――嘘、と呟こうとした声は、しかし声にならなかった。
人の気配の失せた空中庭園に姿を現し少女の疑問に答えたレイムは、言葉を失い呆然とその場に立ち尽くす彼女にただ静かに首を振ってみせた。
「嘘ではありませんよ。
議会の決定で、ルヴァイドは拘束され、旅団には聖女の捕獲と一行の抹殺という命令が下されました。
イオスが隊を率いて、旅団はすでにファナン方面へと向かっています」
「……そ、んな……」
レイムから告げられた真実。イオス達がいなくなった理由。
とても現実のものとは思えなくて、の目がくらんだ。
ほんの数日前の夜、イオスは旅団を縛り付けていたこの理不尽な任務から解放されることを喜んでいたのに。優しい秋の夜空の下、幸せな未来の予感を語ってくれたばかりなのに。
何故こんなことになってしまうのだろう。
……どうして。
(イオスさん……!)
ああ、とは天を仰いだ。
残酷な命令が下され、イオスはそれを悟られないために自分をオーレイヴのもとへ預けたのだ。帰ると言った時オーレイヴがあれほど強く自分を引き止めた理由もようやく合点がいった。
行っておいでと自分を送り出した時のイオスの笑顔を思い出し、は胸が張り裂けそうな痛みに駆られた。
――あの時。イオスはすでに、命令を受け入れる覚悟を決めていたのだ。
幸せなあの約束はもう果たされない。
運命はすべて、真逆の方向へと動いてしまったのだ。
「……どうしてっ……!」
絶望のあまり立っている力を失い、はふらりと前のめりになる。
倒れかけた少女の身体をレイムの腕が支える。すみませんと呟きながらも、心ここにあらずといった表情で青ざめているを見下ろして、レイムが嘆息した。
「まるで、この世の終わりを見たかのような顔をしていますね。
――悲しいですか? 今まで優しくしてくれていたイオス達が、これから何の罪もない少女達の命を奪おうとしていることが」
「な……っ!?」
レイムの言葉にが絶句する。まるで旅団を非難するかのような物言いに、この人は一体何を言い出すのだろうと少女の瞳が大きく見開かれた。
「ええ、ええ、わかりますよ……さぞかし悲しいことでしょう。
貴女を置いて、彼等は軍人としての任務を選びました。
貴女に黙って、彼等は人殺しの道を歩もうとしています。
貴女に隠れて、皆は酷いことをしようとしているのですよ。
裏切られたと思うのも当然です。たったひとり、何も知らずに取り残されて……仲間はずれにされて、だから、貴女は悲しいのでしょう? だから――……」
「――違いますっ!」
つめたい声で心をえぐる言葉を吐き続けるレイムに、たまらずが叫んだ。
今そんな言葉は聞きたくない。混乱する頭を抱え、いやいやと少女は何度も首を横に振った。
「違います! う、裏切られたなんて思ってません!
確かに、黙って行かれたことは悲しくて悔しいですけど……でも、それはきっとイオスさん達が私のためを思ってしてくれたことなんだと思います。
だから、私が悲しいのはそのことじゃなくて、
そうではなくて……!」
「違うのですか?
……ああ、そういえば、貴女は聖女一行と少し交流があるのでしたね。
そうですね、自分の仲間によって顔見知りの者達が殺されてしまうのはとても悲しいこと――……」
「ち――違います違いますちがいます! やめて下さいっ!」
アメル達のことを持ち出すレイムをが真正面から否定した。
ビーニャと一戦交えてしまった経緯もあり、彼女達と自分が単なる敵同士ではないことを感付かれているだろうとは覚悟していたが、よりによって今この瞬間にアメル達と自分との関係を持ち出されるのは耐えられない。悲しみの理由を誤解されたくなかった。
――否。イオスがアメル達を殺そうとしているという現実に動揺しているのは事実だ。悲しみに打ちのめされているのも事実だ。
あの優しい人達が殺されてしまう。手を下すのは大好きなイオス達。あまりに酷すぎる現実を前に、少女の心はぐしゃぐしゃにかき乱されていた。
脳裏を、悪夢がよぎる。
――傷つけられ、牢に繋がれるために連れて来られるアメル。その後ろに累々と積み重なる屍は、同じ地球からやって来たことを手を取って喜び合ったレナードや、信じていると笑ってくれたモーリンにトリス、可愛いミニスやユエル達だ。
動かぬその身体から無表情に槍を引き抜くのは、返り血で赤く染まったイオス。その瞳には悲しみと諦めの影だけが宿り、あの貴石のような美しくも優しい輝きはもう二度と――……。
(――ッ!)
