「アルさん、カイトさん、夜勤お疲れ様です……って、あれ!?」
晩夏のデグレアの夜。頬を撫でる風はすでに秋のつめたさを乗せている。
夜勤――夜の見回り警備の仕事に就いている馴染みの旅団員達に差し入れを持ってきたは、見張り台にいた思わぬ人物の姿に黒い瞳を瞬いた。
「あれ、ちゃん」
「――?」
少女の来訪を迎えた声は。当番だと聞かされていた旅団員と、もうひとり――こちらも少し驚いた表情を浮かべている、イオスのものだった。
幕間 かげふみ
「アルのやつ、今朝から腹壊しててさ。イオス隊長が代わってくれたんだ」
「まったく、上司に代打をさせるなんていいご身分だよ」
「えっ!? でも、お腹壊したって……アルさん大丈夫なんですか?」
「ああ、平気だよ。単に腹出して寝てたせいだし、ちゃんとオーレイヴ先生にも診てもらったしね」
そうですか、と頷きながら、はちらりとイオスを見る。
顔色を窺うだけのつもりだったのに思い切り目が合ってしまって、少女は慌てて視線を逸らした。
――齢も近く、日頃から特に仲の良い旅団員二人、アルとカイトが夜の警備任務に就くと聞いたは、差し入れにとお茶と焼き菓子を持って見張り台を訪ねたのだが、イオスにはち合わせするというふい打ちに、跳ね上がる鼓動を悟られないよう平静を装うのが精一杯だった。
――あの夏祭りの夜から何日か経って。夢から醒めた少女に残されたのは、気の遠くなるような混乱と戸惑いだった。
イオスはおそらく、の想いに対して最高に幸せな答えを用意してくれている。そのことはもはや間違いないのだろうが、とはいえ彼からきちんとした言葉をもらった訳ではない。
花火にかき消されたイオスの言葉――。あの瞬間から、の時間は宙ぶらりんの状態で止まってしまっていた。
その後もありとあらゆる面でイオスを意識してしまう一方で、いざデグレアに戻ってみれば要職にあるイオスは日々忙しく、また周囲の目もあり、とてもあの夜のような雰囲気になる機会などなかった。
まるで、ようやく開きかけた扉が目の前で再び閉ざされてしまったような感覚に襲われながら、一体彼とどう接していいのかさえわからず、少女はただ途方に暮れる日々を送っていたのだ。
だから――こういう予想外の遭遇は、どうしようもなく――困る。
とてもじゃないが、イオスの顔をまともに見ることなど出来なかった。
「……あ、あの。冷めないうちに、お茶、どうぞ」
おっかなびっくりといった様子のから勧められたお茶のカップを受け取りながら、どうあっても目を合わせようとしない少女の態度にイオスはそっとため息をつく。
熱いお茶を一口すすってから、イオスは横にいる部下の名を呼んだ。
「――カイト。少し休憩にしよう」
「わかりました。
じゃあ、俺はこれを階下(した)の奴らにおすそ分けしてきますね。
ちゃん、ありがとう。……どうぞ、ごゆっくり」
イオス直属の部下であり、察しのいい若き旅団員・カイトはそう言ってマグカップとが持ってきたクッキーを手に見張り台を後にする。
突然イオスと二人きりにされてしまい、が目に見えてうろたえた。
……今彼と顔を合わせても、何を話したらいいのかなんてわからなかった。
「あ……お、お邪魔になっちゃいますよねっ。
それじゃあ、私、戻りま――……」
「ちょっと待った」
上ずった声で退出を口にしたをイオスが呼び止める。
逃げようとした手を捉まれて、は金縛りにあったかのようにそこから動けなくなってしまった。
「……もう少し、一緒にいたいんだけど」
駄目かな? と、イオスの紫水晶の瞳が少女をすがるように見つめる。
恋する人の懇願を断る術などが持ち合わせているはずもなく……。少女は、頷く代わりにちょっと泣き出しそうな表情を浮かべて瞳を伏せた。
◆◆◆
城門を見下ろせる位置にある見張り台の上。中庭に揺れる篝火を眺めながら、とイオスは無言でお茶をすすった。
雪国の短い夏は終わり、デグレアには中央エルバレスタ地方で最も早く秋の使いが顔を覗かせ始めている。
昼間はまだ少し汗ばむような陽気だというのに、夜風はすでに肌寒さを感じさせる程だった。
ひゅう、と吹いた強い風に、は羽織ってきた薄物のショールを胸の前に手繰り寄せる。思いがけない寒さに一度だけ全身を震わせた少女の肩に、やおらふわりと上着がかけられた。
「寒いのか? ……大丈夫?」
「あ……。は、はい。大丈夫です。
ありがとう、ございます……」
軍服の上着をに着せながら心配そうに顔を覗き込むイオスに、は顔を赤らめながら頷いた。
肩に触れたイオスの手は、そのまま離れるかと思いきや、戯れに風に揺れる少女の黒髪を撫でる。それはごく自然な、もう何度も繰り返されてきたいつもの触れ合いだったのだが、緊張しきっていたの身体は過剰に反応し、寒さを感じた時よりもさらに大きくびくりと震えた。
