茂る草原の緑の上に、宙を舞った鋼の斧が重い音を立てて落下した。
「リューグ!」
腕を斬られその場に膝をついたリューグのもとへアメルが駆け寄る。
「馬鹿野郎! 来るんじゃねえッ!」
「だ、だって! だって……!」
怒鳴られ、泣きそうになりながらも腕の傷に治癒の光を当てるアメルを背に庇いながら、リューグは目の前に立つ敵をぎりりと歯軋りしながら見上げる。
そんな憎しみのこもった視線を一身に受けてなお、イオスは表情一つ変えずに槍についた血を無造作に振り払った。
――ゼラム方面とファナンとの間に広がる大草原。 レルム村へと向かっていた聖女一行を捉えた黒の旅団は、忠実に命令を遂行していた。
「……つまらない抵抗さえしなければ、痛みなんて感じる前に一瞬で殺してやるものを」
庇いあう斧使いと聖女とを見下ろしながらイオスがぽつりと呟く。
あまりに無機質な声で告げられたその言葉に耐え切れず、アメルが涙の滲む声を張り上げた。
「どうしてですか……! どうして今頃になってこんなことを!
お祭りの時には助けてくれたじゃないですか……なのに、どうして!」
「……言っただろう。全ては命令次第だと。
あの時は命令がなかった。今は、ある。……それだけのことだ」
機械的に返されたイオスの言葉に、アメルの目の前が絶望で真っ暗に染まった。
――命令次第。思わぬ邂逅を果たした豊漁祭の時、この金の髪の青年は確かにそう口にした。
けれど、それでも――本当にまだ自分を狙っているのなら、あんな風に助けてなどくれなかった筈だと。だから、彼等はかならずしも残忍で冷酷な殺人鬼ではないのだと考えられるようになった。
があんなにも黒の旅団を大切に想っているのが何よりの証拠であるように、やはり彼等には「国の隷属組織である」という逃れられない、やむを得ない事情があるのだ。残酷な振る舞いも全て、彼等の意思ではないのだ。
だから、彼等個人は本当は人間らしい心を持つ存在なのだと……。そう、信じかけていたのに。
今再び、何の感情もこもらない瞳で、イオスはアメルの大切な仲間たちを傷つけ、自分を捕らえようとしている。
――レルムが火の海に沈んだあの夜と同じ瞳で。
やはり。どうあっても。彼らを信じてはいけなかったのだろうか。
再び刃を向けられる悲しみと蘇る彼の夜の恐怖に動揺するアメルの前に、すっと小柄な人影が割って入った。
不思議と凪いだ紫紺の瞳で剣を構えた少女――トリスは、イオスをまっすぐに見つめた。
「……本当に、そうなの?」
まるで荒ぶる戦いの熱を冷まそうとするかのように、どこかひんやりと落ち着いた声でトリスが言う。
一体何を言い出すのかと、その場にいた全員の視線が派閥の少女へと注がれた。
「本当にそうなの? 命令されたから、はいそうですかって素直に納得してるの?
ねえイオス……あなた本当は、こんなこと……したくないんじゃないの?」
「何……!?」
トリスの言葉にイオスの眉がぴくりと上がる。
殺気を増す敵の青年に気圧され、トリスは思わず口をつぐんでしまう。だが、再びぎゅっと剣を握り締めると先を続けた。
「だっておかしいもの。
もし本当にあなたがアメルを捕らえようとしているのなら、わざわざこんな所で真正面から待ち伏せしなくても、もっと効果的な方法があったはずよ。
それに、今だってほら――こうして戦う手を止めて、私の話を聞いている」
偽りを暴くように。トリスの細い指がすっとイオスを指した。
「……甘いって、思わない?
