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「ふ……ふられた? ……君が?」 「はい」 あまりに突拍子もない少女の告白に、イオスは事態を飲み込むまでにかなりの時間を要した。 ふらつく足を叱咤して、何とか意識を保つのが精一杯だった。 「じ、自分から、告白したのか? ……君が?」 「はい、そうなんです」 ――何ということだろう。 イオスは思わず額に手をあて天を仰いだ。 この世界に来る前に彼女が出逢ったという絶望。 死や事故などの血塗られた類を想像していたイオスは、その点に関してだけは安堵する。しかし、即座に今度はとてつもない混乱の海へと突き落とされた。 さすがに。……こればっかりは。考えたこともなかった。 まさか――失恋直後だったなんて――……。 正直な所、イオスは日頃の初心(うぶ)すぎる反応などからは恋愛経験がないのかもしれないとまで思っていた。 だが、そんなイオスの勝手な予想はものの見事に打ち砕かれたのだ。 しかも――よりにもよって、彼女の方から告白したなどという衝撃的なおまけ付きで。 イオスは、改めて横にいる少女を見やる。 ――このが。イオスがちょっとからかっただけで頬を真っ赤に染めてしまうようなこの子が。自分から進んで誰かに想いを告げたなどと――イオスにはとても信じられなかった。 けれど、彼女はこれが真実なのだと言う。 「あー。え、ええ、と……。 そ、それは……た、大変だった、な……」 しどろもどろになりながら相槌を打つイオスに、はえへへとばつが悪そうに肩をすくめてみせた。 「……はい。 ふられちゃって、泣きながらその人のところから走って逃げて……。 そうしたらね、イオスさんの声が聞こえて――気がついたらリィンバウムに来ていたんです」 「そう……だったのか……」 「はい」 少女の説明が、どこか遠くの話し声のように聞こえる。 イオスは未だにショックから立ち直れない。 急に恥ずかしくなってしまったは、唖然としているイオスの手からするりと己の手のひらを引き抜いて、一度くるりとイオスに背を向けた。 次に、彼女は妙にあっけらかんとした笑顔で振り返った。 「……でもね、私、このことではイオスさんにすごく感謝してるんですよ? おかげ様で失恋にひたる余裕もなかったですし……あ、い、嫌味とかじゃないですからね!? その……本当に、もしイオスさんに喚んでもらえなかったらね、私、きっと落ち込んだまま永遠に立ち直れなかったから――……」 屈託ない笑顔だけはそのままに。少女の瞳は遥か遠くの過去を映し出す。 そこにいたのは……満たされないと泣く寂しい自分の残像。 ――どれほど願ってもが望むものは与えてくれなかったあの世界で。あの先輩への恋心は、少女の最後の糧だった。 だから、それすら失いあとは朽ちるのみだった筈の自分が今こうして笑っていられるのは、他でもない、イオスのおかげなのだ。 さまざまな想いを込めて、は目の前にいる彼に対し、ありがとうございますと言ってやわらかに笑う。 まるで一瞬で成長してしまったかのように大人びた表情を見せる彼女に何と答えてよいかわからず、イオスは言葉を失った。 ――立ち止まった二人の脇を、何人もの人々が通り過ぎてゆく。 イオスの沈黙を別の意味にとらえたの口許から笑みが消える。 祭の灯りを映す黒い瞳がふと陰りを帯びた。 そこに浮かぶのは一抹の後悔。 「――ごめんなさい。 せっかくイオスさんが心配してくれていたのに、辛かったのがこんなことだなんて……やっぱり呆れちゃいますよね……」 「ち、違う! そんなことはない……!」 自嘲気味に唇を噛み視線を落としたに、我に返ったイオスは慌ててかぶりを振った。 しっかりしろとばかり一度ぺちりと己の頬を叩き、イオスはゆっくりと深呼吸をする。ようやく気持ちを整えた彼は、改めてに向き直った。 「呆れたりしないよ。……呆れるもんか。 君が辛い思いをしたのに呆れるなんて、そんなことあるわけないだろう」 まっすぐを見つめてきっぱりと言い切ったイオスに、面食らったはしばし目を瞬く。 やがて、少女の頬が安堵と喜びで淡く染まった。 「……ありがとう、ございます…・・・」 そう言って恥らいながらも微笑むの横顔はイオスがはっとするほど美しくて。 しばらくの間、イオスはから視線を離すことが出来なかった。 これほどの娘がかなえられなかった恋があるなんて――本当に、信じられない。 ――はあ、と長く息を吐き出して。イオスがぽつりとつぶやいた。 「……なあ、。 一体どんな奴だったんだ? その……君を袖にした男って」 「え?」 思いがけない質問にがきょとんとした。 「え、ええと……学校の、ひとつ年上の先輩でした。 すごくかっこいいひとで、優しくて、誰からも好かれてて……」 今はもう懐かしいだけの初恋の日々を思い出しながら、は嘆息した。 過去を振り返ることは、愚かな自分を思い出すことでもある。 「……私がね、馬鹿だったんです。 ちょっと優しくされただけで、浮かれて舞い上がっちゃって。もしかしたら好かれてるんじゃないかって勘違いしちゃって、告白なんかしちゃって」 茜差す廊下。好きですと告げた時に見た、優しかった先輩が初めて見せた歪んだ顔。心底困っていたあの表情がよみがえって、目の周りが熱くなった。 受け止めて貰えなかったという現実。ずっと忘れていたかなしみに、鼻の奥がつんとする。 「ほんとに、馬鹿なんです、私。 私なんか……好きになってもらえるわけなかったのに……」 「――それ、やめろ」 苦い初恋の記憶に少し泣きそうになっていたは、突然話を遮ったイオスの声に驚いて顔を上げた。 何故だろう、イオスがとても怖い顔をしてを見下ろしていた。 「その、私なんかっていうの、やめろ。 ……は何も悪くないじゃないか」 怒ったように言ってイオスは唇をとがらせる。 どうしてイオスがそんなことを言い出すのかわからず、は狼狽した。 おろおろする少女を横目で見やり、イオスはぷいとそっぽを向いた。 「君をふるなんて。 ――その男は、世界一の大馬鹿者だ」 から視線をそらしたまま、イオスがつぶやいた。 普段だったら思わずすくみあがってしまうような、とてもとても不機嫌な声音。だが、イオスの言葉は恐怖ではなく甘い驚きとなっての耳を震わせた。 「イオスさん……」 どくん、と心臓が跳ねる。 「……僕だったら」 息が、つまった。 「僕だったら、絶対に――……」 二人の視線が絡まりあう。 ――だが、イオスはその先を続けることはなく、代わりにぎゅっとの手を握りしめた。 茨のような緊張感からいきなり解放されて、変化についていけずの意識が遠のきそうになる。 「……そろそろ花火が始まる。 ここじゃ良く見えない……少し、歩こう」 「……はい……」 気がつけば、辺りの人間は皆花火が花火がと興奮もあらわに場所取りにやっきになっている。のんびりしているのは自分達だけだ。 そんな喧騒の中でさえ、はもはや甘い夢の迷宮に迷い込んだまま抜け出せなくなっている自分を感じていた。 ――イオスの言葉の意味が知りたくて、ただ、眩暈がした。 ◆◆◆ 祭の夜空に花火が咲く。 遠く水平線に揺れる船のあかり。水面に映る七色のひかり。 海に面した桟橋の上で輝く花火を見上げながら、はほう、とため息をついた。 大地に響くドォン、という打ち上げ音。頭上に弾ける炎。人々の歓声。 頬を撫でるなまあたたかい風も何もかも、全てがどこか浮世離れしていて、現実と夢との境界が曖昧な、ふわふわとした空気に包まれているような気がした。 再びため息をもらした少女をイオスがちらりと見た。 「どうした?」 「あ、……いえ……。花火、きれいだなあって」 「ああ。 ……そういえば、君の世界にも花火はあった?」 「はい。ありましたよ。やっぱりこんな風に、夏のお祭で、よく」 少女の言葉に、イオスはふうん、と意味ありげにうなづいた。 「お祭で、ね……。 じゃあ、その男と一緒にこんな風に花火を見たことも?」 ――その男とは、もちろん件の「先輩」を指しているのだという事くらい、いくら鈍いにでも理解出来た。 意地悪なことを聞く彼に、少女はちょっとむくれて首を横に振る。 「いいえ。一度もなかったです。 ……だいたい、そんな一緒に遊びに行くような関係でもなかったですから……」 「……へえ」 「……なん、ですか?」 明らかにまだ何か言いたそうな瞳をしているイオスに、気まずそうに顔を赤らめたが先を促す。 やおら真剣な表情を浮かべて、イオスは少女の瞳をまっすぐ見つめ返した。 「。 ――君はまだ、今でもそいつのことが好きなのか……?」 「ちがいます」 イオスが驚くほどにはっきりと、はすぐに彼の問いを否定した。僅かな隙もなく。 だが、ワンテンポ遅れてとてつもない恥ずかしさが少女を襲い、は瞳をそらす。 ……ひたむきなイオスの視線が、痛かった。 