call my name
 忘れたかった思い出が甦る。
 ゆっくりと、ゆっくりと。レイムの声が、優しく優しく少女の頬を撫であげた。

 ――赤い傷を引きながら。


「……私にはわかるのですよ。誓約を交わした召喚獣が抱えている記憶や感情が」

 デグレア軍顧問召喚師。派閥にこそ所属していないものの、おそらく中央エルバレスタ地方で最高クラスの魔力を持つであろう彼は、そう言って己の新しい「僕(しもべ)」を見つめる。

「貴女と誓約した時、すべてを知りました。
かわいそうに……。さん、貴女はずっと、寂しかったのですよねえ?
だからこそ、イオスの手から――この世界からもう、離れられないのでしょう?」
「……ちが……うの……」
「だって貴女は、実の両親に――……」
「やめてえええっ!」
「やめろレイム!」

 が最後の悲鳴を上げるのと、イオスが彼女の身体を庇うように抱きしめたのはほぼ同時だった。
 石畳にうずくまり、両手を耳で塞いで狂ったように首を左右に振り続ける少女と、降り注ぐ言葉の刃から必死に彼女を護ろうとするイオス。
 手遅れであることをわかっていながらなお繰り返されるつまらない寸劇にやれやれと肩をすくめ、レイムはようやく彼等から顔を上げる。


 レイムが見渡す、その視線の先。牢の中にはもはや、絶望しか残されていなかった。


 泣き崩れたの肩を、慰めの言葉一つ見つけられずにただ抱きしめることしか出来ないイオス。
 主人の服の裾にきつく顔を押し付け、涙をこらえる護衛獣。
 床に伏せたルヴァイド、ゼルフィルド。そして黒の旅団員達も皆、少女が捕らわれた残酷すぎる運命に、ただ呆然と彼女の嗚咽を聞き続けるしか術はない。


  存分に行き渡った恐怖と絶望に満足げに微笑んで。レイムは再び堕ちた少女を見下ろした。


「ねえ、さん。
どうして黒の旅団が精鋭と呼ばれているのか、貴女はその理由をご存知ですか?」

 唐突に投げかけられた問い。答える余裕も知識も持ち合わせていないは、うつむいたまま動けない。
 彼女が答えられないことを解っていてあえてその質問をしたレイムは、それでも呆れたように瞳を細めた。

「……軍に属する者は、誰もが簡単に自分はこの国に全てを捧げているのだ、忠誠を誓っているのだなどと口にします。
けれど、そんなものはあてにならない。人間は、簡単に嘘をつき……私を欺く生き物ですからね」

 銀の詩人の口から漏れる長い溜息。
 そこに隠された遠い真実を知る者は――この国にはいない。

「ですから、私は彼等を鎖で繋ぎました――人質という鎖で。
人は、愛する者のためならば何でも出来るようですから」
「……え?」

 初めて聞く話に、は驚いて涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
 慌てて振り向くと、旅団員達は皆、彼女の視線に耐えられないとでも言うように、きつく唇をかみしめ静かに瞳を伏せた。
 沈黙が物語る肯定に声も出せないでいるを見かねて、イオスが低く告げた。

「僕以外は、皆、……家族を」
「う……そ……」


 これが、の全てを打ちのめす、最後の――そして最も酷い真実だった。


 ――旅団の皆が、人質を取られている。
 いつも明るく優しく自分に接してくれていた仲間達。絶やさぬ笑顔の裏に彼等がそんな闇を抱えていたなんて考えたこともなかった。
 だが、これで全てのことに納得がいく。優しい彼等がそれでも犯さねばならなかった罪、残忍な命令を受け入れてきた理由はここにあったのだ。

 皆、護りたいものがあった。だから胸の痛みをこらえて戦っていた。
 自身を犠牲にすることで必死に愛する誰かを護ってきた黒の旅団。


 ……それを。何も知らずに、自分は何をした?


「……っ、あ……!」

 視界から光が失われる。
 己の罪に気付いた少女の指先が震え出す。

 ようやく彼女は気が付いた。自分がどれほど愚かで、どれほど罪深いのかを。
 ……血の涙を流しながら、それでも戦うしかなかった彼等の懐に飛び込んで。
 無知な自分がそこでしたことは――……。


 彼等に、失敗は許されなかったのに。
 それなのに、自分は! 何も知らずに!