これから起こるであろう惨劇を前に、吐き気を覚えたは口にきつく両手をを押し当てた。
怖い怖い。こわくてたまらない。
こんなことはいけない。殺されたくないし、殺させたくない。爪痕ばかりが残るだけで、何ひとつ、誰ひとり救われない狂った任務だ。
どうしようもない焦燥感が、少女の全身を茨のように苛んだ。
助けたい、思うのはただそれだけだ。
けれど、誰を、何を一番に救いたいかと問われれば……。命の重みを天秤にかける己のあさましさを心の底から嘆きながらも、の答えはひとつに決まっていた。
アメル達のことは気になる。けれど――それでもはデグレアの人間だ。
混乱の果てに彼女の心を支配するものは、やはりイオスへの、黒の旅団への想いだった。
「た、確かに私はあの人たちと面識があります。そのことに関する言い訳はしません。
でも、その前に私はイオスさんによってここに召喚されて、デグレアに身を置いている人間です。イオスさん達のことが一番大切で、一番心配です!
だから、私が今一番悲しいのは……イオスさん達がまたあの任務を受け入れなければいけなかったということです……!」
――元老院議会の代弁者である顧問召喚師を前にして口にするにはあまりに危険な言葉だったが、それでもはこの悲しみの衝動を誰かにぶつけずにはいられなかった。
「どうしてですか?
……どうしてイオスさん達ばかりが、こんな辛い思いをしなければならないんですか……!」
ルヴァイドとゼルフィルドは捕らえられ、残されたイオス達には人殺しが命じられた。
何故この国は、彼等にばかり血の宿命を背負わせるのだろう。そこに何の意味があるというのだろうか。
「……今回の任務……。
旅団は、ちゃんと理由を説明されて、……納得して、受け入れたんですか……?」
答えなどわかりきっていることだったが、それでも一縷の望みをかけては問う。
だが、案の定顧問召喚師は瞳に複雑な色を浮かべて首を横に振ってみせた。
「理由、と言われましても……議会の命令で、国のためとしか説明のしようがありませんが。
デグレアの軍である黒の旅団にはどうあっても断る術などないですし……。それでも、こういう任務ですから……貴女と同じように、やはり彼等も決して納得はしていなかったでしょうね。
――きっと、心の中では泣いていると思いますよ。可哀想に……」
嘆息とともに告げられた、ある意味無責任とも取れるレイムの言葉に、の頭にカッと血が上る。絶望は怒りに変わり、少女の眉がつりあがった。
「――だったらっ!
そう思うのなら、どうしてレイムさんは何もしてくれないんですか!」
涙に濡れる少女の黒い瞳。その奥に、滅多に見られない激しい怒りの焔が揺らめいている。
理性の箍が外れてしまったは、ただ感情に任せて泣き叫んだ。
「め……命令を持ってくるのは、いつだってあなたじゃないですか……!
旅団はいつだってあなたの言葉に従っているんです。
レイムさんは顧問召喚師で、いつも議会に呼ばれていて、とても力のある人なんでしょう?
可哀想と思うなら、どうして止めてくれないんですか! どうして!」
烈火のごとく怒る少女とは対照的に、レイムは風のない夜の湖面のようにただ凪いだ瞳でを見つめている。
やがて、肩で息をしたはとうとう両手で顔を覆ってしまった。
どうにかしたい。けれどどうしたらいいのかわからない。己の無力さがただただ呪わしかった。
「……お願いです……こんなこと、もうやめさせて下さい……。
イオスさんを、みんなを、たすけて……」
この任務が成功してしまったら、イオスも旅団の皆も、もう今までのような明るい笑顔を見せてはくれないだろう。
絶望に心を閉ざした彼等の姿など見たくない。彼等にそんな思いをさせてはいけない。
助けて、と、少女がかすれた声で呟く。
やああって、彼女の頭上から静かにレイムの声が降り注いだ。
「……止めたいですか?」
「……え?」
レイムの問いかけに、は驚いて俯いていた顔を上げる。
顧問召喚師は、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「止めたいですか?
