欲しかったものはたったひとつ。
けれど、当たり前であるはずのそれは、彼女だけを避けるようにその世界に降り注いでいた。
決して手に入らないもの。無償で与えられる筈の、それは家族からの愛情。
やがて、声を殺して泣くことを覚えた時、自分の中で何かが静かに歪んでしまったのかもしれないと、は振り返る。
◆◆◆
「それでは、時間ですので私はこれで失礼しますが……。
お嬢さん、まだ休まれないんですか? 旦那様は学会ですし、奥様も医師会の集まりがあるそうですから、今日はもうお帰りにならないかもしれませんよ?」
「うん……。 でももうちょっとだけ起きて待ってみる。
ありがとう久江さん。おやすみなさい」
心配して遅くまで残ってくれた家政婦を笑顔で送り出し、リビングに戻ったは大きく息を吐いた。
時計の針はまもなく午前0時をまわろうとしている。
ソファに沈み込んだ少女の手に握られているのは細長い紙切れ一枚。「中間テスト成績書」と記されているそれには、学年順位「一位」の文字がしっかりと刻まれていた。
高校受験対策に力を入れている有名私立中学へと進学させるつもりだった両親の反対を押し切り、小学校からの友達がいる地元の公立中学を選んだのはこの春のこと。
初めて両親に逆らってしまった後ろめたさにずっと悩んでいただったが、中学最初の試験では、こうして結果を出すことが出来た。
今の学校でも頑張れるのだと、両親の期待を裏切らずきちんと頑張っているのだということを、は一分一秒でも早く両親に知らせたかった。
微笑んでくれなくてもいい。頭を撫でてくれなくてもいい。
それでも、ただ、頑張ったねと、その一言が聞きたくて――……。
明け方。ようやく帰宅した母に嬉々として報告をしただったが、母はさほど興味もなさそうに成績書を一瞥しただけだった。
「……こんなの当たり前でしょう。あんな学校で一番を取れなくてどうするの。
それよりも次の校外模試はいつなの? 必ず受けるのよ?
三年なんてすぐなんだから、今から東都大附属の受験を意識して勉強しなきゃ何にもならないのよ」
そう言って、顔に濃く疲労の色を滲ませた母は、娘にそれ以上の言葉をかけることなく自室へと消える。
玄関に立ち尽くした少女が握り締めた成績書の文字が、静かにこぼれ落ちた涙で滲んだ。
◆◆◆
物心ついた頃から、は家族の団欒というものを経験したことがない。
父は大学で生物学を教える教授であり、母は外科医として大病院に勤めていた。
忙しい両親は週に一度家に帰るか帰らないかという生活で、はいつも、家政婦が作ってくれる夕食をたったひとりで食べるという毎日だった。
小遣いだけは毎月豊潤すぎるほどの額を与えられていたため、欲しいものは何でも買えたし、広い家はよく友人に羨ましがられた。
けれど、例えば――今日学校で何があった、とか。友達とこんな話をした、とか。一緒に食卓を囲んで、リビングでテレビを見ながら、そんな話をしてくれる存在が……「おとうさん」「おかあさん」の方が、はずっとずっと羨ましかった。
父や母が唯一自分に興味を示してくれること、それは学校の成績に関することだった。
だから、は勉強した。
他に、彼らに振り向いてもらえる術がわからなかったのだ。
――頑張れば、いつかは。
それだけを呪文のように何度も何度も唱え続けて。家族の気配を纏わない家の中、少女はひとりで必死に教科書の文字を追い続けた。
◆◆◆
「え? 卒業旅行、行くの? ……みんなで?」
高校受験本番も終わり、後は合格発表を待つのみとなった卒業式間近の教室。友人達の話に、は何度も目を瞬いた。
驚くに、少女達は「しまった」と顔を見合わせる。
「……うん。明日ね、みんなでディズニーランドに行こうって」
「え……ま、待って。私聞いてないよ……!?」
寝耳に水の話にうろたえると友人達の間に気まずい沈黙が流れる。
やがて、中のひとりが、意を決したように口を開いた。