「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」

 とめどなく流れ落ちる涙で石畳を濡らして。床に額をこすりつけ、は己の罪の重さに泣き叫んだ。

、違う……! 君のせいじゃない……!」
ちゃん……」

 絶望に擦れた声で、イオスが、旅団員達が、少女の名を呼んだ。

 彼女のこんな姿を、こんな声を聞くために戦ってきたのではないと、胸が張り裂けそうな苦しみに襲われながらイオスが少女の顔を上げさせようとするが、力を失ったは床に伏せたまま動けなかった。

 顔など上げられない。誰の瞳も見られない。
 自分さえいなければ、こんなことにはならなかったのだ。

 これほどまでの罪を重ねながら、それでも今この瞬間、罪の意識から鼓動を止めることもなくそれでもなお生き続けている自分という存在が、は憎くて憎くてたまらなかった。


「――気のすむまで謝りなさい、さん。貴女が優秀だった彼等を乱したことは事実なのですから」

 忍び笑いを漏らしながら、レイムは楽しくて仕方がないとでも言うように、嘆き悲しむ無力な駒達を眺める。

「けれど、これでわかったでしょう? 確かな理由があるからこそ、私は黒の旅団をかけがえのない存在として慈しんでいるのですよ。
そして、貴女も同じです。貴女は誓約という形で自分自身の命を私に差し出してくれましたし・・・…同時に、何より重い足枷でもありますからね。
……そうでしょう、ねえ、イオス……?」

 返事の代わりに、イオスはただ、を抱く腕に力を込める。

 こうなることを恐れていたからこそ、イオスはずっと、少女に自分の気持ちを伝えるのをためらっていたのだ。
 だが、そんな彼の願いは叶うことなく、自分達は予想した通りの最悪の悪夢へと引きずり込まれてしまった。


 逃げ道はもう、どこにもない。


「まったく、少しは感謝して下さいな。
いいですか、さん。私は貴女をこの世界に繋ぎ止め、さらに力まで与えたのです。
貴女の魔力は私に次ぐ……デグレア軍一と言っても過言ではないものです。これで貴方は、皆の役に立てるのですよ……貴女が望んでいた通りにねえ!」
「……何が、望みだ」

 愉悦に満ちた表情で少女に最後の杭を打ち込んでいたレイムの言葉を、ふいに響いた低い声が遮った。
 不快そうに眉根を寄せたレイムが振り返ると、鉄格子に縋りつきながら上半身を起こしたルヴァイドが、乱れた前髪の隙間から鋭い眼光で彼を睨んでいた。

「お前は一体、何がしたいのだ。
我々を試し、消耗させ、ただ悪戯に弄んで……。
あげくの果てににまで手を出して。お前は一体、何が目的でこんなことをしている……!」

 傷だらけの身体に怒りをたぎらせ、ルヴァイドが声を震わせる。
 だが、そんな総指揮官を、レイムは顎を上げてただ嘲笑った。

「嫌ですねえ。だから何度も言っているではないですか、全てはこの国のためだと……」
「偽りを言うな!」

 ルヴァイドの叫びが地下牢にこだまする。
 噛みしめた口の端から血を滲ませながら、ルヴァイドは叫び続けた。

「何故だ。何故こんなにも我々を貶める!? 苦しめる!?
……何故、ここまで……っ!」

 名誉も、騎士としての誇りも、人としての心も。何もかもを踏みにじられ、それでも護りたいもののために国の命令を受け入れてきた黒の旅団。
 命令を下すのも、邪魔をするのも、全てはこの顧問召喚師が仕組んでいることだ。
 まるでただ遊んでいるだけのようにもとれるレイムの狙いが、ルヴァイドにはどうしても理解出来なかった。


 怒りと屈辱で声を詰まらせるルヴァイドを、レイムは冷やかに見下ろす。
 やがて彼は、フッと笑い瞳を細めた。

「……私はただ、この国をもっと良い国にしたいだけですよ。
私にとって、もっともっと良い国にね……」

 うっとりと呟かれたレイムの言葉。
 その真意を皆が測り始める前に、レイムは黒の旅団全員に向かって高らかに言い放った。

「今後、黒の旅団は私の手足として働いて頂きます。
このことは元老院議会も了承済みです。反論は許されません」

 はっと顔を上げた皆が驚いてルヴァイドを見る。
 これまで旅団は、あくまでデグレア軍の一部であり、特定の誰かの私有部隊ではなかった。
 レイムの言葉は、彼等がレイム直属の部隊に堕ちたということを示している。それは、最も辿りたくない結末だった。

