――幸せな夢を見ていた。
ぼんやりと将来のことを考え始めた少年時代。帝国で暮らしていたあの頃、隣にはまだ父と母がいた。
今日もイオスは父の店で仕事の手伝いをしている。街の一角で、イオスの父は小さな美容院を営んでいた。
もともと父は宮廷付きの美容師だったが、母との結婚を機に独立。だが、紳士らしく穏やかな人柄と芸術とも評される腕前に魅せられるお客は後を絶たず、宮仕えを辞めた今でも時折貴族のご婦人方がお忍びで髪結いに訪れる程だ。
母は飛びぬけて優秀な軍人だった。一時は皇女の近衛まで務めた程の人物だったが、宮廷で出会った父と結ばれ一線を退いた。今では自宅で道場を開き、近所の子供達に武術を教えている、何とも快活な女性だ。
イオス自身も幼い頃から母に武術を叩き込まれており、周囲が言うにはその上達ぶりはかなりのもの、らしい。母には軍学校進学という選択肢を勧められたりもして、イオスも武術は嫌いではなかったが――本当は、こうして父の横で仕事を見ているのが一番好きだった。
母の希望も叶えてあげたいが、父の仕事に憧れる想いも捨てられない。ふと、武術の訓練も続けながら、美容師の勉強をするのは駄目かなあ、などとつぶやいたら、父には「イオスはお母さん思いなんだなあ」とやわらかく瞳を細められたりして、何だか照れくさかった。
……そんな、優しい日々。
昼下がりのまろやかな日差しが煌く店内で、父は今、ひとりの少女の髪を切っている。
年齢はイオスよりもう少し下だろうか。暗く顔を覆い隠していた黒髪を切りそろえると、ぱっちりとした大きな瞳が現れた。
さらさらの黒髪に、黒曜石のような黒い瞳。帝国ではちょっと珍しい。
(可愛いなあ)
初めてのお客さんだが、近所の子なのだろうか。そんなことをぼんやりと考えている内に、父がはさみを置いた。
「――はい、出来ましたよ。お嬢さん、いかがですか?」
少女にかけていたケープを取り、イオスの父はにっこりと笑う。
髪を整えた少女は、店に入って来た時とはまるで別人のように可愛らしくなっていた。
父の手にかかると、どんなお客さんもこうして驚く程綺麗になり、そして最高の笑顔を見せるのだ。
魔法のようなこの父の手を、イオスは何度見てもすごいなあと思い、心から尊敬し憧れていた。
だが、どうしたことだろう。少女は困ったように首をかしげて、どこか悲しげな瞳をしている。
「ど、どうしたの? すごく似合ってるのに……」
何が気に入らないのだろうと思わず声をかけてしまったイオスに、少女は一瞬驚いたようにびくりと肩を震わせる。
鏡に映る少女は、泣きだしそうな顔で唇をかみしめた。
「だ、だって……。
わ、わたし、髪も目もまっくろで、いつも地味だって笑われてて……。だから、こんな風に切って、もしまた笑われたらどうしようって……!」
少女の言葉に今度はイオスが目をまるくする。
こんな可愛い子を笑うなんて、とんでもない意地悪者だ。心無い周囲のざわめきに、少女はすっかり自信を失くしてしまっているらしい。
どうにかしてこの子に笑って欲しくておろおろと店内を見渡したイオスは、そうだとばかり棚にあったリボンを手に取った。
父の了承を得て、真っ赤なリボンを少女の髪に結ぶ。
「じゃあこれでどうかな?
こういうきれいな赤はね、黒い髪の毛の人に一番似合うんだよ。
全然地味なんかじゃない。黒い髪も黒い瞳も、君だけが持っている特別な宝物なんだ」
「……ほ、ほんとに……? へ、へんじゃない……?」
すがるように自分を見上げる少女に対し、イオスは父親そっくりの笑顔で自信たっぷりに頷いた。
「うん。
大丈夫。すごく可愛い! ね、父さん?」
息子の問いかけに、イオスの父は優しい微笑みを浮かべて首を縦に振る。
美容師親子に背中を押されて、強張っていた少女の表情がゆるやかにほぐれてゆく。
やがて、少女の口許からは、アルサックのつぼみが花開く時のような可愛らしい笑みがこぼれた。
「……ありがとう……!」
はにかみながら頬を桜色に染めて。少女はイオスを見つめ、笑う。
その笑顔を前に、イオスの胸がひときわ大きく高鳴った。
「……あ、あの! 君、この街に住んでるの?
