call my name
 イオスはたくさんの綺麗なものを持っている。
 その中でも特にが好きなもの。それは彼の手と声だった。

 慈しむように髪に触れる、長くしなやかな指。
 初めて出会った時も、あの手のひらが優しく頭を撫でてくれた。
 喜びで耳を満たす、やわらかな声音。
 彼の声で名前を呼ばれると、自分の名はこんなにも美しい音を持つのかといつも驚かされた。

 いつかのレルムの夜。イオスの手が触れて、名前を呼ばれて――その瞬間から、はこの世界で新たな生を受けたのだ。

 イオスの存在こそ、リィンバウムにおけるの全てだった。


 ……けれど。今はその彼自身が、少女の世界を砕き崩そうとしている。


 つめたい指が身勝手に肌を這うたびに、心を爪で引き裂かれているような気がした。
 ずっと大切にしたかったものが、涙とともに流れ出てしまう。

 ――もう、何もかも遅くて、取り戻せないのだろうか。

 とうとう抵抗する力さえ失ったの口から嗚咽が漏れた。

「……どうして……」

 涙の滲むか細い声は確かにイオスの耳に届いている筈なのに、それでもイオスは躊躇する素振りすら見せない。
 うつろな瞳で天井を見上げるがしゃくりあげた。

「どうして、こんなことになっちゃうんですか……?
私はただ、これ以上悲しい思い、して欲しくなくて、
イオスさんが笑えるように、なって欲しくて、
……それだけだった、のに……」

 善とか悪とかそういうもの以前に、ただ大好きな人にもう辛い顔をさせたくなかった。
 何を犠牲にしてもいい、彼の心が闇に飲まれる前にどうしても助けたかった。
 だが、イオスはそんなこと、ひとかけらもも望んでなどいなかったのだ。

 ――は彼のことをわかったつもりでいた。だから、自分の行動で彼を救えると思い込んでいた。
 けれど、本当は――あんなに近くにいたのに、やはり自分はイオスのことを何一つわかってなどいなかったのだ。

 愚かな想いと愚かな振る舞い。驕り高ぶったその結果、は一番欲しかったものを自らの手で壊してしまった。


 ――初秋の夜風に包まれながら、イオスがくれたあの約束はもう、どこにもない――……。


 イオスに嫌われてしまった。その事実が、与えられる戒めよりもただ、悲しかった。
 自分の身体に何が起こっているのかさえもうわからない。心と共に、全ての感覚が麻痺してゆく。

「……このまま続ければ、イオスさんは、私を許してくれるんですか……?」

 やがてぽつりと呟かれた言葉。
 絶望すらこもらないそれに、イオスがようやく手の動きを止める。
 顔を上げた先に見つけた少女の泣きはらした瞳には、もはや何も映っていなかった。

「許してもらえるのなら、私、何をされても平気です。
あなたの気の済むようにして下さい……」

 乱れたベッドの上に四肢を投げ出して、少女はただ、恋しい人に許しを乞う。
 光を失くした双眸に、再び透明な涙が盛り上がった。

「だけ、ど……っ!
それでも許してもらえなかったら……イオスさんに嫌われたままじゃ、わ、わたしもう、この世界に、いられない……っ!」

 擦り切れるような叫びとともに涙を舞わせて、少女はひとり、失った世界の大きさに打ちのめされる。

「…………」

 そのあまりに痛々しい姿にイオスが言葉を失ったその時、 ふいに耳に飛び込んできた鈍い音に、二人ははっと部屋の入口を見た。
 鍵のかけられたドアに何かが体当たりするかのような、ドンドンという音と衝撃。軋む扉の向こうから、かすかに鳴き声のような高い声が漏れている。
 悲鳴にも似たそれが何なのかようやく気付いたの瞳に意思の光が戻った。

「……テテ……?」

 おそらく廊下に取り残されたテテがご主人様を助けようと必死になって開かずの扉と格闘しているのだろう。
 自分自身もとんでもない状態にさらされているというのに、心配そうに護衛獣の名を呼ぶ少女の声を聞いてしまったイオスは、一度深く嘆息すると組み敷いていたの身体を解放した。
 驚く彼女に乱暴に己の上着を投げつけると、茫然としたまま動けないでいるに背を向ける。

「……イオス、さん……?」
「……出て行ってくれ」

 ベッドの端に腰掛け頭を抱えて、イオスは低くうめいた。
 ――自分は今、一体何をしようとしていたのだろう。半裸で涙を流すの姿を正常な意識の下で捉えた瞬間、自らを引き裂きたくなるような嫌悪と後悔に襲われた。

 一瞬前の自分の行動がただ信じられなかった。何故あんな凶暴な衝動を抱いたのだろう。
 刃を向け血を流させただけでも罪なのに。無理矢理押さえつけて、乱暴に触れて、泣かせて。


 どうして、どこで何を間違えて、こんなことになってしまったのだ――……!


