大きく見開かれた少女の瞳に、血塗られた己の姿が映っていた。
それを見たイオスの心が軋んだ音をたてる。
怯えと戸惑い、そして恐怖を無垢な瞳いっぱいにたたえて、少女はイオスを見つめていた。
(――)
名前を呼びたかった。けれどイオスの喉は声を紡ぐことすら出来ない。
こんなことは決してありえないと思っていた。けれど、今自分は確かに彼女に槍の矛先を向けている。傷つけている。
この手で。
――今、イオスは、確かに自分の心が死んでしまったと思った。
血を絞り出して、捩じ切れて。最早悲鳴すらあげられないほどに。
()
……何故こんなことになってしまったのだろう。
大切にしたかった。傷つけたくなかった。
ただずっと、隣で笑っていてほしかった。それだけで、他には何も望まなかったのに。
けれど、その想いを抱いた瞬間から、イオスの立場は一変してしまったのだ。
――誰かを護りたいと願うこと。それは煌く宝石のように崇高で清らかな感情であると共に、人の心に決定的な弱さを生む。
これを利用されたら、自分にも彼女にも未来はない。
だから、遠ざけたのに。どうして彼女にはそれが伝わらないのだろう。
――彼女は知らない。
何を盾に、何を犠牲に、旅団が惨劇を強要されているのかを。
誰のために、自分が今、心を殺してまで槍を手にしているのかを。
大切だからこそ、愛しいからこそ、イオスの想いも知らぬまま状況を理解しないが、イオスはどうしても許せなかった。
柄を握った手が石のように動かない。
……こんなことがしたい訳ではなかった。けれど、ありとあらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、気がふれそうになる。
伝わらない想い。顧問召喚師の歪んだ笑み。進路も退路もない袋小路。恐怖にふるえる黒い瞳。
(そんな目で、僕を見るな――……!)
大切なものを失った絶望に、イオスの視界が赤く染まった。
尖った感情が暴かれる。
好きなのに。好きだから。……悲劇が起きる。
もう、何もかもが憎かった。
思えば、恋をした瞬間から、この運命は決まっていたのかもしれない。
そう。――彼女さえいなければ。
自分は、護りたいものなんて何もなかったのに――……!
白い薄肌一枚で止めた刃が滴る赤い血で濡れてゆく。
それでも、イオスには、槍を下げることが出来なかった。
◆◆◆
止まってしまった時間。それを最初に切り裂いたのはテテだった。
主人を傷つけたイオスを、テテは「敵」だと認識する。
だが、イオスに飛びかかろうとした護衛獣をの叫びが制した。
「――テテ駄目っ!」
すんでの所で手を伸ばしたに腕を捉まれ、納得のいかないテテはどうしてだと足をばたつかせて暴れる。
そんなテテを、は唯一自由の利く右手を何とか動かして自分の傍へと引き戻した。
……今のイオスでは、本当にテテを傷つけかねないと思ったのだ。
「言うことを聞いて、テテ。……動いちゃ、だめ……」
イオスに顔を向けたまま、護衛獣をなだめるの声が震えた。
氷のように冷たいイオスの瞳にはやはり何の感情も見つけることが出来ない。
だが、そんな少女の声音に、金縛りにあったかのように微動だに出来なかった旅団員達と、そしてシャムロックがはっと現実へ引き戻された。
「イ、イオス隊長! 何してるんですか!」
「イオス! ……さん!」
青ざめた面々が慌てて二人の間に割って入ろうとする。そんな彼等をイオスの厳しい声がぴしゃりと打った。
「口を出すな! これは僕と彼女の問題だ!」
あまりの気迫に全員が口を封じられ、再び周囲を沈黙が支配する。
イオスは改めてに向き直った。
「……もう一度言う。
下がれ、。これ以上の邪魔は許さない」
感情のカケラすら感じられない冷酷な声。だが、その奥底に彼の最後の願いが隠されていたことに……気付くものはいない。
頭上から降り注いだイオスの最後の警告に、は返事をしなかった。
一瞬だけ悲しげに瞳を揺らめかせた後、彼女は黙って視線を落とす。けれどやはりその場から動こうとしない少女の態度に、ついに限界に達したイオスが怒声を上げた。
「!」
怒鳴られても、それでもは退こうとしない。
「……どうしても、私の言葉を、信じてくれないんですか……」
ぽつりと、少女の口から嘆きの言葉が漏れる。
彼の言葉が彼女に届かないように、彼女の想いも彼には届かない。