本気のあなた達ならこんな無駄なことはしないはずよ。――レルムを滅ぼしたあなた達なら」
トリスから見れば、今回の戦いは何かがおかしかった。
ファナンという金の派閥の守護下を離れることでもしかしたら旅団の襲撃を受けるかもしれないということは、出発前からある程度予測していた。同時に、豊漁祭でユエルやアメルを共に助けてくれたイオスは、もうそんなことはしないだとうと信じたい気持ちもあった。
不幸にも予測は的中し、街道から外れたところで黒の旅団が自分達を待ち伏せていた。けれど、殺すと言いながらも、捕らえると言いながらも、イオス達の行動はどこか詰めが甘いような気がしてならないのだ。
事実、イオスは草原に伏したリューグにとどめをさそうとしない。今すぐ槍を振るえば、一人を始末し、同時に目的であるアメルを手中に収めることも出来るのに、それをしない。
……どこかが。何かが、矛盾していた。そんな彼の行動から、トリスはイオスの迷いを感じたのだ。
「本当は嫌なんでしょう? こんなこと、したくないんでしょう?
その証拠に――今日は、が、いないわ」
――あの少女には見せられない任務だと思っているから。見せたくないから。そう思うほどに、迷っているから。だから、彼女が同行していないのだ。
を連れていないこと。それがイオスの迷いを何より饒舌に語っている気がしてならなかった。
ひとつの可能性に賭けて、トリスはイオスに語りかける。
自分達は彼等と戦うことを望んでいるわけではないのだ。犠牲者が出るだけのこんな戦いは避けたかった。
「……もうやめにしない? あなた達だって辛いんでしょう? 何か別の方法は考えられないの?
それに、アメルを連れて行ったとしても、がどれだけ悲しむか考え――」
「……っく、ははははははは!」
説得を遮り、突然笑い出したイオスにトリスが驚いて言葉を失う。
唖然としている派閥の少女に、イオスはただ呆れた様に肩をすくめただけだった。
「馬鹿だな、お前達は。
本気でそんなことを思っているのか?
僕達の意思なんて関係ない。……国が決めたこと。それが、全てだ。退く道はない!」
国から下される命令のなんたるかを知らぬ少女の戯言に付き合っている暇はなかった。
心の底に疼く痛みを無視して、イオスは再び槍を構える。だが、トリスの肩を狙って突き出した矛先は、キィンと高い音を立てて跳ね返された。
「やはり、話しても無駄なようですね……」
ふいに飛び込んできた人物の姿に、イオスの瞳がすっとつめたく細められる。
愛用の長剣でイオスの槍を薙ぎ払ったその男――シャムロックは、厳しい表情を浮かべてイオスを見た。
「……今回の件。彼女は知っているのですか」
不躾に問われ、イオスのきれいな柳眉が不快そうに寄せられる。
名前が出なくてもそれが誰のことをさしているかは明白だった。
シャムロックの口からの話題が出ることに、イオスは耐え難い嫌悪を感じる。怒りを押し殺すように声がぐっと低くなった。
「……貴様には関係ないだろう」
「関係あります。
あの人を無理矢理にでもデグレアから引き離すべきか……その判断に関わりますから」
「……上等だ」
クッと、イオスの口の端がゆがんだ。
血の痕のついた槍を迷わずシャムロックへと向ける。
「――お前だけは、殺すことにためらいがないよ……」
最後まで心を縛っていたつまらない迷いを振り切るいいきっかけが出来たと、イオスは笑った。
瞳に純粋な殺意が宿る。
一人殺せば――あとは、同じだ。
一刻も早くこんなことは終わりにしたかった。
決意を固めたイオスの足が大地を蹴る。振り上げられた槍の矛先が太陽の光を受けて鋭い光を放つ。
シャムロックも長剣を手にイオスへと向かい走り出す。
譲れない想いをこめた槍と剣がぶつかり合おうとした、その時だった。
「――やめて! やめて下さいっ――……!」
ばさりと音を立てた大きな何かが彼等の頭上に影を落とす。
空から響いた声に、二人の動きが止まった。
◆◆◆
ようやく探し当てた黒の旅団は今まさにアメル達と剣を交えている所だった。
上空からイオスとシャムロックが対峙しているその姿を見つけたは慌ててレヴァティーンに降下を命じ、飛び降りるようにして二人の間に割って入った。
「イオスさん! 待って、待って下さい!」
「――!? ど、どうしてここにっ……!?」
何も告げずにデグレアに残してきた筈の少女が突然目の前に現れ、イオスの双眸が驚きで大きく見開かれる。だが、その表情はすぐに怒りで真っ赤に染まった。
「何をしに来た! ここは君が来る所じゃないっ!」
怒りを露にしたイオスに真正面から怒鳴られ、の肩が一瞬びくんと揺れる。けれど、はきゅっと唇を引き結んでイオスを仰いだ。
「レイムさんに教えてもらったんです!