「こんな……こんなつもりじゃなかったんだ……っ!」

 もはや謝罪の言葉すら紡げない。
 決してしてはいけないことを、しようとした。……してしまった。
 に何と詫びれば良いのかわからなくて、イオスの喉が痛みを感じる程に干上がった。

 ……は、旅団を救いたいと願った。裏の真実を知らない彼女のそれはまっさらで純真な願いだ。
 それを、自分の思惑通りにならなかったからと言ってこんな真似をして……ただの八つ当たりではないか。


 ――わかっている。悪いのは自分だ。けれど、袋小路に追い込まれ葛藤しているのはイオスも同じだった。


「自分がおかしいってわかってる!
でも……ルヴァイド様が囚われて、レイムの思惑もわからなくて……。
も、もう、どうしたらいいのか、わからないんだよ……!」

 特務隊隊長としての責務と少女への想い。どちらも、護りたいもので、護るべきものだ。
 だが、いくら上官という立場にあるとはいえ、イオスもまだ二十歳の青年に過ぎない。あらゆるものを冷静に判断し割り切れるほど軍人として成熟しているわけでもないのだ。
 突然旅団に降りかかった最悪の災厄の中、両立したいのに出来ないこの二つがせめぎ合って、イオスは気が狂ってしまいそうだった。

「君を傷つけたいわけじゃないんだ。本当は誰より護りたいって思ってるんだ……!
だけど、今の僕は 、君に何をするかわからないから……っ!」


 これ以上牙をむく前に、離れてくれ、と。懇願するイオスの声が、震えていた。


 ひとり苦悩するその背中を見つめ、はきゅっと唇を噛みしめる。
 破れてしまったシャツの代わりにイオスの上着を羽織ったは、ふらつきながらベッドから降りると、軋み続けるドアへと向かった。
 扉を開けると、そこにはやはり必死にドアを叩く護衛獣の姿があった。
 怒りで顔を真っ赤に染め、エメラルドの瞳を吊り上げたテテは、そのまま部屋の中に飛び込みイオスに殴りかかろうとする。
 だが、駈け出した小さな身体をが抱き止めた。

「待って! テテ、落ち着いて!
……心配かけてごめんね。私は、大丈夫だから……」

 涙の跡の残るそんな顔で何を言うのだと、テテはの腕の中でじたばたともがく。
 一度ならず二度までも大切なご主人様を傷つけたイオスが、テテはどうしても許せなかった。
 興奮冷めやらぬテテを深く抱き、はまるい背中を繰り返し撫でる。しばらく後、ようやく護衛獣の息使いが落ち着いたのを確認した彼女は、小さな身体をそっと床に下ろした。
 え? とテテが不安げにご主人様を見上げる。
 少女は、テテが初めて見る、静かな決意を浮かべたとても不思議な色の瞳をしてテテを見下ろしていた。

「ごめんね、テテ。ひとりで先にお部屋に戻っていてくれるかな?
……私、今夜はずっと、ここにいるから……」

 ご主人様の言葉に、テテは両の瞳を零れおちそうなほどいっぱいに見開いた。
 少女の白い膝にすがりつき、いやいやをするように何度も首を横に振る。
 けれど、はその頭を優しく撫でただけで、しがみつく手を静かに引き離した。

「おねがい。
……いいこだから、ね……?」

 どうあってもご主人様の意思が変わらないことを思い知らされて、テテのエメラルドの瞳がみるみるうちに涙で覆われてゆく。
 大粒の涙が零れおちる一瞬前に、テテはぎゅっと唇を引き結ぶと、くるりとに背を向け、廊下の彼方へと走り去って行った。


「……ごめんね」

 その背中が見えなくなるまでテテの後姿を見送っていたは、再び部屋へと戻り、今度は自らの手でドアに鍵をかける。
 かちゃりと響いた音が、もう後戻り出来ないことを告げていた。
 ゆっくりと振り返った先では、ベッドから立ち上がったイオスが信じられないといった表情を浮かべていた。

「……
自分がやってることの意味……わかってるか?」

 イオスの問いに、はうつむき、小さく頷く。
 だが、イオスはぐしゃりと髪をかき上げ苛ただしげに何度もかぶりを振った。

「わかってないだろうっ!
僕がさっき君に何をしたと思う!?
頼むから、今すぐここから出――……」
「わかってます!」

 イオスの叱責を遮ってが叫んだ。

 叫ぶ瞬間思わずきつく閉じてしまった瞼を開けると、の目の前には驚いた顔のまま硬直しているイオスがいた。
 膝ががくがくと震えている。少しでも気を抜けば今すぐこの場に崩れ落ちてしまいそうだった。 自分がしようとしていることの途方もなさに眩暈がする。