「……どうして」 橋の欄干に置いた己の手を、はぎゅっと握りしめた。 「どうして、そんなことを聞くんですか」 イオスの真意が、わからない。 握った少女の手が無意識のうちに震え出す。その手のひらに、ふわりとイオスの手が重なった。 「……さあ。どうしてかなあ……」 おだやかすぎる口調でうそぶきながら、イオスは重ねた手に力を込めた。 伝わってくるぬくもりに、今度こその目の端に涙が滲む。 (……ずるい) こんなの。――答えを言っているようなものではないか。 けれど、確かな言葉ではないから。気持ちばかりがふくらんで、もてあましてしまう。 こんなことばかりを繰り返して、彼は一体、自分にどうしろと言うのだろう。 必死に感情を抑えてきた枷も、もう、限界。呼吸をするのもままならないほどにせつなくて、今にも狂ってしまいそうだった。 ――彼に伝えたいことがある。 言ってしまえば楽になれるのだろうか。 言ってしまった後悔を告白したばかりなのに? でも……。 ――苦しい。助けて。 ぼんやりと熱に冒された頭では善し悪しの判別がつかない。もうこの想いを自分ひとりで抱えることが出来なくて、何も考えられないまま、ただ解放を求めての喉が喘いだ。 「……イオスさん」 「……何?」 「……あのね。 イオスさんはさっき、ひとつだけ間違ったことを言いました」 「間違ったこと?」 意外な言葉に、イオスはおや、と綺麗な柳眉を上げる。 そんな些細な表情の変化さえ、の胸をしめつけるのにじゅうぶんだった。 「さっき……。私がね、元の世界に帰りたいに決まってるって言ったでしょう? ――そんなこと、ないんです」 「……帰りたく、ないのか?」 自分で口にしておきながらイオスの問い返しに答える術もなく、少女は途方に暮れてしまった。 ――それは、がずっとひとりで抱えてきたどうしようもない心の矛盾。 ……本当はもう、答えがでているような気もした。 けれど、それを選ぶことが許されるのかさえわからず、少女を袋小路に追いやる選択肢。 ――元の世界と今の世界。 自分が本当に望んでいる場所は――……? 「もちろん、自分の世界が懐かしくない訳じゃないんです。……でも」 「……でも?」 少女の手のひらを覆う手にほんのわずか力を込めて、イオスが先を促す。 ごくり、との喉が鳴った。 「私……。 この世界に来て、今日のお祭や花火や、イオスさんと一緒にたくさんの思い出が出来て、それがどんどん、どんどん増えていって、も――元の世界より大切なものが、出来て、しまって」 自ら紡いだ言葉にははっとして口許に手を当てた。 もうずいぶんと長い間、否定も肯定も出来なかった感情。それをようやく自覚する。 (――ああ) 天秤はついに傾いたのだ。 かろうじて保っていた故郷への想い。帰るという道が、今、音を立てて崩れていくのが――わかった。 「だ、だからね……。 もう、自分でもどうしたらいいのかわからないんです」 泣き叫びたいほどの激情がの中に溢れ出した。 想いが、こぼれる――……。 「でも、私……わたしは、本当はずっとこのまま ――イオスさんと、一緒に――……」 ――言ってしまった。 もう後戻りは出来ない。 ぐらりと世界が揺れる。もはや瞳をあけていることさえ辛くて、少女は空いた方の手で顔を覆い隠そうとして――その手をとらえられた。 自ら瞳を塞ぐことは許されず。けれど紗の降りた視界。 目が見えなくなった次の瞬間、唇に乾いたやわらかな感触が触れた。 花火の音も。人々のさざめきも。全ての音が――消えた。 「……どうして……」 重ねられた唇が離れる。音が戻る。 目が合って。の瞳から、とうとう一筋の涙がこぼれおちた。 ……わからなかった。 「どうして、こんなことを、するんですか」 触れる唇の意味がわからない。 彼の言葉の意味がわからない。 イオスの想いがわからなくて、ただ、かなしかった。 「――どうしてだと、思う?」 イオスの紫玉の瞳いっぱいに、泣き顔のが映っている。 少女の頬を伝う涙をそっと指でぬぐって、イオスはじっとを見つめた。もイオスをまっすぐに見つめ返す。 お互いの瞳に映るお互いの姿さえ離したくないと願う。心の奥底が、確かに触れ合っていた。 ――自分達は、同じものを抱いているのだと――確証する。 イオスの瞳が今日二度目になる真剣な色を宿す。 唇が、動いた。 「僕は、君が――……」 その時、イオスの背後でひときわ大きな花火があがった。 