ぎゅっと目をつぶり肩をすくめてしまった少女に、イオスは参ったなあと再びため息をついた。
「……そう、露骨に怯えられても困るんだけどな……」
「あ、その、ごめんなさ……」
「……まあ、僕のせい……か」
はっとしたように顔をあげ、いつもの条件反射で謝りかけたの言葉を遮って、イオスは自嘲気味に口の端を上げた。
――が戸惑うのも無理はないと思ったのだ。
ファナンの夜の出来事がイオスの脳裏に蘇る。あんな中途半端な状態のまま放っておかれたら、誰だって困るだろう。……当たり前だ。
自分が、この少女に対してとてもずるいことをしている自覚があった。
迷いを振り切るかのようにお茶を一気に飲み干す。空になったカップをテーブル代わりの木の台の上に置くと、イオスは真剣な顔をしてに向き直った。
「……。
あと少しだけ、時間をくれないか?」
「……え?」
一体彼は何を言い出すのだろうと。突然のことに驚きの色を浮かべるの瞳をまっすぐに見つめてイオスが言った。
「君も知っていると思うけど、明日からの議会で僕達旅団のこれからが決まるんだ」
――デグレアの政治を執り行う中枢機関である元老院議会。イオスの言葉通り、明日からの議会では軍部の今後の方針が主たる議題として掲げられていた。
議会に召集される立場にあるルヴァイドは、その準備に追われ最近は不眠不休の日々を送っている。
「あくまで予想なんだが……。
今回の議会で、おそらく聖女捕獲任務の正式な中止が決定される」
とてつもなく大きな意味を持つイオスの台詞に、ははっと息を呑んだ。
――聖女――不思議な癒しの力を持つ、レルム出身の少女――アメル。
トライドラ戦を挟んだため凍結状態となっていたが、本来黒の旅団は彼女の捕獲が第一の任務だった。
「もともと、聖女の捕獲は彼女の力を召喚術に応用してトライドラ侵攻を有利に進めたいという目的で下された任務だったんだ。
でも、結局それを待たずに戦いが始まって、結果としては―― 一応、議会が望む勝利を収めた訳だから。
結局のところ、もう聖王国侵犯のリスクを冒してまであの娘を求める理由がなくなってしまったんだ」
には言い難い部分もあり、イオスの声の調子は次第に落ちてゆく。
アメジストの瞳がそっと少女から外され、遥か彼方に広がる闇夜を見つめた。
「……こうなってしまうと……。
正直、僕達がやってきたことは何だったんだろうって思うけどな……」
聖女捕獲任務のせいでイオス達黒の旅団が背負うことになった心の闇はあまりに複雑だった。
勿論、やらなくてすむのならやりたくはない任務だ。だが、命令の為に自分達が犯した罪を考えるとどうにもやりきれない思いで一杯だった。
静かに本音を零すイオスの横顔があまりに寂しそうで、の胸が締め付けられた。
だが、今の彼にかけるべき言葉が見つからなくて、イオスの力になれない自分が悔しくて、はちいさく唇を噛んだ。
そのまま口を閉ざし、しばらくの間あらぬ方向を見つめていたイオスだったが、やがてに視線を戻した彼は、先程までとは打って変わってまるで憑き物が落ちたかのような晴れやかな表情を浮かべていた。
「――色々あるけれど。
でも、聖女捕獲が中止になれば、僕達はようやく理不尽な任務から解放される」
足元に重く絡みつく未練を断ち切るかのように、イオスは力強く言った。
後押しするようにも頷く。
――旅団の過去は消えない。それでも、任務が終わるのならば、これ以上の罪に苛まれることはないのだ。
「あと少しで区切りを迎えられるから……。
そうしたら、……今度こそ、ちゃんと、言うから」
「……あ……」
ひたむきなイオスの瞳が少し熱を帯びたように揺れる。
その眼差しから、彼の言葉の意味を感じ取って、の頬が淡く染まった。
――花火の夜に溶けてしまったあの言葉。
が泣いて望んだあの時の言葉を、今度こそイオスはにくれると約束してくれたのだ。
「あと少し……待っててくれるか?」
懇願するように切なげな表情を浮かべてイオスが問う。
眩暈を覚えながら、はこくんと頷いた。
「……わ、私……。
私、もね。その時に……イオスさんに言いたいことが、あります」
やっとの思いで告げた言葉に、イオスはそうか、と柔らかく微笑んだ。
「……うん。
……楽しみに、してる」
「……はい……」
梢が風に揺れる音しか聞こえない、静かな静かな初秋の夜。
細い月明かりとランタンの灯りに淡く照らされる互いの輪郭を愛おしく見つめながら、二人はそっと微笑みあった。
――幸せの予感が小さな恋人達を優しく包み込む。
「……」
「なんですか?」
「少しだけ……。
抱きしめてもいいか?」
思いがけない申し出に、の胸がひときわ大きく跳ね上がる。
