call my name
「馬鹿を言うな! そんなことある訳ないだろう!」

 思考を麻痺させるレイムの言葉。衝撃の後に訪れた金縛りと静寂を最初に打ち破ったのはイオスだった。
 少女を抱きしめ、怒りもあらわに睨みつけてくるイオスをレイムは涼やかな笑みを浮かべて見下ろした。

「嘘だと思うのなら、直接本人に聞いてみてはいかがです? ……ねえ、さん……?」

 レイムに名を呼ばれ、の身体がびくりと震えた。
 違う、と否定したいのに。何故かその言葉が紡げない。
 レイムが自分を見ている。視線が注がれている。ただそれだけで、何の前触れもなしには突然全身がすくみあがるほどの恐怖に襲われていた。


 いけない。顔を上げてはいけない。見てはいけない。


 サ カ ラ ッ テ ハ イ ケ ナ イ ――…… !


(……え?)

 がんがんと頭が痛む。勝手に脳裏を埋め尽くした言葉の意味を理解し、ははっと息をのんだ。
 今、自分は何かとてもおかしなことを考えなかっただろうか。

(怖い……!)

 一瞬前までこんな感情はどこにもなかったのに、どうして急にこんなにもレイムの存在を恐ろしいと感じるのだろう。
 あの男が目の前にいるというだけで、顔を上げることも、声を発することも、何もかもが怖かった。レイムはもうずっとここにいたのに、まるで今初めて出会ってはいけない悪魔を見てしまったかのような、そんな錯覚を覚える。

  怖い。こわいこわいこわいこわい――……!


「知り……ません……」

 どこからくるのかわからない恐怖を押し殺して、やっとの思いでが口を開ける。
 ゆるゆると顔を上げたは、ふいに視界に入った己の手首を見て、両の瞳を零れおちそうなほどに大きく見開いた。

 自分の手首に。足首に。いつの間にかぬらりと輝く銀色の鎖が絡みついている。

(何、これ……!?)

 こんなものは知らない。全く身に覚えもない。
 そのおぞましさにひっと息をつまらせ、は反射的に鎖を手から振り払おうとする。
 だが、そんな彼女を嘲笑うかのように、大きな力が鎖を逆方向へと引きか弱い抵抗を封じた。
 恐怖と驚愕に瞳を震わせ、は己を捕らえる鎖の先、力の正体を探ろうと視線を動かす。

「……どうしました? さん……?」

 まるで鎖を伝いすべり落ちるように、銀色の光の向こうから優しげな声が響いた。
 鎖の先にあったのはもうひとつの手。まるで恋人に口づけるかのように、手にした鎖に唇を寄せ笑っていたのは――……。



「――っい、イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 突然鼓膜を打った空気を切り裂くような悲鳴に、イオスは驚いて腕の中の少女を見る。
 つい先程まで黙って震えていた筈のが、まるで狂人のようにかっと双眸を見開き、何事か叫びながら手足をばたつかせていた。

!? おい、どうした、!?」
「取って! これ取って! いやあ! いやああああっ!」
!?」

 落ち着かせようとするイオスの声など聞こえないのか、は髪を振り乱して叫び、とり憑かれたように虚空を手で何度も掻き乱す。
 けれど、どうやって振り払おうとしても、蛇のように絡み付いた鎖は離れない。
 
「鎖、鎖が! 手にも足にも! いや、いやああああ! やだああああああ!」
「鎖!? 何の事だ!?」

 鎖を取ってと泣き叫ぶ。だが、イオスにはその意味がわからない。
 ――イオスの目に映る少女の手足には、彼女が言う鎖など何も見えなかった。

(幻覚か……!?)

 何故いきなりこんな状態に陥ってしまったのだろうと狼狽するイオスをよそに、半狂乱のは自らの手首に爪を立て掻き毟り始める。
 白い肌に血が滲むのを目の当たりにし、イオスは慌てて少女の両手首を掴んだ。

!」

 一体彼女に何が起きたのかわからぬまま、とにかく暴れる少女の気を静めようと、イオスはの瞳を覗き込む。
 だが、そこにあったありえないものに、イオスの動きが止まった。

 
 もう何度も見つめてきた異世界の少女の瞳。イオスの姿を映すその眼は、しかし彼が初めて見る色を宿していた。

 ――深く揺れる瞳の色は、赤。
 涙をたたえた赤は透き通り、すいこまれるように美しかった。けれど、その色は彼女の髪を彩る可愛らしいリボンの赤でも、白い肌に飾ってやりたい輝石のような赤でもない。

 鮮やかすぎる赤。だが、それをイオスはよく知っていた。



 これは、そう。人から流れ出たばかりの鮮血の色――……!



