白い光が踊る朝の回廊を、少女がひとり駆け抜けてゆく。
一刻も早く自分の部屋に戻りたかった。
誰にも会わないよう祈りながら、決して泣くまいときつく唇をひき結んで、はただひたすらに走った。
――奇跡のような夜だった。
言葉も。触れた手のぬくもりも。何もかもすべて、まだはっきりと覚えている。
身体の奥に残る鈍い痛みが、あれは夢ではなかったのだと教えてくれた。
だから、は走った。大切な想いを胸に抱きこんで、懸命に逃げた。
目覚めた彼が悲しい顔をする前に。
つめたい朝の風が、奇跡の余韻をさらってしまう前に――……。
「……テテ」
自室の扉を開けたすぐ先に座り込む護衛獣の姿を見つけて、は目を瞬いた。
静かに部屋にすべりこんできた気配に、うつむいていたテテがはっと顔を上げる。の姿を映したエメラルドの瞳が、みるみるうちに涙でおおわれていった。
――この子は。一晩中こうやって、ずっと自分の帰りを待っていたのだろうか。
「テテ……」
ごめんね、と手を伸ばしたその時、背後から突き出された手に口を塞がれ、は意識を失った。
第19夜 鎖と籠の鳥
「――。
……」
誰かが名前を呼んでいる。
額に張り付いた前髪をすくいあげる、優しい指。
まるで、はじめて彼に会ったあの夜のようだった。不思議な懐かしさに、の心にふわりとあたたかい感情が広がる。
だが、夢見心地のまま瞳を開けた先には本当にイオスの顔があって、の夢はそこで途切れた。
「えっ……あ、イ、イオスさん……!?」
咄嗟に昨夜の出来事を思い出し、の頬が紅く染まる。
そんな少女の様子を見て、イオスは困ったように少しだけ笑った。
「よかった。目、覚めたんだな」
大丈夫かと気遣いながら、イオスはが起き上がるのを手伝う。
イオスに支えられながら、は何よりも先に己の顔に浮き出たであろう感情を恥ずかしいと思った。
霞がかかっていた思考が晴れたところで、はようやく自分の身に何が起こったのかを思い出した。
そうだ。自分は確か、部屋に戻ったところで、いきなり誰かに後ろから押さえられて――……。
「あの、ここは……? 私、どうして……」
「ここは城の地下牢だ。君を連れてきたのはガレアノだよ。
ほら、テテも一緒だ。……テテ、ご主人様が起きたぞ」
イオスが声をかけると、それまでぐったりとイオスの背中にもたれていたテテががばりと跳ね起きる。
そのままテテは勢いよく少女の胸へと飛び込んだ。
「テテ……ど、どうしたの!? なんでこんな怪我してるの!?」
抱き止めた護衛獣のあちこちに血の滲む擦り傷を見つけての顔色が変わる。
狼狽する彼女の肩を、イオスが落ち着け、とでも言うように軽く叩いた。
「言っただろう。君を連れてきたのはガレアノだと。
君を助けようとしてずいぶん抵抗したらしい」
やっぱり護衛獣だなと言って、イオスはの腕の中にいるテテの頭を撫でる。
だが、テテはじろりとイオスを睨むと、ぷるぷると首を振ってその手から逃れた。
護衛獣の不興を買ったその理由には大いに思い当たるところがあり、イオスは苦笑を浮かべて手を引いた。
すがるように抱きついてきたテテの身体をきつく抱き込んで、
は改めて今自分がいる場所を見渡す。
イオスの言う通り、そこは確かに石の壁で覆われた暗い牢屋だった。
明かりとりの小さな高窓が遥か上にあるだけで、燭台もない暗い空間。鉄格子の向こうにある他の牢屋にも人の気配はなく、聞こえるのはどこからか滴る水の音のみだ。
「いったい、どうして……」
自分をここに連れて来たのはガレアノだと言うが、あの男の姿もなく、がらんどうの空間に自分達三人だけが取り残されている。
状況が飲み込めず思わずすがるようにイオスを見上げてしまっただったが、少女の視線を受けたイオスも静かに目を伏せかぶりを振った。
「僕も何が何だかわからないんだ。
今朝、いきなりキュラーにここに放り込まれて、しばらくしたら君が来て、でもあいつらはただ笑うだけで理由も説明せずどこかに行ってしまうし……」
イオスが鉄格子を掴むと、外側にかけられた大きな南京錠が錆びた音をたてて揺れる。
湿った床から立ち上る冷気が身体に重くまとわりつき、は背筋を震わせた。
たった一晩のうちに、自分達を取り巻く運命が大きく変わってしまったようだった。
有無をも言わせぬ力で行われた突然の投獄。
自分達の知らない所で、何かとても大きな力が働いて、大変なことが起きているということだけはわかるのだが、具体的な事が何一つわからない。掴めない。
外では今、何が起こっているのだろう。先に監禁されているルヴァイドは、ゼルフィルドは無事なのだろうか。他の旅団の皆はどうしているのだろう。
これでは、目も耳も塞がれてしまったと同じだ。
捉えようのない恐怖感に胃がひやりとする。……怖い。