今回の任務は中止です! レイムさんが議会にかけあってくれるそうです! だから今すぐ武器を収めて下さい……!」
「……な、に……!?」
の言葉にイオスが絶句する。
――今、彼女は何と言った?
ここにいる筈はないのにここにいる少女といい、その口から飛び出した言葉といい、何もかもが現実離れしていて、イオスは一瞬自分が夢でも見ているのではないかとさえ思った。
それほどまでに、ありえない言葉だった。
わずかな沈黙の後、問い返すイオスの声が震えた。
「……中止、だと?」
「はい、そうです」
「……あいつが、顧問召喚師として、そう言ったのか?」
「はい!
自分もこんな任務は止めたいと思っていたって! だから議会を説得して中止させるって! はっきりとそう言ったんです!」
「……中止……?
……それを伝えるために、君は、ここに?」
「そうです! そうです……!」
の言葉に、イオスはうなだれるようにして肩を落とす。
うつむいてしまったその腕にがそっと手を伸ばした。
「……もうこんなことしなくてもいいんです。
だから、一緒にデグレアに帰りましょう……?」
あやすようにそう言って、はイオスの軍服の袖を握る。
だが、願いをこめて触れた少女のちいさな手のひらは、次の瞬間ひどく乱暴に振り払われた。
手の甲に感じた痛みにははっと息を呑む。目の前のイオスは、憎しみさえ感じられるほど厳しい顔をしてを見据えていた。
「イ……イオス、さん……!?」
まるで突き放すかのようなその振る舞いに、は心を何かで刺し貫かれたような衝撃を受けた。
……今、何が起こったのか。何をされたのか。にわかには信じられなかった。
イオスが自分を睨んでいる。
差し出した手を振り払って、睨んでいる。
まるで蔑むかのようなそのつめたい紫のまなざしに、の喉が一瞬にして干上がった。
――この世界に呼ばれて、初めて。彼女はイオスに拒絶されたのだ。
「――信じないよ」
手を押さえ、ただ呆然とその場に立ち尽くしているに、イオスはきっぱりと言った。
「たとえ君の言葉であろうと、そんなことは信じられない」
あのレイムが任務中止を決めるなど、絶対にありえないことだった。
そんなことが可能なら――否、そうしようと思うのならとっくの昔に動いている筈だ。
中止などと、そんな気を起こすわけがないのだ。……旅団の嘆きを影で操っているあの男が。
「……ありえないんだよ」
ありえない。そう繰り返して、イオスは再び手にした槍をきつく握り締めた。
「君が一体あいつに何を言われたのかは知らないが、そんなことは絶対にありえないんだ。
何かの間違いか、罠か。そう考えるのが妥当だ」
「そ……んな……」
「そこを退け、。僕達は任務を果たさなければならない」
聞く耳持たずといったイオスの様子に、は信じられないと何度も首を横に振った。
まさかこんな事態になるとは考えてもみなかった。せっかく救いの手が差し伸べられたというのに、何故イオスはそれをわかってくれないのだろう。
何とかしなければと焦ったの首筋をつめたい汗が伝った。
「ど、どうしてですか! イオスさん達だって本当はこんな任務は嫌なんでしょう? だから私に何も言わずに出て行ったんでしょう?
中止は本当なんです。無理にこんなことしなくてもいいって言ってもらえたのに、なのにどうしてわかってくれないんですか……!」
瞳に涙を滲ませながら訴えるに、たまらなくなったイオスがきつく唇を噛んだ。
わかっていないのはどっちだと、苛立ちのあまり額に青筋が浮かぶ。
「――だから! ありえないんだよそんなことは!