けれどもう、彼女に彼の腕を拒む理由などどこにもなかった。
真っ赤な顔をしてうん、と頷く少女に、イオスはそれは嬉しそうに瞳を細めた。
「……ありがとう」
言葉とともに、イオスの腕がまるでつめたい風から護ってくれるかのようにの身体を引き寄せる。
暖かいイオスの胸に抱かれて、彼の鼓動を聞きながら、はうっとりと瞳を閉じた。
信じられないほどの幸せが、今の目の前にあった。
生まれて初めて恋が叶う最高の瞬間が約束されているのだ。
嬉しくて、幸せで。もっとずっとそばにいたくて……はそっと、彼の背中に自分の手を回してみる。
――やがて、頭のてっぺんに、かすめるように唇が触れていった。
◆◆◆
むせかえるような血の香りの中。余人には見えぬ闇の世界に彼等はいた。
「レイムさまぁ」
踊るような足取りで床に広がった血の海を飛び越えたビーニャが、甘えた声を発して主人たる悪魔の胸へとしなだれかかった。
「アタシ、もっとオイシイモノが食べたいなぁ」
「……おやおや、困った子ですねえ。
ビーニャは今の食事が不満なのですか?」
呆れたように笑いながらビーニャのくせっ毛を撫で付けるレイムを、だあってえ、とビーニャが媚びるように見上げた。
「せっかくのご馳走を前に、一体いつまであんなのでガマンしなきゃいけないのかなあって、嫌になっちゃったんだもん」
そう言って、ビーニャはむう、と唇を尖らせる。
――部屋の中央、血の海の中には、たった今彼女が食べ散らかした肉片と、断末魔の叫びに口を大きく開けたままこと切れている若い男の生首が転がっていた。
「ねぇレイムさま。
いつになったらね、イオスちゃん――食べてもいいの?」
可愛らしく小首をかしげておねだりをする部下を見るレイムの瞳が愉しそうに細められた。
「ビーニャは本当にイオスが好きですねえ」
「だってキレイだし、カワイイんだもん。
イオスちゃんは、アタシが最初に見つけた、アタシのとっておきのオモチャなのに……」
ここで、ビーニャの声がすっと低くなった。
血色の瞳が怪しく光る。
「……なのに、今はいっつもあの女がべったりくっついてて……嫌になっちゃう」
イオスの横にはべる人間の少女を思い出し、ビーニャはいやいやと首を横に振る。
何の力もないただの人間のくせに、悪魔である自分に刃向かった愚かな娘。あの女がこの世に存在しているというだけで虫唾が走った。
「……早くアイツを片付けなきゃ、イオスちゃんにあのオンナの匂いがついちゃうじゃない」
ぞっとするような表情を浮かべてビーニャはぽつりと呟いた。
――憎いニクイ。憎くてたまらない。
アレ ハ ジブンダケノ モノダ――……!
「――大丈夫ですよ。あと少しの辛抱ですから」
侵入者に毛を逆立てる猫のように怒りを露にするビーニャに、レイムは優しくなだめるように言い聞かせた。
「もう少しです。
準備が整った暁には……とっておきの、最高の状態でイオスを貴女にあげますよ」
「本当?」
「私が貴女に嘘をついたことがありましたか、ビーニャ?」
「ううん、ない!」
きゃあっと手を叩いて喜び、ビーニャはレイムの首へと抱きつく。
はしゃいでレイムの身体のあちこちに唇を落とす部下を好きにさせながら、レイムはまるで夢見るような表情を浮かべて天を仰いだ。
「……あと少しです。
全ては、あれをもう一度味わうためなのですよ……」
レイムの脳裏に、気の遠くなるような遠い過去の記憶が呼び起こされる。
――天使の光に身を裂かれてなお、喉を滑り落ち歓喜に魂を震わせたあの感情の味をレイムは忘れられなかった。
――極上の嘆き。それこそが悪魔の血となり肉となる。
この国と、そして彼等を使って。――自分が復活する日は近い。
長い長い屈辱の日々ももう終わる。
封印は解け、力は解き放たれる――あと少しの辛抱だ。
長年の夢が叶う日を思い浮かべ恍惚の表情を浮かべる主人を前に、傍らに控えていたガレアノとキュラーが同時に笑み崩れた。
「おいビーニャ、あの娘はワシによこせよ? 若い女の肉と悲鳴は旨いからなァ」
「全く貴方ももの好きですねえ。犯しながら食べるなんてお行儀が悪いと思いませんか」
「キャハハハ! そう言うキュラーちゃんだって、ルヴァイドちゃん鬼に変えるの楽しみなくせにィ!」
「ふふ、そうですねえ。あの男は堕とし甲斐がありますからねえ、クククククッ……!」
三者三様の愉しみに胸を躍らせる部下達を微笑ましく見つめながら、レイムの口許が裂けそうなほどにニィッと――歪んだ。
「せいぜい役に立って貰いますよ……ねぇ、イオス、さん……ハハハハハ……!」
底なしの闇の世界に悪魔達の笑い声が響く。
夜空に浮かぶ下弦の月さえ、まるで何かをあざ笑うかのような形をしてただつめたく下界を照らしていた。
Intermission END …