そのまましばらくの間、もイオスも、一言も発することが出来ぬままただうなだれるしかなかった。
やがて、繰り返し繰り返し床に落ちる水音を聞き続けた後、先に沈黙を破ったのはイオスの方だった。
「――身体。つらくないか……?」
「……え?」
突然の問いかけに驚いたが顔を上げると、当人の方がよほどつらそうな表情をして、イオスが少女を見つめていた。
「昨夜(ゆうべ)は、……その、すまな……」
「謝らないで下さい!」
突然大きな声を上げて言葉を遮ったに、今度はイオスの方が驚く。
は、いやいやをするように何度も首を横に振った。
「やめて。そんなこと、言わないで下さい」
うつむいたの頬を流れ落ちた黒髪が覆い隠す。
「私は、……後悔、していません」
彼女の口から発せられたのは、細くはあるがそれでもはっきりと、凛とした声だった。
その言葉に迷いの色は無い。
「ゆうべのことは全部、私が自分で決めたことです。あの時言ったことに嘘はひとつもありません。
だから、あなたが謝る必要なんて、どこにもないんです」
「…………」
イオスの口からため息がこぼれる。
口調は気丈だが、イオスには、目の前の少女は今にも泣き出しそうに見えた。
ちいさくふるえ続ける肩。 強い言葉と儚い身体は、あまりにかけ離れている。
少女は頑なに、イオスが何かを言い出すのを拒んでいた。
――怖れていた。
「……イオスさんは、後悔しているんですか」
胸を刺す少女の問いにイオスははっと息をのむ。
ようやく顔を上げたの瞳は、イオスが思った通り、今にも溢れ出しそうなほどの涙をたたえていた。
「いや、なんです。
謝ってしまったら、後悔していることになるでしょう? そうしたら、ゆうべイオスさんがくれた言葉も何もかも、嘘になってしまうんです。
……だから、だから、わたしはっ……!」
イオスが謝ってしまうことをわかっていたから。
だからは、今朝、イオスの隣から逃げたのだ。
――失いたくなくて。
「…………」
長く哀しい息を吐いて、イオスは少女の名を呼んだ。
――今の彼女は、まるで壊れる寸前の硝子細工のようだった。
イオスを受け入れたことではりつめて。それでも、砕け散ってしまわないようにと懸命に護って、こらえている。
イオスは、きつく手のひらを握りしめた。
――言わなければならない言葉があった。
本当は、今朝目覚めてすぐに伝えたかったこと。恋人となった女性に、いちばんに伝えるべきこと。
それは決して謝罪などではない。自分達にはもっとずっと大切な、交わすべき言葉がある筈なのだ。
まだ、間に合うのだろうか。
もう一度、触れることが許されるのだろうか。
「、僕は――……」
イオスが、ふるえる指先を少女へと伸ばす。
だが、その指が白い頬へと辿りつく前に、にわかに外が騒がしくなり、二人ははっと現実に引き戻された。
◆◆◆
怒声と罵声。たくさんの足音。
咄嗟にを背に庇ったイオスは、暗がりから姿を現した男にギリリと唇を噛んだ。
「……キュラー!」
「お待たせしてすみませんね、イオス。さあ、お仲間を連れて来ましたよ。
ほら、さっさと入って下さい!」
牢の鍵を開けたキュラーは、そう言って背後に連なる集団を無理矢理イオスとがいる牢屋へと押し込める。
中に入ってきた見知った顔ぶれに、イオスは双眸を大きく見開いた。
キュラーに背中を押された彼等も、思わぬ先客の姿に驚愕する。
「なっ……お前達! どうしてここに!?」
「イオス隊長!? ――ちゃんまで!?」
キュラーに連行されて来たのは黒の旅団員達だった。
イオスと同じように出頭命令を突きつけられた彼等だったが、突然のそれにはいそうですかと素直に従う程皆木偶人形ではない。そのため、抵抗を試みた何人かは身体に召喚術のものと思われる擦り傷や切り傷を負っていた。
それを見てが悲鳴を上げる。
「みんな、どうして……!? 大丈夫ですか!? 怪我は……っ!?」
「はいはい、静かにして下さい。まったく、これ以上余計な手間をかけさせないで頂きたいものですなあ」
再び重い南京錠を戻したキュラーは、やれやれと肩をすくめて牢の中を見渡す。
そこで彼は、旅団員達の怪我を確認してまわる少女の姿に気が付きほう、と瞳を細めた。
突然真正面から見据えられ、は金縛りにあったかのようにその場から動けなくなってしまった。
「ああ……。貴女が噂の、旅団の姫君ですか。
――初めてお目にかかります、さん。ワタクシはキュラーと申します、どうぞお見知りおきを……」
口調こそ丁寧だが、キュラーはまるで値踏でもするかのように不躾にを眺める。
その瞳の奥に宿る冷酷な光に射抜かれて、知らず、の喉がごくりと鳴った。
手のひらに嫌な汗が滲む。 ぞくりと背筋が粟立った。
会うのは初めてだが、名前は知っている。
キュラー。レイムの腹心。
――トライドラ領主リゴールを暗殺した男――……!