 ――数々の不可解な命令を受けつつも、それでも旅団が耐えられたのは、その命令がまだ「元老院議会」、デグレアという国そのものから発せられる勅命だったからだ。それならば、まだ「国のために戦っている」という拠り所を持てる。
 しかし、レイムの傘下に入るということは……そんなささやかな支えすらも奪われ、完全にレイムの駒としてこの男の掌で踊らされることになるのだ。

 だが、実際に議会で老人達の口からこの残酷な決定を聞いていたルヴァイドは、救いを求める部下の視線に対し、ただ「すまない」と瞳を伏せるしかなかった。
 上官の様子に、これが真実なのだと知った旅団員達の瞳が絶望の深淵を映す。

「この先、また今回のようなことがあった場合には、命をもって償って頂きます。
あなた方と、あなた方が護ろうとしている者の命でね……」
「――出来ない!」

 永遠に続くかと思われた悪夢。だが、皆が言葉を失い静まり返っていた牢の奥から拒絶の声が上がった。
 声の主は、病弱な兄を人質に取られている旅団員の青年――アル。顧問召喚師の横暴についに耐えきれなくなった彼は、同僚達の制止を振り切り鉄格子へと飛びついた。

「お前の手足になるなんて絶対に出来ない!
俺達は軍人だ。信頼出来る主の元、命をかけて戦うことが俺達が存在する理由だ。
だが、お前はもう何度俺達を裏切った!? 全てを奪われて……それでも必死に戦ってきた俺達をめちゃくちゃに踏みにじって……!
俺達はお前の玩具じゃないんだ! これ以上お前の好きにさせてたまるか!」

 国のために、家族のために。今までありとあらゆる感情を押し殺してきた彼の――黒の旅団の、それは血の出るような叫び。
 けれど、そんな彼等の最後の抵抗を前にしても、レイムはただ薄く口の端を歪めただけだった。

「……そうですか。では、まず、一人目」

 抑揚のない声音でレイムが呟くと、背後に控えていたキュラーが鉄格子の隙間からアルの頭を鷲掴みにする。
 アルが抵抗する間もなくキュラーが呪文のようなものを呟くと、突然彼は狂ったように暴れ出した。

「ぎっ、ぎゃあああああああああああああああ!!」
「アル!? どうした、アル!?」
「しっかりしろ! アル!!」

 キュラーの爪により刻まれた額の傷から血を流しながら、両手で頭を抱え、アルはごろごろと牢の中を転げまわる。
 もんどり打つ彼の顔がみるみるうちに赤黒く変色していくのを目の当たりにして、駆け寄った旅団員達はひっと息をのんだ。

 額から流れた血が赤い陽炎となってアルの身体を包む。奇声を上げながら石畳の上で暴れるアルの耳が先端が鋭く尖った形へと変貌し、死者のように窪んだ目の周りには幾重にも深い皺が刻まれた。
 耳まで裂けてゆく口から覗く錆色の牙。涎を垂らす唇からほとばしる悲鳴は、次第に咆哮のような響きへと変調する。

 そこにいるものは、もはや人間ではなかった。
 瞳に宿るのは狂気の光。血を欲する飢えた輝き。



 それはまさに、シルターンの悪しき鬼神のような――……。



「やめろ――やめろレイム! それだけはやめろ、やめてくれ、頼む……!」

 渾身の力を振り絞ったルヴァイドが、がしゃん、と鉄格子に身体をぶつける。
 重く鈍い音が響くと、鬼へと変貌しかけていたアルの身体にまとわりついていた陽炎が霧散した。
 すんでのところで人の姿を取り戻したアルの身体を慌てて旅団員達が抱き起こす。

「……ふふっ、そうですよねえ。
自分と同じ苦しみを、部下にまで味わわせたくはないですよねえ」

 くつくつと笑って、レイムはキュラーを下がらせる。
 顧問召喚師が、今後自分達をどう扱っていくつもりなのかをまざまざと見せつけられて、旅団員達の心からとうとう最後の希望の灯が消えた。

 抵抗することも、希望を持つことも。何もかもが無駄だった。


 従っても、逆らっても。彼等には、もはやどうあっても人として生きる道は残されていないのだ――……。



「さあ、愚かな貴方達も、これでようやくわかったでしょう?