 月を頂く夜のように漆黒だった筈の少女の瞳は、今、血に濡れたような真紅に染まっていた。


「…・…。その、目……」
「……目……?」

 頬を包む手のひらに込められた力に、錯乱状態だった少女はようやく両の瞳の焦点をイオスへと合わせる。
 正気を取り戻してなお変わらぬその色は、これが現のものであることを痛いほど強くイオスに訴えていた。

「ああ。ようやく魔力が浸透したようですねえ。
それは私と誓約を交わした証です。綺麗な赤い瞳だ……さん、よくお似合いですよ」

 呆然とお互いを見つめる二人の頭上でレイムがころころと笑う。

「あか、い、……ひとみ……?」

 自分に一体、何が起こっているのか。
 イオスの言葉も、レイムの言葉も。かけられる声、向けられるまなざしの意味が何ひとつわからぬまま、襲い来る恐怖に今にも押しつぶされそうになりながら、はただすがるようにイオスを見上げる。


「――なにを、した」


 救いを求める少女の細い肩をきつく抱きしめて。イオスの声が、湿った闇にこだました。


に何をしたああっ!」


 召喚獣。変わる瞳。ふるえる少女。哂う男。
 鉄格子の向こうにいるレイムがに何か取り返しのつかないことをしたのはもはや明白だった。

 激昂するイオスに、レイムはおお怖い、とわざとらしく肩をすくめてみせた。

「そんな物騒な言い方はやめてくれませんか。
私はただ、さんの望みに応えただけですよ」
「わたしの、望み……?」

 うつろな瞳のまま、鸚鵡返しに問う少女に、そうでしょうとレイムが銀の髪を揺らして頷く。

「貴女は旅団を救いたかった。けれど力が足りなかった。
私が魔力を貸しましょうと言ったら貴女は喜んでそれを受け入れ、すすんで私に真の名を明かしたではないですか。
さあ、よく思い出して下さい。私は何ひとつ強制などしなかったでしょう?」

 レイムの言葉が、の記憶を数日前の邂逅へと引き戻す。
 誰もいなくなった館でレイムと出会い、力を貸すと言われた。それに頷いた。確かにあの時、全てはが自ら望んだことだ。
 けれど、それとこの状況との繋がりが、にはどうしても理解出来ない。

 愚鈍な反応しか出来ない少女を、レイムは侮蔑のこもった笑みと共に見据える。そして、圧倒的な力を込めて言い放った。

「嫌ですよ。まさか今更、あれが誓約と呼ばれる行為だと知らなかっただなんて言いませんよねえ?
――貴女も召喚師、なのに」
「せい……やく……?」

 名前を呼んで魔力を通わせる、それは確かに誓約の儀式と呼ばれる行いだ。自身もこの世界でその手法を学び、テテをはじめ、もう何人もの召喚獣と誓約を交わしている。

「で、でも! どうして私が……誓約なんて、私は」

 自分はその対象ではありえない。そう叫ぼうとした少女の口をレイムの決定的な一言が封じた。

「……おや。お忘れですかさん。
ご自分が召喚獣だということを」
「――っ!」

 がん、と頭を何かで殴られたような衝撃を受ける。
 まぎれもない真実を突き付けられ、は目の前が真っ暗になった。

 この世界に呼ばれてから一度も、は「召喚獣」という扱いを受けたことはなかった。
 石の誓約に縛られる「彼ら」とは違い、彼女は常に自分の意志で行動する自由を与えられ、リィンバウムの人間と同じ振る舞いを許されていたのだ。

 だから、忘れていた。 自ら何度も口にしてきた真実なのに、それでも忘れていた。


 ――世界の定義では。自分はまぎれもなく異物――「名もなき世界」から呼ばれた「召喚獣」なのだ。


(召喚獣……。召喚獣……でも!)