僕はイオスっていうんだけど……名前、聞いてもいいかな……?」
少女の笑顔につられ、思わずとんでもないことを口にしてしまったイオスは、不思議そうに瞬く黒い瞳を見てはっと我に返る。
慌てて「歳が近そうだから友達になれるかなと思って」などとあれこれ言い訳を並べるのだが、時すでに遅し、だ。
恥ずかしさのあまり顔を上気させるイオスを前にしばらくきょとんとしていた少女は、やがて赤いリボンをふわりと揺らして微笑んだ。
「わたしは――……」
◆◆◆
――こんな風に出会えたのなら。自分達の未来はもっと違っていたのだろうか。
明け方の空に星が消えゆく頃、浅い眠りが見せる儚い幻想。甘く切なく胸を締め付ける、決して叶わない残酷な夢。
現実での自分と彼女の出会いは、炎と血の赤に濡れたものだった。
……それでも。彼女と出会って、イオスは変わった。後は堕ちてゆくだけだった自分を、彼女という光が照らしてくれた。
ようやく思い出した、優しい気持ち。誰かを愛するということ。
舞い降りた奇跡のようなこの恋を、何より大切にしたいと願った。
だから、髪を撫でて。手に触れて。抱き寄せて。そっと優しく、名前を呼んで――……。
「――……」
耳に響いた己の声に、イオスははっと目を覚ました。
昨夜何があったのかを思い出し、慌てて飛び起きる。だが、朝日の差し込むベッドの上には、すでに彼女の姿はなかった。
けれど、シーツに残るかすかなぬくもりが、あれが夢ではなかったことを告げている。
白い光が彼女のいない部屋を照らす。力尽きたように再びベッドに倒れ込んだイオスは、嘆きのため息とともに両手で顔を覆った。
――不可解なレイムの行動に翻弄され、道を見失い、不安に溺れるままに彼女を求めてしまった。
とてもじゃないが、優しくなんて出来なかったと思う。ただ無我夢中で華奢な身体に全てをぶつけた。 それでも彼女は、懸命に自分を受け止めてくれたのだ。
世界の壁すら越えて、ようやく通じた想い。叶えられた恋。だが――……。
「こんな……はずじゃ、なかったのに……」
この恋を大切にしたかったからこそ、今までイオスは彼女に想いを告げるのをためらっていたのだ。
全てが終わって未来が見えるようになったその時に、きちんと告げるつもりでいた。好きだと言って、ずっとこのまま自分のそばにいて欲しいと伝える筈だった。
彼女が傷つかないように、泣かないように、いつでも笑ってくれるように。 決して壊れることのないよう、ゆっくり優しく、この恋を育んでいきたかった。
けれど、今――愛を確かめあった、本当なら何より幸せな筈の朝に、二人は挨拶すら交わせない。
「……」
何度名前を口にしても、返事は無い。
せめて昨日一晩でいい、時間を戻したかった。やり直したかった。だが、そんな願いが叶う筈もなく、イオスはひとり途方に暮れる。
……謝ればいいのだろうか。 けれど、その言葉はまるで昨夜の全てを間違いだと決めてしまうようで、あまりに悲しかった。
とても起き上がる気になれなくてそのままベッドに沈んでいたイオスだったが、突然響いた乱暴なノックの音に重い瞼を開ける。
早朝の訪問者となれば、おそらく部下の誰かだろう。何か急な知らせだろうか。
本当は誰にも会いたくなかったが、旅団はまだ予断を許さない状況下にある。自分の勝手で仕事を放棄するわけにはいかなかった。
鉛のように重い身体を何とか引き起こし、乱れた衣服を整える。
「……今、開ける……」
だが、扉の向こうにいたのは予想外の人物だった。
何故こんな朝にこんな場所で顔を合わせることになるのか、その意味が全くわからず、イオスは言葉を失った。
「おはようございます、イオス。
――反逆罪で出頭命令が出ていますよ。
身に覚えがないなどとは……言わないですよねぇ……?」
突きつけられた罪状に、イオスはただ愕然と目の前に立つ男を見上げる。
扉を叩いた男――キュラーは、主人そっくりの歪んだ笑みを浮かべる。
朝日が作るその影が、まるで何かを飲み込もうとするかのように、揺れた。
第18夜 END