ワ タ シ ニ サ カ ラ ッ タ ラ 、 ド ウ ナ ル カ ヲ 」


 暗く寒い地下牢に響くレイムの声。
 それは、黒の旅団への最後の審判だった。


「今後の指示は追って連絡します。
……期待していますよ。貴方達が、これからどれだけ私を愉しませてくれるのかをね……!」

 奴隷の肌に所有の烙印を押すように、彼等の鼓膜に忘れえぬ嘲笑を刻んで。
 牢の中に鍵束を投げ入れると、レイムは部下を従えて地下から姿を消した。





◆◆◆




 地上へと続く長い長い階段を、皆無言で上った。
 一段一段を踏みしめる足取りは、鉛のように重い。

 ようやく辿り着いた外では、雨が降り出していた。

 太陽を奪った灰色の雲。霧で色彩を失った景色。
 霞む視界、痺れた手足。何もかもが曖昧で、あれからどれだけの時間が経ったのか、今がいつなのかさえ、誰にもわからない。

 ただひとつ確かなことは、地下での出来事は全て夢ではないのだということだった。


 悪夢だなんて、生優しいものですらない。
 決して覆ることのない――それは定められてしまった、現実。


「ほら……。あと少しだから」

 列の一番後ろ。イオスに手を引かれ、うつむいたがゆっくりと階段を上る。
 だが、最後の一段に足をかけたところで、彼女は突然歩みを止めた。

……?」

 不審に思ったイオスが振り返る。
 どうした? と引き寄せられた手のひら。

 だが、少女はうつむいたまま、一度だけゆるく頭(かぶり)を振って――繋いだ手を、静かに解(ほど)いた。

 支えを失った少女の身体が、ぐらりと後ろに倒れる。
 黒髪が、音もなく宙に舞って――……。


「――!!」


 とっさに手を伸ばしを胸に抱きこんだイオスは、そのまま彼女もろとも石の階段を転げ落ちる。
 背後で起きた異変に気付いた旅団員達がどよめきながら階段へと駆け戻った。

「た、隊長!? 大丈夫ですか!?」
ちゃんっ!?」

 地下牢と地上とを結ぶこの階段はかなりの高低差があり、落下したら当然無事ではすまされない。
 過去に、拷問を恐れ地下に連行される前にこの階段の入口から身を投げたという囚人の話がいくつもあるのだ。

 幸い、空いた手でイオスが手すりを掴んだこと、そして彼の襟ぐりに飛びついたテテが、戦闘時には岩をも持ち上げる怪力で二人の身体を引き止めたことにより、彼等は地下に叩きつけられることなく、奇跡的に階段の半分程度を転げ落ちただけで済んだ。

「大丈夫ですかイオス隊長……!」
「……平気だ。……すまない」

 大きな怪我こそなかったものの、打ちつけた背中の痛みに眉をしかめながら、イオスは物言わぬ少女の身体を抱き上げる。
 部下の手を借りながら、イオスはようやく地上へと辿り着いた。


 降りしきる雨の中、イオスの腕の中から少女が無事大地へと降ろされたのを見て、旅団員達はほっと胸を撫で下ろす。

 だが、次の瞬間――ぬかるんだ地面にしゃがみこんだまま動かないの頬にイオスの平手打ちが飛んだのを見て、皆の顔から一斉に血の気が引いた。

 
「た、隊長!?」
「何してるんですか!」

  突然の上司の凶行に目を剥く旅団員達を振り向きもせず、イオスはうなだれたまま顔をあげようとしない少女の肩を掴んだ。

「……どうしてだ」

 搾り出したようにかすれた低い声が少女に問う。
 イオスの声は、ただ純粋な怒りに満ちていた。

「どうしてわざと手を離した!?」

 上司の口から飛び出した予想外の言葉に、周囲を取り巻く旅団員達の表情が戸惑いから驚愕へと変わる。
 まさかそんな、と皆の視線が未だ微動だにしない少女へと注がれた。

「手を離して落ちたらどうなるかくらい君だってわかるだろう!?
どうしてあんなことをしたんだ……答えろ!」

 イオスの糾弾を受けてもなお、否定も肯定もしない無反応な少女の肩を、たまらずイオスが強く揺さぶる。
 とうとうイオスは叫んだ。


「どうしてだ!? 死にたいとでも言うのか、君は!」


 灰色の空の下。イオスの叫びがつめたい雨とともに大地へと降り注ぐ。
 だが、怒りに任せて自ら口にしたその言葉に、イオスははっとして目の前の少女を凝視した。

 彼女が、自分の手を離した。それがただ悲しくて悔しくてどうしようもなくてその白い頬を打った。


  ……けれど。今の彼女は、持っているのではないか?