夜空を彩る夏の幻に、人々の歓声が夏の夜空にこだまして耳を満たす。他には何も聞こえなくなる。 ――聴覚が戻った時、の耳にイオスの声は残っていなかった。 目の前にあるイオスの唇はもう閉ざされていて、動かない。 「……ま、待ってください……! き、聞こえなかったの。お願い、もう一度――……っ!」 あの瞬間、彼の唇は確かに言葉を紡いでいた。動いていた。 花火と歓声にかき消されてしまったそれを知りたくて、は涙の滲む瞳でイオスに訴える。 必死に哀願する少女を切なげに顔をゆがませて見下ろしていたイオスは、ややあってゆるくかぶりを振った。 「……そろそろ宿に戻る時間だ」 「イ……イオスさん……!」 無情な彼の言葉にが追いすがる。 けれど、イオスはただ静かに瞳を伏せた。 「……戻ろう。 祭は、おしまいだ」 再び背後で花火があがる。 逆光でイオスの表情は見えない。 ――背中に響く花火の音が、にはまるで夢の終わりを告げる鐘の音のように聞こえた。 夏の終わりに、少女はただ、力なくうなづくことしか出来なかった。 ◆◆◆ 宿への道を、ふたり手をつないだまま無言で歩いた。 やがて見覚えのある宿屋の建物が見えてきたところで、どちらからともなく歩みがにぶり、足の動きが止まる。 「……帰ってきたな」 「……そうですね」 それは、夢のような一日が終わってしまったことを意味する。 ついに、片時も離さずつながれていたふたりの手のひらがほどかれた。 彼女を置いて。イオスが先に一歩、前へと踏み出す。 「――っ!」 だが、イオスの背中を見た瞬間、の全身をどうしようもない激情が貫いた。 「い、……いや、です。かえりたくない!」 「…………?」 立ち止まったまま動こうとしないを、初めて耳にする彼女のわがままに驚いたイオスが振り返る。 誰もいない道の真ん中で、ぽろぽろと涙をこぼしながら少女は子供のようにいやいやと首を横に振った。 「このままなんていやです……! お願いですイオスさん、さっき、何て言ったのか教えて下さい! じゃなきゃ、わたし、わた……し……っ!」 あふれる涙をぬぐうこともせず、はまっすぐにイオスを見上げる。 こんなせつない気持ちのまま夢からさめてしまうなんてやはり耐えられなかった。 どうしても、どうしても今夜、あの時のイオスの言葉が知りたい――……! 涙でイオスの姿が歪む。月明かりを背に、永遠にもとれる時間を必死の思いで立ち尽くしていたは、いきなりものすごい力で抱きすくめられた。 そのまま建物と建物の間、狭い裏路地へと引きずり込まれる。 「や、イ、イオスさ――んっ……!」 一体何が起こったのかわからないまま、煉瓦の壁へと身体を押し付けられて。もがく暇もなく乱暴に唇を奪われた。 反射的に逃げようとした顎をつかまれて、空気を求めて一瞬喘いだ口には強引に舌をねじこまれ、初めてのそれにの膝が震えた。 まるで感情をぶつけるように。華奢な身体を無理矢理押さえつけて、貪るように何度も何度も深いくちづけが繰り返される。 ――赤く濡れた唇がようやく解放された時、はもう言葉を発する気力もなく、ただ呆然と目の前にいるイオスをその瞳に映すことしか出来なかった。 そんな彼女を静かに見下ろして、イオスがささやいた。 「……君が望む言葉。 それが、答えだよ」 動けないでいるにそれだけ告げると、イオスはくるりと踵を返す。 はっと意識を取り戻したは、そのままひとり去ろうとしている背中に向かって叫んだ。 「ま、待って! そんな、そんなのっ……!」 ずるい、と言おうとした時、イオスがぴたりと足の動きを止める。 肩越しに一度だけを振り返った彼は、すっと瞳を細めて――微笑った。 「同じ気持ちだろう? ――僕と、君は」 そう言って、イオスはまたに背を向け、そのまま宿へと去ってゆく。 「――っ……!」 あまりのことに、身体を支えていられなくなったはずるりとその場に崩れ落ちた。 同じ気持ち。 同じ、気持ち――……! 石畳にしゃがみこんだまま、は震える指先で唇へと触れる。 まだイオスの余韻が残る熱い唇から広がる甘くせつない疼きに、少女は己の身体を抱きしめた。 今日一日の出来事が走馬灯のようにの頭の中を駆け抜ける。 ――選んでしまった道。もう、後戻りは出来ない。 港町の片隅で、はひとり空を見上げる。 屋根と屋根の隙間から覗く月。 最後の花火が、夏の夜空に溶けて――消えた。 第16夜 END |