 逃げ出してしまえば楽なのかもしれない。 それでも、はもう、選んでしまったのだ。

「わかってます……全部ちゃんとわかってます。
だ、だけど……こんな状態のイオスさんを、ひとりになんて出来る訳ないじゃないですか……!」

 月明かりも差さない部屋で、ひとり肩を震わせるイオスの姿がの脳裏に焼きついて離れなかった。
 イオスは、あんな背中を見せるような人ではない。苦難を前に迷いながらも、それでも最後にはいつも凛と前を向ける人なのだ。
 風に煽られても二本の足で歩み出せる、その潔さには恋い焦がれた。

 そんな彼が新月の闇に飲まれようとしている。好きな人が、苦しんでいる。
 何をされたかなんてもうどうでもよかった。ただこの人の傍にいて、少しでもいい、救いになりたかった。


 ――護りたかったのだ。


 涙で前がよく見えない。イオスの顔がわからない。
 でも、今どうしてもイオスに言わなければならない言葉があって。怖いけれど、それでも今この瞬間に伝えなければいけなくて。は懸命にイオスを探した。

 揺れる視界の向こうに見つけた輝石。イオスの瞳をまっすぐに見つめて、は、言った。


「あなたが私を嫌いでも、
……わたしは、あなたが」


 少女が最後の勇気を振り絞って口にした告白。だがそれを紡ぎきることは叶わなかった。
 駆け寄ってきたイオスにきつく抱きしめられ、彼の胸に口を塞がれる。


「好きだ」


 耳元で告げられた言葉に、は涙の滲む瞳を大きく見開いた。
 夢かもしれないと疑ってしまった次の瞬間、抱きしめる腕が一層強くなって、これが現実なのだと認識する。

「――好きだ。
好きだ、好きだ……君が、好きなんだ……!」

 少しかすれたイオスの声が少女の耳にこだまする。
 彼の言葉が全身にゆっくりと染み渡ってゆく。
 その意味を、理解して。身体全体でイオスの告白を受け止めたの瞳から涙があふれた。


 ――ずっとずっと夢見ていた瞬間が、ようやく訪れたのだ。


 震える手でイオスの服を掴み、はゆっくりと顔を上げる。見上げた先のイオスも泣きだしそうな顔をしていた。
 その瞳を見つめて。はわななく唇を開いた。


「……わ、私、も……。
私も、イオスさんのことが、好きです。
――ずっと、あなたのことが、好きでした……」


 一瞬はっと瞳を見開いたイオスは、再び少女を身動き出来ないほどにきつくきつく抱きしめる。

「……好きだ」

 繰り返された言葉に、はそっと瞳を閉じる。
 ――この言葉だけで。もう他には何もいらないと思った。


 唇が重なる。
 そのままもつれ合うようにベッドに倒れこんでも、はもう抵抗などしなかった。

 身体の上に感じるイオスの重みが怖くなかったと言えば嘘になる。
 それでも、今はただイオスの傍にいたくて。もう一瞬でも離れたくなくて。


 ――少女は彼にすべてを委ねてしまった。






◆◆◆





 何度も何度も、名前を呼ばれた。



 大きな手のひらが少女の頬を包み込む。
 涙の跡に優しく唇が触れる。

「……泣かないで」

 何故泣いているのかさえもうわからなかった。でも、どうしても涙が止まらない。
 懸命にイオスにしがみつきながら、はうん、と頷いた。


 ――やがて、確かに叫び出したい瞬間が訪れて。
 それでも、痛みも何もかも、彼が与えてくれるものならば全てが愛おしくて、全てを受け入れたいと思った。


「……イオス、さん」
「……うん?」

 恋人の問いかけに、イオスがその顔を覗き込む。
 小さな身体いっぱいに彼を受け止めながら、ははらはらと涙を零した。


「私達、ね……。
生まれた世界も、何もかも違うのに。
――今、こんなに、近くに――……」


 今自分達は、世界中の誰より一番近くで触れ合っている。

 この恋心を抱いてからずっと切なく心を苛んでいた、二人の間にある決して縮まらない異世界という距離。
 だが、それを埋める方法は、こんなに近くにあったのだ。


 少女の言葉に、イオスの目の端に思わず光るものが滲む。


「…………!」


 炎のレルムで呼んでしまった異世界の少女。
 数多の月夜を乗り越えて、その彼女が今、ようやく、自分の腕の中にいる。


 ――何という奇跡だろう。


 一瞬でもこの手を離したら、まるで夢のように儚く消えてしまいそうな気がした。
 確かめても確かめても足りなくて――……。イオスは少女の身体を抱いたまま、再び深く深くベッドへと沈んでいった。




 波のように押し寄せる甘い熱に心も身体も攫われてゆく。

 が最後に覚えているのは、耳元に残る、彼の声――……。


「――愛してる」