 自分の手を離したくなる理由を。



 ――死にたくなる程の、理由を――……。



「…………」

 ふるえる声で、イオスが少女の名前を呼ぶ。

「……

 雨に濡れ、額に張り付いた黒髪をそっと撫でる。
 細いあごに触れ、そのままゆっくりと顔を上げさせると……ようやくイオスと目を合わせたの赤い瞳から、透明な涙が溢れ出した。


「わ……たし……の、せい……だから……」


 寒さで紫に染まった少女の唇がわなないた。

「だって、全部、私のせい……でしょう……?
私が、みんながどんな気持ちで戦っていたかも何も知らないで、ただレイムさんに利用されたから、こんなことに……。
私さえいなければこんなことにはならなかったんです! ねえそうでしょう!? 私のせいでしょう!? 私がいたから悪いんでしょう!?」

 雨は、いつしか強さを増していた。
 滝のように降り注ぐ雨音に、己を断罪する少女の絶叫が吸い込まれる。

「私はもうここにいちゃいけないんです!
これ以上迷惑をかける前に、私、わたしは……!」

 消えなくちゃ、と叫ぼうとした少女の口は、押しつけられたイオスの胸に塞がれた。

 の身体をきつく抱きしめるイオスの肩が小刻みにふるえている。
 うなじを、雨とは違う温かな何かが伝い落ちたような気がしたが、それが何なのか、にはわからなかった。


「……違うんだよ、ちゃん……」

 イオスに抱きすくめられたまま動けないの横に、ひとりの旅団員が膝を折る。
 そうじゃないんだよ、と。彼――アルの親友であり、母代りに自分を育ててくれた姉をレイムに囚われているカイトは、うつろな瞳の少女に語りかけた。

ちゃんは何も悪くないんだ。
だって、俺達はわざと……俺達の事情を、ちゃんに知られないように、隠していたんだから」

 カイトの言葉に、周りを囲む旅団員達が静かに頷いた。

「……俺達はね、皆、没落貴族の出身なんだ。
元老院議会に睨まれて、粛清を受けた貴族の生き残り」

 デグレアを支配する絶対権力、元老院議会。圧倒的な支配力を持つ大貴族が、聖王国への妄執に取り憑かれるがままに政治を独占する機関だ。
 この国がまだ帝国と分裂する前から系譜に名を連ねる旧王国の遺臣――大貴族と、彼等の機嫌を損ねないよう水面下で必死に模索しているその他の貴族達、さらに、そんな権力争いの糧の為に高い税金を取られ苦しい生活を強いられている一般市民――これが、現在のデグレアの内情だった。

 黒の旅団は、そんな渦巻く陰謀に巻き込まれ議会による処刑を受けた貴族の遺児で構成されている、特殊な集団だった。

「両親や親族を殺されたことに関しては、別に今更国への恨みも何もないんだ。
正直、かなり汚いこともやっていた人達だったし……子供は邪魔になるからって、物心つく前から田舎に預けられていたせいで、親の顔もろくに覚えてないしね」

 複雑な星の元に生まれた子供達が住む貴族の別宅が多い町で、彼等は少年時代を共に過ごした。
 実の両親よりも長く時を共有してきた仲間だからこそ、黒の旅団の結束は固い。
 腐れ縁なんだよと言ってカイトは小さく笑った。

「でも、いざ身寄りを失ったら、生活する術すら持たない俺達は、一緒にいた兄弟とただ途方に暮れるしかなかった。
引き取ってくれるような知り合いもいないし、今更市井に下っても、力を失った元貴族なんて一般市民から見れば屑も同然だからね……まともな職に就くことも出来ない。明日のパンにすらありつけない生活が待っていたんだ。
だから、俺達に残された道は、軍しかなかった」

 デグレアでは、軍人は貴族に次ぐ身分を持つ上に、 功績をたてる程にその扱いも上がっていく。
 だから、生き残った兄弟、姉妹との生活を護る為、彼等は戦いに身を投じた。


 幾度となく命を危険にさらしてきたが、それでも国を背負って戦うことに次第に誇りと喜びを感じるようになった。
 ――苦ではなかった――その頃は、まだ。


「そんなある日、あの男……レイムが、言ったんだ。
家名と貴族階級の身分の存続、そして、俺達と血縁者に対して未来永劫一切不自由の無い生活を国が援助する代わりに、特務部隊……黒の旅団に所属しないか、って」

