを諌めたイオスに対する、これが、の答えだった。
彼女は、イオスの手を選んだのだ。
ごめんなさいの言葉なんかより。それは今の二人に何より必要なもの。
怯え否定するだけだった彼女が初めて見せた、彼への想い。
この瞬間。確かに、二人の間でどうしても越えられなかったあの境界線が、消えた。
「……手。
つなぐの、嫌なんじゃなかったのか」
さっきは振り払ったくせにと、まるで突き放すような物言いをするイオスに、はなけなしの勇気を挫かれそうになる。
反射的に手をひっこめかけて。けれどは、くちびるを引き結ぶと勢いよく首を横に振った。
「……い、今、は。
わ、……わたしが、つなぎたいから、……つないでるん、ですっ……!」
緊張のあまりの声が裏返っている。
急に肩の力が抜けたイオスは、何だか可笑しくなってしまった。
ためらいがちに指をつかんでいた小さな手のひらをイオスの大きな手が握り返す。
そんなんじゃ足りないとばかり、イオスが手のつなぎ方を先刻が拒んだあの指と指をからませるものに変えても、は一瞬ぴくんと背筋をふるわせただけで、もう振り払おうとはしなかった。
「……恋人同士じゃなくても、つないでもいいのか?」
「――っ!」
ただでさえいっぱいいっぱいなのに、いつまでも意地悪な質問を繰り返すイオスに、とうとう耐え切れなくなったがうつむかせていた顔を上げた。
充血した瞳から、さまざまな想いがこめられた透明な涙がひとすじこぼれおちた。
「だったらっ……!
イオスさんこそ、恋人の花だってわかってて、どうしてこれを私にっ……!」
少女の耳元で揺れる大輪の花。
甘くせつない香りを纏いながら、濡れて光る黒曜の瞳が、ただひたむきにイオスだけを映している。
――思わず、好きだ、と言いかけて。イオスは、すい寄せられるように喉元まで出掛かっていた言葉をかろうじて飲み込んだ。
代わりに、つないだ手にぎゅっと力をこめる。
ああ、とイオスは心の中で嘆息した。
この小さな手のひらが愛しくて愛しくてどうしようもない。
想いが今にも溢れ出しそうで、もう限界だった。
「……ごめん、な」
空いている方の手でそっと少女の涙を拭ってやる。
おとなしくイオスのなすがままに任せながら、はうんとうなずいた。
「……イオスさん」
「……ん?」
恥ずかしそうに頬を染めて。けれどは、まっすぐイオスを見つめて言った。
「もういちど……。
一緒に、お祭、見てくれますか……?」
まだ少しふるえている少女の声。
つないだ手のひらにぎゅっと力をこめて。イオスはにっこりと笑ってやった。
「――当たり前じゃないか。
まだまだこれから、だろう?」
「――っ、……はい……!」
イオスの答えに、の顔が花のようにほころんでゆく。
目と目を合わせて、二人はどちらからともなくくすくすと笑い合う。お互いの笑顔を見ていたら、何だかものすごく幸せな気持ちでいっぱいになった。
頑なだった心が雪解けの氷のようにゆるゆると溶かされてゆく。
ただ手をつないだだけなのに、こんなにも気持ちが伝わるものだろうか。
――こんな簡単なことなのに。どうして今まで、素直になれなかったのだろう。
つまらない諍いで失った時間が惜しくて、二人は再び祭の喧騒へと向かって歩き出した。
「……」
ふいに名前を呼ばれ、がはい? とイオスを仰ぐ。
ゆっくりと石畳を踏みしめながら、まっすぐ前を向いたまま、イオスが言った。
「――もう、絶対に、離さないからな」
絶対の決意をこめて告げられた言葉。
返事の代わりに、もイオスの手を強くつよく握り返した。