「下がれと言っているのがわからないのか!」
さらにイオスが声を荒げても、やはりはうつむいたままだ。
だが、その口許が何かを低く呟いていた。
「!」
梃子でも動こうとしない彼女に業を煮やしたイオスが、とうとう力づくで彼女を押し退けるべく腕を伸ばした、その時だった。
「――ドライアード!」
突然の鋭い少女の叫びと共に緑の閃光が弾け、 豊満な肢体を百合の花に包んだ幻獣界の妖が姿を現す。
「眠りを……!」
「――なッ……!?」
ドライアードは相手を魅了し思うがままに操る為の召喚術である。
その力を使いが自分を眠らせようとしていることに気付いたイオスが驚愕に双眸を見開いた。
まさか彼女がこんな手段に出るとは予想だにしなかった。慌てて召喚術に対抗するべく精神を集中させるイオスだったが、ドライアードから吹きかけられる甘ったるい吐息に、彼は信じられないほどにあっさりとその場に膝をついた。
「な、に……!?」
本来、イオスはドライアード程度の魔法になら抵抗可能な魔力と精神力を持っている。
だが、眠れ、眠れという囁きがみるみるうちに頭の中に侵入し、彼の自由を奪っていった。
空気がまとわりつくように重い。抗いがたい睡魔がイオスの思考を白濁させてゆく。
(馬鹿な……!)
――ドライアードごときで自分が屈するなどありえないことだった。
彼女の魔力はこんなにも強かっただろうか。
力を失ったイオスの右手から槍が零れ落ちる。
最後の力を振り絞って、イオスは目の前に立つ少女の服を掴んだ。
「…………ッ!」
何故、という叫びは言葉にならなかった。
睨みあげた先に見たものはの瞳に浮かぶ涙。その光景を最後に、イオスは意識を失った。
◆◆◆
初秋にしては冷たすぎる風が少女の黒髪を揺らしていた。
小さな嗚咽と草のざわめきだけが、ただ哀しく耳に染みる。
「……ちゃん」
剣を下ろした旅団員達が、少女を中心とした輪を作りながら、ゆっくりと彼女に歩み寄る。
「……ちゃん……」
草原にしゃがみこみ、崩れ落ちたイオスの頭を膝の上に抱いて、少女は肩を震わせ、泣いていた。
「……ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
光を失ったうつろな瞳で、少女はただ謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ……」
「――ちゃん……!」
旅団員の一人――カイトが、たまらず少女の肩を抱く。
ぬくもりに包まれて、の瞳から堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!
でも、でもどうしても止めたかったの! だってみんな、本当はすごく優しいのに! みんながいなかったら、私この世界で生きてなんかいられなかった!
だから嫌だったんです! 優しいみんながこれ以上傷つくのがどうしても嫌だったの!
そ――それだけだったのに、こんなつもりじゃなかったのに、私、わたし、イオスさんを、なんで、どうして……あああああっ!」
「わかった! わかったから!
もういいから、ちゃん、泣かなくていいから……!」
イオスに逆らってしまったという罪を前に恐慌状態に陥っているをカイトがきつく抱きしめる。
「――っ……。
ごめんなさい、ごめんなさ、……イオスさっ……わあああああああああ――……!」
カイトの腕の中で、が泣き崩れる。
声をあげて泣く少女の姿に打ちひしがれた何人かの旅団員が、力を失ったように草原に膝をついた。
――彼女のこんな嘆きを聞くために戦ってきたのではなかった。
この異世界の少女が笑ってくれる、その喜びだけが、非道に堕ちた自分達に許される最後の人間らしい希望だった。
だから、決して傷つけまいと――。イオスだけではない、黒の旅団の誰もがそう願ってやまなかったのに。
けれど、彼女の涙を止められる唯一の人は、他ならぬ彼女自身の手によって、醒めぬ眠りの底へと落ちている。
ああ、とカイトは思わず天を仰いだ。
頭上に広がる空はただ青く、決して手が届かないほどに高く。まるで地上の自分達を嘲笑うかのように美しかった。
――見上げる空は誰もが同じ筈なのに。どうして運命は、自分達にばかりこんなにも残酷なのだろう。
何故、せめてこの腕の中で泣く少女だけでも護ってくれなかったのだろう。