少女の脳裏に、静かに微笑む白騎士の顔が浮かぶ。
この瞬間、は目の前で薄笑いを浮かべる男を敵と見なした。
「――キュラー!」
これ以上彼女をキュラーの目にさらしたくなかったイオスが対峙する二人の間へと割って入る。
キュラーの視界からを背中で覆い隠すと、イオスは鋭い眼差しでレイムの部下であるこの召喚師を睨みあげた。
「これは一体何の真似だ、キュラー!?
何故旅団を拘束する!? 誰の命令なんだ!? 説明しないか!」
だが、激昂するイオスに対し、キュラーはただにやにやと笑うのみで何も答えようとしない。
明らかにこちらを馬鹿にしているその態度に、イオスの頭にかっと血が上った。
説明もないままいきなり牢に押し込められて。
その上、何故ここまでの侮辱を受けなければならないのだ――……!
「キュラー! 貴様あっ……!」
怒りのあまり、イオスは鉄格子越しにキュラーの胸倉を掴む。
その時、誰もいないと思われた正面の牢でひときわ大きな影が動いた。
「……ヨセ、いおす。
コレ以上抗ウト、オマエタチ、マデ……」
がしゃり、がしゃりと金属を引きずる重い音を響かせ、床を這いながら姿を見せたのは、ルヴァイドと共に拘束されている筈のゼルフィルドだった。
その両膝は横から何かで抉られ、ぽっかりと空いた穴から無残に引き千切られた配線が覗いている。
もはや立ち上がることすらままならず、身体のあちこちから不自然な電子音を漏らす機械兵士の変わり果てた姿に、が半狂乱になって鉄格子へと取り縋った。
「いやあああっ! ゼル、セルしっかりして、ゼル!」
「ゼルフィルドッ!? そんな馬鹿な……!」
イオスをはじめ、旅団員達も皆愕然とした表情で向かいの牢に崩れ落ちるゼルフィルドを見つめる。
――鋼鉄の機械兵士。人の手ではそう簡単に傷すら負わせることの出来ない存在である筈のゼルフィルドに、一体何が起こったというのだろう。
誰が。どうして。一体何のために――……!
「――機械兵士の言う通りですよ。
自分の置かれている立場を考えて物を言いなさい、イオス」
荒れ狂う波のような混乱の渦の中に、ひとつの声が降り注いだ。
……とても。とても穏やかでやわらかなその声は、けれど一瞬にして地下牢から全ての音を奪い去った。
硬い靴が石畳を踏むたびに響く足音が、まるで裁きを告げる鐘の音のように近付いて来る。
全員が動きを封じられる中、ただひとり、キュラーだけが現れた主人へと向かいうやうやしく頭(こうべ)を垂れた。
暗闇の中、銀の髪が妖しい光を放つ。
牢の前で歩みを止め、悠然と笑みを浮かべるその男を前に、イオスは折れそうなほどにきつく錆びた鉄格子を握りしめた。
「――レイム……ッ!」
地下牢に現れたのは、キュラーの主であるデグレア軍顧問召喚師――レイム。
黒の旅団全員の怒りと憎悪に満ちた瞳に迎えられた彼は、空気をゆらめかせるほどの殺気を受けてなお、一層その笑みを深めた。
牢の中を見渡し、必要な顔ぶれが揃っていることを確認したレイムは、満足げに一度頷いてからおもむろに口を開いた。
「さて、ご足労ありがとうございます、裏切り者さん達」
「な……ッ!?」
キュラーから告げられていた罪状を改めて元老院議会の代弁者たるレイムの口から突き付けられ、旅団員達は皆一様に言葉を失う。
どうして、といった顔をする彼等を見て、レイムは心外そうに片眉を上げた。
「……おや。聞いていませんでしたか?
貴方達黒の旅団は今、反逆罪に問われているのですよ。
――ねえ、そうですよねえ……?」
身の毛もよだつような恐ろしい言葉を、まるで夢見るようにうっとりと詠みあげて。レイムはゆっくりと後ろを振り返る。
暗闇のさらに向こう。この地下の一番奥にある牢屋から、キュラーがぐったりとした何かを引きずりだした。
湿った石畳の廊下に乱暴に投げ出されたのは、全身に血を纏った満身創痍の男。
それが誰なのかを知った黒の旅団の絶叫が、閉ざされた牢獄へと響き渡った。
「ル――ルヴァイド様ああああああっ!」