彼等をこの任務から救いたいですか?」
「な……何を言って……」
レイムの意図するところがわからず、少女は困惑する。
真っ直ぐに己を見つめてくるレイムの視線が何故か怖くて反射的に一歩身を引いた少女の腕を、レイムがしっかりと掴んだ。
「それはこちらの台詞です。今貴女は私に助けてと言ったばかりではないですか。
だから聞いているのです――答えて下さい。貴女は、黒の旅団を、イオスを救いたいのですか?」
の瞳を覗き込んでレイムが言う。
はっきりと言葉にして問われ、はぎゅっと唇を引き結ぶと、覚悟を決めたようにこくりと一回、頷いた。
「助けたいです。
イオスさん達に、こんな任務をさせたくありません……!」
涙の乾かぬ瞳で、それでもは挑むようにレイムを見上げる。
少女の視線を受け、しばらくの間何やら真剣な顔をして考え込んでいたレイムは、やがて顔を上げるとまるで彼女を励ますかのようにその肩に力強く両手を置いた。
「……そうです。そうですとも。
いつまでも黒の旅団にこんなことをさせてはいけないのです!」
「……え……?」
突然のレイムの言葉に、は何事かと訝しげに眉を寄せる。
そんな少女に、レイムは厳かに頷いてみせた。
「本当は、私もずっと元老院議会の命令には疑問を感じていたのですよ。
けれど、私とて――この国に、議会に取り込まれた臣下のひとりです。
貴方達から見れば私はただの悪役なのかもしれませんが……私も逆らえる立場にはなかったのですよ」
立場上、厳しいことも言いましたが……と言葉を濁して、レイムは寂しそうに微笑む。
普段のレイムからは想像もつかないような儚い微笑みに、は思わず胸をつかれた。
それ程までに悲しげな表情だった。
――顧問召喚師は、こんな顔をするような人物だっただろうか。
どこか得体の知れぬ、恐ろしいだけの存在だとばかり思っていたレイムが初めて見せた人間らしい一面に、は戸惑う。今までのことを考えるととても現のものとは思えず、自分は混乱のあまり幻覚でも見ているのではないだろうかとさえ思った。
だが、狼狽するをよそに、現実に存在するレイムの双眸は真剣そのものだった。
「貴女の言う通り、今まで私は何も出来なかった。
でも、先程の貴女の言葉で決心がつきました。
――旅団を止めましょう。もう止めさせましょう……こんなことは!」
「レ、レイムさん……?」
急なレイムの変わり身について行けず未だ困惑する少女に、レイムは再びしっかりと首を縦に振って頷いた。
「私が議会にかけあいます。皆殺しなどという命令は撤回させます」
レイムの言葉にははっと両目を見開いた。
――この人は今、何と言った?
「て、撤回って……。
でも、そんなことが……で、出来るんですか? 議会は……」
レイムの口から発せられた言葉は、が何より切望しているものだった。
けれど、いざ耳にすると、急に現実の厳しさを思い出して少女の声が震えた。
――元老院議会。議会の者に会ったことも、議会そのものを目にしたこともないには、それが一体どんな組織なのか皆目見当もつかない。けれど、あのルヴァイドも逆らえず、どんな任務さえ受け入れているその様子から、絶対の支配力と恐怖とでこの国を治めている機関であることだけは理解していた。
そんな議会がレイムの言葉ひとつでどうにかなるものなのだろうか。
けれど、少女の不安を読み取ったレイムは、心配ありませんとでも言うように笑った。
「大丈夫です。
私も、伊達に長くここの顧問召喚師をしているわけではないのですよ。
今すぐ聖女捕獲そのものを諦めさせることは無理でも、ひとまず今回の任務を止めるよう議会の老人達を説得するくらいのことは出来ます。
やってみせますよ。……私も、いつまでも旅団に手を下させるだけの臆病者ではいたくありませんから……ね」
の瞳を真っ直ぐに見つめて、レイムははっきりと宣言する。
視線をそらすことなく告げられた彼の決意を前に、頑なにを踏みとどまらせていたレイムへの猜疑心がようやくするすると溶け始めた。
レイムは、黒の旅団を、イオスを――果てはアメル達をも救うための最後の希望だ。
その彼が力を貸してくれると言っているのだ。