「……ごめんね、ちゃん。何も言わずに出て行って……」
しゃくりあげる少女の背中を優しく撫でながらカイトが言った。
「でもね。俺達にも、戦って、護りたいものがあったんだ。
……ちゃんの笑顔も、そのひとつだったんだよ……」
そう言うカイトの語尾がわずかに震えた。
もう一度の頭を優しく撫でたカイトは、傍にいた同僚に彼女を預けると、ゆっくりと周囲の仲間を見渡した。
「――国に戻ろう。
顧問召喚師殿に話を聞く必要がある」
だが、カイトの決定に年若い旅団員の何人かがうろたえた声を発した。
「し、しかし! ここまで戦って……!」
「そうです! 今ならまだ!」
「――よせ。イオス隊長もいない、こんな状態でどうやって戦うというんだ。
それに……戦いながら、お前達も気付いていただろう。
――今の俺達では、彼等に敵わないと」
静かに首を振ったカイトの口から告げられた言葉に、先程の旅団員達が押し黙った。
「――俺達はまだ、心のどこかに迷いがあった。
けれど、彼等は聖女を護ることに迷いがないのだから……結果は知れたことだろう……」
あれほどレイムに脅され、大切なものを盾にとられても、それでも自分達はとうとう完全なる駒になりきれなかった。
迷いは、弱さだ。確固たる意志を持つ剣の前に、曇った自分達の刃が適う筈もない。
皆が心のどこかでわかっていたこと、けれど認めるわけにはいかなかった真実をはっきりと口に出され、黒の旅団全員がなすすべもなく肩を落とした。
やがてカイトは、あまりの出来事にただ呆然と自分達を見つめているトリス達をゆっくりと見やった。
「……貴方達にとって、俺達はただの殺戮者なのでしょう。
けれど、俺達も、やりきれない任務を前にしたら、剣を握る手は震えなくても、心が震えます。
――俺達は木偶人形じゃない。……意思のある、人間だ……!」
カイトの叫びに、旅団員の中から小さな嗚咽が漏れる。
全てを犠牲にしてきた彼等の我慢もこれが限界だった。
「……隊長に代わり命じる。
全軍撤退。我々はこれより本国に帰還する」
カイトの声に、うなだれていた皆がのろのろと立ち上がる。
旅団員とテテに導かれ、同じく草原を去ろうとしたの背中に、はっとしたシャムロックが叫んだ。
「――さん!
戻ってはいけません! ……貴女は、こちらに……!」
「……余計な言葉は慎んで頂こう。
俺達はもう、貴方達と争うつもりはない」
すっと瞳を細めたカイトが、冷たい声でシャムロックを諌める。
その時、草原にか細い声が響いた。
「……ありがとうございます、シャムロックさん。
でも、 私はデグレアに戻ります。
戻って、謝らなきゃいけないから……」
「さん……」
肩を支えられながら、歩みを止め振り返ったは泣きはらした瞳でシャムロックを見つめる。
「それに……。
たとえどこに逃げたとしても、私はもう、この世界にはいられないかもしれません……」
――自分をこの世界に呼んでくれた人を裏切ってしまったから、と。
そう呟いて、少女は消え入りそうに儚い微笑みを浮かべた。
全てを諦めてしまったかのようなその表情に、シャムロックも旅団員達も胸を塞がれる。
はただ、そっと濡れたまつげを伏せた。
「……戻りましょう。デグレアに……」
――その先に、どんな未来が待っていたとしても。
他に、道は、無かった。
◆◆◆
黒の旅団が去り静寂を取り戻した草原に、悪魔の少年がひとり佇んでいた。
両の瞳は、ひどく厳しい色を宿して少女が消えた方角を睨んでいる。
旅団の姿はもうとっくに見えなくなっているというのに、いつまでもそこから動こうとしない護衛獣の背中にトリスが声をかけた。
「……バルレル?」
主人たる少女に名を呼ばれたバルレルは、面白くなさそうにチッと舌打ちをする。
「何でもねえよ……」
再びレルムへと向かうため歩き出した一行。彼等に追いつくため踵を返したバルレルだったが、彼は最後にもう一度だけ草原の彼方を振り返った。
レヴァティーンに乗り現れた旅団の少女の姿が頭をよぎる。
何てことはない、ただの人間の子供。……だが、あれは……。
「……まさか、……な……」
「バルレルー! おいてくわよ!」
「あー、わかったわかった! 今行くから騒ぐなニンゲン……!」
胸に覚えた嫌な予感を振り払うかのように、バルレルは今度こそ仲間の元へと走り出した。
第17夜 END