あいつが僕等を助けようとするなんてありえないんだ! 今までのことを考えてみろ! 君だって身に覚えがあるだろう!? おかしいってわからないのか!」
イオスの剣幕にの瞳に怯えの色が走る。だが、彼女とてここで退く訳にはいかなかった。
「だ、だからっ! 今までは立場上庇えなかったって……でも今度こそはって……!」
「嘘だ!」
必死にすがるの言葉をイオスは頭ごなしに否定した。
もレイムに傷つけられた過去を持つというのに、一体あの顧問召喚師はどんな手を使って彼女を手懐けたのだろうか。すっかりレイムを信じているがイオスはたまらなく恨めしかった。
――あの男は。あの男だけは、絶対に信じてはならないのだ。
この任務を告げる時、あの男が何を盾としたか。それを思えばの言葉はまぎれもなく世迷言だった。 何も知らない彼女にこんな真似をさせるなんて、レイムのことだ、裏で何か恐ろしいことを企んでいるに違いないのだ。
……けれど、にはそれがわからない。
「――っ、いいから退け!」
埒が明かないと判断したイオスは、立ち塞がるを無理矢理押しのけると再びシャムロックに向かい槍を突き出す。だが、その背中にが飛びついた。
「どうしてどうして! なんでわかってくれないんですか! やめていいのに、こんなことしなくていいのに!」
「は――離せ! あいつと僕と、君は一体どっちを信じるんだ!」
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!?」
振り払おうとするイオスに懸命にしがみついては懇願する。
このままではやらなくてもいい任務のために皆が傷つくことになってしまう。話を聞いてもらえないのが悔しくてどうしたらいいのかわからなくて、とうとうの瞳からずっと我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出した。
「……お願いです、イオスさん……もうこんなことやめて……!
イオスさんが誰かを殺すところなんて、わたし、みたくない……!
お願いですから、おねがい……しんじてください……!」
ぎゅっと閉じた瞼の向こうに、数日前の夜にイオスが見せた切なげな表情が浮かぶ。
これ以上にイオスにあんな想いをさせたくはなかった。どうにかして彼を助けたかった。
ただその一心で、はイオスの背中をきつく抱きしめる。彼がわかってくれるまで、何があってもこの手を離すつもりはなかった。
梃子でも動こうとしないに、もがいていたイオスの身体の動きが止まる。
――やがて、頭上から疲れたように長い嘆息が聞こえた。
「……そうやって泣いて……可愛らしく『お願い』すれば、僕が何でも言うことを聞くと思っているのか?」
「……え?」
静かに、とても静かに告げられたイオスの言葉の意味が理解できなくて、呆気にとられたの腕の力が緩む。その一瞬の隙に、イオスはするりと彼女の戒めから抜け出した。
「あっ……」
思わず伸ばした少女の手をかわして。イオスはゆっくりとに向き直った。
「――ここをどこだと思っている。
口を慎め、」
「――っ!」
振り返ったイオスは、能面のように凍りついた表情を浮かべていた。
その瞳には何の感情の色も無い。まるで他人を見るかのようなつめたい視線を向けられ、は声を失った。
硬直している少女に対し、イオスは淡々とした口調で告げた。
「……確かに、僕は君に対して負い目がある。
無理矢理この世界に巻き込んでしまったのだから、君の願いは出来るだけ叶えてやりたいと、そう思ってきた」
一瞬にして感情をどこかへ捨て去ってしまったかのように、イオスの声はただ、静かだった。
「――けれど。
何度か与えた選択肢の中で君がデグレアにいることを望んだ以上、君は僕の召喚獣であると同時に黒の旅団の一員であり――僕の、部下だ」
驚きのあまり涙すら止まってしまった少女の愕然とした表情を前にしても、イオスは眉ひとつ動かさなかった。
ただ真っ直ぐに。ただ静かに、彼は少女を見下ろした。
「ここは、戦場だ。そして、指揮官は――僕だ」
すっと、イオスの槍が美しい放物線を描く。
磨きこまれた銀色の矛先が、少女の首筋へと――彼が何より、誰より大切に想っている筈の少女の首筋へとあてがわれた。
――ありえないその光景に、シャムロックやトリス、アメル達はもとより、黒の旅団員達も皆一様に動きを封じられる。
は、ただ呆然とイオスを見上げることしか出来ない。
あらゆる感覚が遠のく中で、首から伝わってくる重みと冷たさだけが、これが現実なのだということを教えてくれた。
「。
――上官の命令に、逆らうつもりか」
ぐっと、イオスが槍を持つ手に力を込める。
少女の白い首から、赤い血が一筋、まるで涙のように肌を伝い落ちた。