 没落貴族の末裔である自分達にはあまりに甘すぎるその条件に 、おそらく並大抵の人間には任せられない、厳しい任務を強いられるであろう事は始めから予想していた。
 それでも、かけがえのない肉親の生活の安定が保障されるのなら、そして、どれだけ遠くてもいい、この先の未来に平和な 日々を夢見ることが出来るのならと――彼等はその誘いを受け入れたのだ。


 それが、悪夢の始まりだとも知らずに。


 次第にエスカレートしていく任務内容に耐えきれず旅団員達が抗議したある日、自分達の家族が人質にとられたことを知った。
 全ては罠だったのだと気付いた時にはもう手遅れだったのだ。

 そして、逆らう術を奪われ茫然自失の彼等に下された命令こそが、あの忌まわしき任務――聖女の捕獲と、レルム村の殲滅だった。

「殺さなきゃ殺される。そう思って、あの村を滅ぼしたけれど ……。逃げ惑う村人を背中から斬り捨てた時点で、俺達の心はもう限界だった。
そんな時、ちゃんが現れたんだよ」

 イオスに呼ばれた名も無き異世界の少女。
 何も知らない彼女は、何も知らないからこそ、デグレア軍内ですら異端扱いされ、ただの人殺しにまで堕ちた自分達に笑いかけてくれた。
 血で穢れた自分達を、それでも信じて、いつも一緒にいてくれた。

 旅団員達にとって、彼女は絶望の中で見つけた最後のやさしい光だった。

ちゃんが作ってくれる温かい食事とか、おかえりなさいって迎えてくれるのとかさ、本当に嬉しくて。
ちゃんがいてくれれば、俺達はまだ……人間でいられるような気がしたんだ。
……だから、知られたく、なくて……」

 何も知らないまま、ただ、日の光の下にいる自分達だけを覚えていて欲しかった。
 けれどそれは、叶わぬ願いとなってしまった。

 黒の旅団の最後の希望。せめて護りたかったものにすら――あの顧問召喚師は哂いながら牙を剥いたのだ。

 巻き込んでごめん、と、最後にそう呟いてカイトがうなだれる。

「あ、あやまらないで、下さい……。
みんな、何にも、悪くないのに……っ!」

 しゃくりあげながら、は何度も何度も首を横に振った。
 こんなに追いつめられても、それでも優しい彼等に、自分は一体どうやって償えば良いのだろう。
 ごめんなさい、ごめんなさいと再び涙声で謝罪を繰り返し始めた少女の耳にイオスが囁いた。


「――。よく聞くんだ」


 きつく抱きしめていた少女の身体をよくやく離したイオスが、雨と涙に濡れた少女の頬をぬぐった。

「君には何も罪はない。悪くない。
一番悪いのは……君をこんなことに巻き込んでしまった、僕だ」

 イオスの言葉にが絶句する。
 瞠目する少女の瞳から目をそらさずに、イオスは続けた。

「君をそばに置いたら、いずれレイムに利用されることはわかっていた。
危険だってわかっていながら、それでも僕は、君を離すことが出来なかった。
ただ一緒にいたくて、どうしようもなくて。
……だけど、そんな我儘のせいで、君をレイムに……」

 ルヴァイドを、部下達を見て、嫌という程理解していた筈の顧問召喚師の手口。
 大切だからこそ、イオスは一刻も早くを自分の傍から遠ざけなければいけなかった。
 それなのに、この小さな手のぬくもりを常に感じていたいと願った。いつでも自分の横で春風のように微笑んでいて欲しいと願ってしまったのだ。


 我儘な願いを押し通した上に、予測していた悪夢から彼女を護ることさえ出来なかった。
 全ての元凶は自分にあるのだと知っていながら目をそらしていた彼の、これは彼女への懺悔。


「それに。
僕が、君を呼ばなければ……あんな事故さえ起こさなければ、君はこんな世界なんて知らずに――……!」
「イオスさん……!」

 イオスの胸に飛び込んで、が彼の言葉を止めた。
 濡れた服に額を押しつけて、少女は何度も首を横に振る。

「そばにいたかったのは私も同じです! 離れろって言われてもきっと離れられなかった!
この世界に呼ばれたこと、イオスさんに呼ばれたこと、私は後悔していません……だからお願い、そんなこと、言わないで…・…!」
「…………」