ゆっくりと頷き微笑むレイムの姿は頼もしくさえ思える。……もはや堕ちるしかないと思っていた奈落の底に、最後の最後でレイムが救いの手を差し伸べてくれたのだ。
突然の申し出に、正直信じ切れない部分があるのも事実だ。
けれど、この救いの手を拒絶してしまったら、もうイオス達を救う術はどこにもない。心の奥底に植えつけられた過去の恐怖にいつまでも拘っている場合ではなかった。
すう、と息を吸い込むと、は、両の拳をきつく握り締めた。
そうだ。――迷っている時間は、無い。
(今は……レイムさんを、信じるしか、ないんだ……! ううん、信じよう)
レイムを信じる。そう決意した瞬間、は急に目の前が明るくなったような気持ちになった。
閉ざされた扉が再び開かれるような、そんな錯覚を覚える。一刻も早く扉を開けその先に広がる道を辿って、皆を助けたかった。
いてもたってもいられず、はレイムに取りすがった。
「お……お願いします、レイムさん! 早く任務の中止を……!」
「わかっています。すぐに議会に進言してきます! ――ああ、でも!」
すがりつく少女の背中を撫で下ろしながら、レイムは突然悲観に暮れた声を発した。
何事かとは驚いてレイムを見上げた。
「もうファナンに出立してしまったイオス達にはどう伝えれば良いのでしょうか……!
私はすぐに議会と話し合いをしなければなりませんから、ここを離れられないですし……一体どうしたら……!」
「――っ!
わ、私が行きます! 私が行ってイオスさん達を止めてきます!」
「それは願ってもないことですが……。けれど、彼等はすでにファナンに近付いているでしょう。これから馬で追いかけても間に合うかどうか……」
「そ、そんな……」
せっかく救いの糸がもたらされても、それがイオス達に届かなくては何の意味もないのだ。
の視界が絶望のあまり再び暗転しそうになる。だが、遠のきかけた意識はレイムの声によって現実へと引き戻された。
「――ああ、ではこうしましょう!
さん、貴女に少し私の魔力をお貸しします。召喚獣を使えば間に合うかもしれない」
「えっ?
魔力、ですか……?」
「ええ。長距離移動が可能な高位召喚獣でならイオス達に追いつけるでしょう。
けれど、ただ私が呼び出したものに乗るだけでは旅団探索のための細かい制御が出来ません。
ですから、私の力を一時的に貴女に与えます。魔力が増せば、さんでも召喚獣を操ることが出来る……。状況次第ではその力を使ってイオス達の戦いを止めて下さい」
「……あ……!」
レイムの言葉にははっと身を硬くした。
勢いに任せてイオス達の下へ行くとは言ったが、レイムの言う通り、万が一旅団とアメル達との戦闘が始まっていた場合はひとりでそれを止めなければならないのだ。
両者譲れないものを背にぶつかりあう戦いは激戦となるだろう。今の自分がそこに飛び込んでいってもなす術もなくただ声を張り上げることしか出来ないであろうことは容易に想像出来た。
――剣を退かせるためには相応の力が必要だ。
「わかりました。お願いします、レイムさん。私に力を貸して下さい……!」
イオス達を助けるためなら何でもする。その一心で、は必死にレイムを見上げる。
少女の懇願を受けてレイムはゆっくりと頷く。その口の端が、ほんの僅か――愉しそうに、上がった。
「それではさん、これから貴女に私の魔力を流しますが……。そのためには貴女の名前が必要です。
――教えて頂けませんか? 貴女の本当の名を」
「……え?」
虚を突くレイムの言葉にはぱちくりとその瞳を瞬いた。
「名前って……私の名前はです。これが本当の名前ですけど……」
何を今更と怪訝そうに表情を曇らせる少女に対し、レイムはふむ、と困ったように顎に手をあて考え込んだ。
「そうですか?
ううん、弱りましたねえ……魔力をやりとりするには相手の正確な名前を道標にするのですが、どうもさんにそれが上手く出来ないのですよ。ですから、本当のお名前は違うのかと思ったのですが……。
よく考えてみて下さい。貴女を示す名前は本当にそれだけですか? 何か他に繋げるようなものは……例えば家名ですとか」
「――あっ!