 絶望に身を投じかけた少女の思考は、だが、そこで最後の希望を見出した。

「待って下さい! 確かに私は召喚獣で、誓約を受ける側にもなります。
だけど、 私はイオスさんに呼ばれたイオスさんの召喚獣です!
だから……だからそうです、あなたと誓約するなんてありえない……!」

 イオスに呼ばれ、この世界に来た。これは彼女を構成する唯一無二の真実だ。
 だからはイオスと結ばれたイオスの召喚獣であり、そこに他の誰かが入り込む余地はない。
 自らの存在意義を思い出し、はようやくわずかながらも落ち着きを取り戻す。
 やはりレイムの言葉は全て戯言なのだ。もう騙されてなるものかと少女は強い光を宿した瞳でレイムを見上げる。
 だが、ようやく立ち上がった彼女の足元は、再び響いた声によって無残にも突き崩された。


「……誓約は、していない……」


 感情を失った、まるで機械のようなそれに、は我が耳を疑った。
 これは誰の声だろう。おそるおそる振り返った先で、能面のように白い表情のイオスと目が合った。
 血の気の失せた彼の唇が、静かに震え出す。

「確かに、君を呼んだのは僕だ。
でも、あれは事故で、魔力の処理の仕方もわからなくて……だから石も割れたまま、そのまま」

 かすれた声に、は言葉を失う。
 イオスの首元に垣間見える金色の鎖が、いやにまぶしく彼女の瞳を射抜いた。
 自身も肌身離さず身につけているあのペンダントの先には、イオスが自分を呼んだ際に砕けてしまったというサモナイト石のかけらが繋がれている。

 彼と交わした言葉の記憶が走馬灯のようにの脳裏を駆け巡る。
 事故だから戻せない。だから帰れない、帰せないと言われた。
 いつかは必ず、と彼は頭を下げてくれたけれど、彼への想いを募らせるうち、そんなことはどうでもよくなってしまって、 むしろ考えたくなくて――そうしていつの間にか忘れてしまっていた、それは本当は「召喚獣」である彼女にとって何より大切なこと。

 イオスの唇が、絶望を紡いだ。


「僕と君は、誓約はしていない――……!」


 がくり、との全身の力が抜ける。
 
 確かに。――確かに彼の言う通り、イオスとは一度も誓約の儀式など交わしていなかった。
 何度も謝られた、元の世界に帰る方法が見つからないという言葉。あれはつまり、正式な誓約を交わす方法が見つからないということを意味していたのに、どうしてそれに今まで気付かなかったのだろう。

 ……否。気付こうとしなかったのだ。

 だって、必要なかったから。誓約なんて交わさなくても、ここにいることがただ幸せだったから。
 戻るための方法なんて、もう見つからなくてよかった。だから、目を逸らしていた――彼も、彼女も。

 ――イオスに呼ばれた。ただそれだけで、はずっと、自分と彼は、決して解かれることのない絶対の絆で結ばれていると思っていた。
 だが、そんな糸は、本当はどこにもなかったのだ。


 誰にも縛られていない召喚獣。
 名前を呼ばれてしまえば、その存在は簡単に誓約の鎖を受け入れてしまう――……!


 それは、覆ることのない世界の真理。



「……何故だ」

 イオスの手が錆びた鉄格子を掴む。
 擦れた皮膚から、赤い血が滲んだ。

「誓約する方法があるのなら、何故僕に教えなかった!」

 血でまだらに染まった手で鉄格子越しに胸倉を掴まれ、レイムは不快そうに眉根を寄せる。

「そんなこと、貴方は一度も聞かなかったではないですか。
だから望んでいないのだと、私はずっとそう思っていたのですよ」

 変な言いがかりはやめて下さいと言って、レイムはイオスの手を乱暴に振り払う。

「もっとも、さんは特殊な世界からの召喚獣です。貴方ごときの魔力では誓約は出来なかったと思いますがね」

 誓約の儀式は、相手の真の名と存在を繋ぎ止める媒体となる石、そして何より魔力を必要とする。
 魔力を通して相手の存在を掴み、この世界に引き寄せるのだ。
 だから、例え名前を知っていても、召喚主の魔力が低ければ相手の存在を見つけることすら出来ず、当然誓約は成り立たない。
 逆に、魔力さえ高ければ、名前や石がなくとも無理矢理誰かを召喚してしまうことが可能なのだ。それ故に、偶然の魔力の高まり、追い詰められた故の魔力の暴走などが俗に言う「事故」を引き起こす。


「そんな……ことって……」

 甘い夢に流され、現実を見ようとしなかった代償がこんな形でやってくるなんて、どうして考えられただろう。
 呆然と石畳にしゃがみこむ少女に、レイムは切なげな視線を向けた。