 すがるように抱きついてきた小さな身体を、イオスは再びきつく抱きしめる。

「ごめん、ごめん……。
だけど、頼む……頼むから、死にたいなんて思わないでくれ。
君を失ったら、僕はどうすればいい……!?」

 あの惨劇の夜から始まってしまったこの想いが、決して自分達を幸せにはしないとわかっていた。
 彼女を傷つけられてもなお愚かな我儘に囚われ続ける自分に吐き気を覚える。最も罪深いのはやはり自分なのだ。
 それでもイオスは、どうしてもにそばにいて欲しかった。


 何を、犠牲にしても、もう離すことなど考えられない。だから、レイムの呪縛から逃れられない。
 を巻き込んで、自分が完全にレイムの手の内に堕ちたことを、イオスは認めなければならなかった。

 愚かな彼を断罪するように、雨は強くその背中を打ち続けた。







◆◆◆






 雨は一向にやむ気配を見せない。
 水音だけがこだましていた中に、やがて厳かな声が響いた。

「――覚悟を、決めなければならない」

 両脇を部下に支えられながらようやく立ち上がったルヴァイドが、皆の顔を見渡した。

「本当は、俺がお前達を護ってやらねばならなかったのに、全てをあの男に握られてしまった。
指揮官失格だ……お前達にはどれだけ謝っても足りない」
「ルヴァイド様……!」

 ぼろぼろに傷つけられた身体で頭を垂れる上司の姿に、旅団員達の胸が塞がれる。
 ややあって、静かに顔を上げたルヴァイドは、何かを決心するかのように一度大きく息を吸い、続けた。


「それでも、我々にはまだ、失いたくないものがある。……残されている。
そのためにはもう甘えは許されぬ。
おそらく、二度とは這い上がれぬ奈落の底へと突き落されるのだろう。

それでも…・…それでもお前達は、まだ――ついて来てくれるか……?」


 部下ひとりひとりの顔を順に見つめて、ルヴァイドが問う。
 反対する者など誰もいなかった。
 皆、唇をかみしめ、ふるえる拳をきつく握りしめながら、迷うことなく頷く。

 旅団は皆、同じものを抱えている、 運命共同体なのだ。
 愛しい囚われ人の命も、仲間の命も、護りたい。これ以上何も失いたくない。それが全員の願いだった。

 揺るぎない決意を濡れた瞳に宿す部下達に、ルヴァイドはもう一度頭を下げた。


「――すまない……」

 

 天から降り注ぐ雨が、立ちすくむ彼等の身体を無情に打ち続ける。
 けれど、つめたい雨は、彼等の頬を伝う涙を隠すという、たったひとつの優しさだけは持ち合わせていた。

 雨音にひとつ、またひとつと嗚咽が混ざってゆく。


 この雨が過ぎれば、デグレアは一気に秋の気配を増す。
 短く儚い秋の向こうにあるのは長い長い冬。暗く厳しい季節が、かなしい運命を孕んで自分達を待っている。
 それらを迎える前に、彼等は最後に一度だけ――泣かせてほしかった。


 イオスの背中越しに、小刻みにふるえる皆の肩を見つめながら、はそっと呟いた。


「もう二度と、裏切りませんから――……絶対に……」


 彼等の涙を、背中を目に焼き付けながら、もう決して迷わないと、は心に深く決意を刻む。
 
 レイムに繋ぎ止められた身体。証の代償である瞳と、力。
 自分の未来がどうなるのかさえ、にはわからない。

 それでも。この先何があっても、ただ彼等旅団の――イオスの背中だけを追いかけて行こうと思った。
 それだけが、自分に出来る唯一の贖罪なのだ。

 どれだけ血を流してもいい。どこまで非道に堕ちてもいい。
 いつか遠い街で出会ったあの人達のことはこの雨に溶かして忘れよう。
 自分にはもう、いらない記憶と思い出。消してしまえば、再びあいまみえた時、迷わずこの手にかけられる。 些細な感情のせいで同じ過ちを犯すのはもうたくさんだった。



 黒の旅団が歩む道だけが自分の全て。だから、他の世界など、いらない。



 ずっと一緒に行きます、と。
 滲む視界の向こうに静かな誓いを立てて。少女は、彼女が護りたいもの――イオスの身体をきつく抱き返した。




第19夜 END