そういうことなら、確かに名字が……という家の名前があります。
私の本名は――、です」
「ああ、やはりそうでしたか。
、? 、……」
の日本での名前。何度か繰り返すうち、レイムがようやく正しい発音で彼女の名を紡いだ。
「――=?」
名前が、呼ばれた。
ゆっくりと噛み締めるようにの本名を呟いたレイムの声が、ふいに沸き起こった小さなつむじ風に乗せてリィンバウムの空へと吸い込まれていく。
ようやく少女の真の名を得たレイムは――何故かとても満ち足りた笑みを浮かべていた。
「=。それが貴女の名前なのですね。
わかりました……それではさん、これから貴女に私の魔力を授けましょう。さあ、目を閉じて」
一刻も早くイオスのもとへ駆けつけたいと、その思いだけで頭がいっぱいのは、はやる気持ちを懸命に抑えて言われるがままに瞳を閉じる。
(早く、早くしなきゃ、手遅れになる前に、イオスさんを助けなきゃ、早く……!)
焦りと、そしてほんの少しの不安で、の心臓が早鐘を打つ。
やがて、ひんやりとしたレイムの手のひらと何か石のようなものが額に触れ、呪文の詠唱が始まった。
詠うようになめらかに紡がれる言葉は、には意味のわからない、とても不思議な言葉だった。
次第に高くなるレイムの声。それがいよいよ最高潮に達した時、レイムの爪がの額にほんの僅か食い込み、小さな傷を生んだ。
額に浮かんだ赤い点。ちりりとした痛みを感じる前に。
――ぷつりと音を立てての意識が途切れた。
◆◆◆
――頬に滴り落ちる水で、ようやく目を覚ました。
目隠しをされているのでここがどこなのかわからない。
つんと鼻を突く錆びた鉄の匂い。肌にまとわりつく空気がひどく重くて、息苦しい。
それがむせかえるような血臭のせいなのだと気がついた時、視界を覆っていた布が取り払われた。
取り戻した視界の先にいたものに、おぞましさのあまり悲鳴を上げる。人ではないそれは――化け物は、泣き叫ぶ自分を見て、ニタァ、と笑った。
頭を捉まれ、無理矢理身体を引きずり起こされる。頭蓋が軋む痛みに全身をばたつかせても、化け物はびくともしなかった。ただ、笑っていた。
やがて化け物の手が皮膚を破り、骨を砕き、脳髄をえぐる。噴出す血、赤く染まる視界、けたたましく響く笑い声。誰かが額に口付けている。すすっている。
……ナニ、ヲ?
びしゃりと音を立てて、目と口いっぱいに大量の血が叩きつけられた。
それが己から溢れた血なのか、誰かの血を注がれたのかさえ、もうわからなかった。
ただ、すべてが、赤く。あかく――……。
「――ああああああああアアアアアアァァ!」
最後の痛みに、は絶叫した。
◆◆◆
「――さん。……さん! しっかりして下さい!」
額に感じる針を刺したような痛みとレイムの声でははっと目を覚ました。
慌てて額に手を当てるが、そこにぬめった血の感触はない。自分の身体を見下ろしても、どこにも血の痕などなかった。
一体今のは何だったのだろうか。
(……夢……?)
赤い染みは見当たらない。だから、あれは現実の出来事ではない。
けれど、口の中にあの血の匂いが残っているような気がして、は思わず喉に手を当て身体を折った。
血の気の失せた顔をしてふらつく少女の身体をレイムがいたわるように優しく抱きとめた。
「大丈夫ですか?