「ずっと、可哀そうだと思っていたのですよ……?
召喚獣は誰かと誓約しなければ存在が安定せず、本来の力も発揮出来ない。誓約という根を大地におろさなければ、いつ何をきっかけに飛ばされてしまうかもわからないのです。
……だから、望み通り、繋ぎとめてあげたのではないですか」

 優しくやさしく、レイムは少女の瞳の奥を捉え、しみこませるように語りかける。
 最後にレイムは、紅の口許を裂けそうなほど大きく歪めて――哂った。


「貴女はもう、私のモノなのですよ」


 それは、ひとりの異世界の少女の存在が、リィンバウムに正式に受け入れられた瞬間だった。

 レイムに――主に見つめられ、は悲鳴をあげる自由すら許されない。
 嘘だ嘘だと泣き叫んで否定したかった。けれど、本能に刻み込まれた真実が、目の前の男こそが自分の命運を握る全てなのだと告げている。

 硬直したまま身じろぎひとつ出来ないでいる少女に、レイムはふっと表情を緩めた。

「そんな悲しそうな顔をしないで下さい。
今の私なら、そう……貴女を元の世界に戻してあげることも出来るというのに」

 唐突な発言に目を剥いたのはイオスだった。

「な、何を言って……!?」
「当然でしょう。私はさんと正式な誓約を交わしたのです。呼ぶことも、戻すことも出来ますよ。
まあ――名もなき世界への送還はさすがの私も経験がありませんからね。五体満足で、とはいかないかもしれませんが」

 まるでそうなった方が嬉しいとでも言うように、レイムはくつくつと笑う。
 その姿に、イオスは戦慄を覚えた。


 ひとりの人間の命すら自由に弄ぶ権利。 
 誓約とは、こういうことなのだ――……。


 彼女を失うかもしれない。予想だにしなかった運命に、イオスは決して奪われまいと必死にの華奢な身体を抱きしめる。
 庇うように寄り添い合う恋人達を見下ろすレイムの眼差しは、こらえきれない愉悦に溢れていた。
 最後の駄目押しをするように、レイムは震え続ける少女に残酷な審判を注いだ。

「ですが、さん――貴女はそれを望まない。
貴女にとって、ここはいい世界なのでしょう?
そのぬくもりは、貴女が何より欲していたものなのですから」

 ゆっくりと告げられたレイムの言葉に、はっと顔を上げた。
 この男は、一体何を言っているのだろう。
 どうしてそんな、誰にも話したことのない自分の心の奥底を覗いたかのような言葉を謳うのだろう。
 目が合ったレイムは、ただ笑っている。何もかも知っているとでも言うように、笑っている。


 ――何を、知っているというのだろう。


 じわり、じわりと。次第に少女の赤い瞳の奥に広がっていく恐怖をレイムは嬉しそうに眺め、続けた。

「そうやって愛しい人に庇われて護られて……いいご身分のようですが。
元の世界では、貴女は一度だってそんな風に愛されたことはなかったのですよね」
「……やめ、て」

 頭の中に無理やり手を入れられ掻き回されているような錯覚に陥り、は思わず吐きそうになる。
 自分の意思とは関係なく、決して晒したくない感情が勝手に引きずり出されているのが、わかった。

 どうして、と。はレイムを見上げた。

「……なん、で……」


 ――知っているの。


 少女の問いかけは、言葉にならずともレイムに届いたようだった。

「知っていますよ。
貴女のことは、何でも、ね……」

 驚愕に双眸を見開く少女にゆっくりと微笑んで、再びレイムの口が動く。
 この次に告げられる言葉が何であるのかわかってしまったの視界が涙で滲んだ。


 もう聞きたくなかった。思い出したくなかった。
 イオスの胸に抱かれて、優しいぬくもりを覚えて。このままずっと、忘れていたかったのに。


 言わないで。言わないで言わないでそれを言わないで――……!



「元の世界では、誰も待ってなどいないのでしょう?
――貴女の、ことなど」



 ――帰ることは許さない――


 記憶の奥底に封じた筈のつめたい声が、少女の鼓膜を切り裂いた。
 自分の存在を否定されたあの春の日。 二度と思いだしたくなかったその声。


 おとうさん。おかあさん――……。




「いやああああああああああああああああああああ!」

 


 記憶の濁流に飲まれ崩れ落ちた哀れな少女を、レイムは恍惚の笑みを浮かべて見下ろした。