いきなり大きな魔力を注がれて、身体がついていかなかったようですね」
「す、すみません……。もう、だいじょうぶ、です」
何度か深呼吸を繰り返して、はレイムから身体を離す。
まるで悪酔いでもしたかのように、気分はあまり良くない。けれど、何故か――どこか落ち着いている自分に気がついて、はわずか首をかしげた。
自分が、とてもしっかりと地に足をつけているような、どっしりとした不思議な感覚があった。風に流されかけていた凧がようやく紐で繋がれたような、奇妙な安定感が全身を包んでいる。
こんな感覚はついさっきまでなかった筈だ。これが、レイムの言う魔力の証なのだろうか。
自分の身に何が起こったのかわからず、一瞬の背筋をひやりとした汗が伝う。だが、些細な恐怖はレイムの言葉によってすぐに霧散した。
「さあ、準備は整いました。
これで召喚してみて下さい――時間がありません。さあ、早く!」
急かすように言って懐から紫のサモナイト石を取り出すと、レイムはまだ少しぼんやりとしているの手にそれをしっかりと握らせる。
手のひらに滑り込んだ固い感触に、うつろだったの焦点がはっきりと定まった。
――そうだ。悠長に構えている場合ではない。
一刻の猶予も無かった。すぐにイオスのもとへ向かわねばならない。
手渡されたサモナイト石を天に掲げる。何も言われなくても、伝わってくる魔力の気配で、そこに何が誓約されているのかわかった。
思考に何かが忍び込んでくる。それが、囁く。どうしたらいいのかが、わかる。
疑問を感じるよりも先に、の唇が動いた。
「石の盟約によりここに願う。
霊界の翼、古の霊竜よ、我が命に応えその姿を現せ――……レ……」
知らないはずの言葉が、何のよどみもなくするすると少女の声となって空気を震わせる。
無意識のうちに、の魔力では決して紡げるはずのない名前が、呼ばれた。
「レヴァティーン!」
まるで、誰かの声と重なるように。導かれるように。他の誰かの意思のように――……。
目のくらむような光の輪が弾け、紫の霧が辺りを包む。
やがて霧が晴れた時、空中庭園には、朝日の色をした双翼と宵闇の色をした身体を持つ一匹の竜が降臨していた。
――霊界サプレスの最高位召喚獣――レヴァティーン。
「……え……レ、レヴァティーン!?
嘘――わ、私が、呼んだんですか……!?」
はっと我に帰ったが、突然目の前に現れたその姿に驚愕の叫びを上げる。
本の中でしか目にしたことのなかった高位召喚獣。それをこうもあっさりと召喚してしまったことがただただ信じられなかった。
初めて見るレヴァティーンの迫力に気圧され思わず一歩後ずさってしまった少女の背中をレイムがぽんと押した。
「ええ、そうです。貴女が呼んだのですよ。
このレヴァティーンは貴女の命に従います。――さあ、どうしたいのですか?」
促され、の瞳から怯えの色が消えた。
黒曜の瞳に強い意志の光が宿る。その濡れたように輝く黒の一番奥深くに、生まれたばかりの星のような光がひとつ、くっきりと浮かび上がっていた。
―― 一滴の血のような、真紅の虹彩が。
大きなレヴァティーンの身体を振り仰いで、は声の限りに叫んだ。
「お願い、レヴァティーン!
私をイオスさん達の所へ連れて行って! 時間がないの……急いで!」
小さな主の願いを聞き届けた霊竜は、乗りなさいとでも言うようにその身を伏せる。
テテを抱きかかえたは、飛びつくようにレヴァティーンの背中に駆け上ると、最後にもう一度レイムを振り返った。
「ありがとうございます、レイムさん……!
議会の方、どうか、お願いします……!」
「任せて下さい。
旅団のことは頼みましたよ!」
「――はい!」
レヴァティーンが翼を広げ、大空へと舞い上がる。
少女を乗せて、サプレスの最高位召喚獣は彼方へと飛び去っていった。
◆◆◆
――その姿が見えなくなるまで空を見つめていたレイムの肩が小さく震え出した。
口許からはくぐもった声が漏れる。
声を押し殺して。銀の髪を風になびかせながら、レイムはひとり、哂っていた。
「……まったく。なんと、愚かな……」
愉しくてたまらないとでも言うようにくつくつと笑いながら、レイムは爪の先に着いた玉のようなひとしずくの血をぺろりと舐めた。
「ああ……また貴女はずいぶんと、味わい甲斐のある感情を……。
ふふ、また今度、たっぷりとその傷口を広げてあげましょうねえ」
ますます笑みを深めながら、レイムは至福の表情を浮かべてうっとりと呟く。
蜘蛛の糸にからめ取られた愚かな蝶。けれど、蝶は己の意思で飛び込んできたのだ。
「――さあ、せいぜい足掻いて下さいな。
可愛い私のお人形さん……」
少女が飛び去った遥か彼方の空を見つめながら、レイムは手にした何かにそっと唇を寄せる。
白く長い指の間から、弱々しい透明な光がひとつ、零れて――消えた。