「だってさあ。……、いつも勉強があるからって早く帰るし、日曜日に誘っても塾がどうこう言って遊びに来ないし……。
いつもそんなんじゃあ、もう誘ったって仕方がないって思うじゃん?」
「は、頭、いいもんねえ。 どうせ高校も違うんだし……。やっぱりあたしらとは違うよねえ」
リノリウムの床がぐらりと揺れた気がして、は倒れそうになる身体を懸命に支えなければならなかった。
――友達だと思っていた。
勉強に追われ、両親からのプレッシャーに耐える日々の中で、彼女達と話をしている時間はとても楽しく、にとってかけがえのないものだった。
確かに、放課後や休みの日はどうしても塾があって、だから一緒にどこかに出かけたりとかは出来なかったけれど、それでも、友達だと思っていたのに――……。
呆然とするを気まずそうに見やって。ひそひそと何かをささやきあった彼女達は、まあそういうことだからと言って逃げるように教室を後にする。
両親の言いつけを守った。けれど、友達は離れて行った。
自分と彼女達と、何が違ったのだろうか。
――他にどうすればよかったのだろう。
放課後、誰もいない教室の片隅で、はひとりうずくまる。
待てども待てども、その背中に声をかけてくれる「誰か」が現れることは、なかった。
数日後。失意のまま迎えた第一志望の高校の合格発表の日。
――の手元に届いたのは、「不合格」の通知だった。
◆◆◆
「一体どういうことだ! お前はちゃんとを勉強させていたのか!?
お前が仕事ばかりで家にいないからこんなことになるんだろう!」
「私のせいにしないでよ!
だいたい、この子を公立中学に行かせたのはあなたじゃない! あんな学校に行かせたから悪いのよ!」
リビングのテーブルに叩きつけられた通知書を挟んで、父と母が声高に言い争う。
が受けた学校は、彼女の――両親が望む名門大学への高い進学率を誇る、都内でもトップクラスの高校だった。
それでも、模試では常に合格圏内に入っていたし、当日の試験でも手ごたえはあった。
……それなのに、どうして不合格なのか。この結果が一番信じられないのは他でもない、自身だった。
ショックのあまりソファに座ったまま立ち上がることすら出来ない彼女の頭上では、罵り合う両親の声が飛び交っている。
――悲しむ娘への労わりの言葉は、ない。
気の遠くなるような時間を経て、父は長い嘆息の後、ようやく動かない娘を見下ろした。
「……静波学園には、確か学生寮があったな?」
滑り止めとして受けた高校の名前に、はやっとの思いで頷く。
そんな彼女に父が告げた言葉は、にわかには信じられないものだった。
「四月から、お前は寮に入れ」
突然の宣告に、は耳を疑った。
「……な、なんで……?
静波はうちからでもじゅうぶん通えるのに……」
ふるえる声で意義を唱える娘に、眉間の皴を深くした父は激昂した。
「前にも言っただろう、教授仲間でお前と同じ学校を受験した子供がいる家がいくつもあると!
うちだけ落ちただなんて、お前はどこまで私に恥をかかせれば気が済むんだ!
いいか、お前は静養のため田舎に行ったということにしておく。三年後、東都大に受かるまでこの家の敷居はまたがせないからそのつもりでいなさい!」
勘当も同然の扱いに、は目の前が真っ暗になる。
何故、第一志望に落ちただけでこんなことになってしまうのだろう。
滑り止めの学校も立派な進学校である。どうして、そこで頑張るだけではいけないのだろうか。
「お、おかあさん……!」
救いを求めては母の腕にすがりつく。
だが、最後の望みをかけた娘の手を、母は乱暴に振り払った。
「だからあれ程言ったでしょう、頑張りなさいって! あんたが必死にやらないからこういう結果になるのよ!
いつもいつもあんたのことでお父さんに怒られるこっちの身にもなって欲しいわ……よく反省しなさい!」
母のヒステリックな叫び声がリビングに響き渡る。
その声を聞いて。ああ、とはようやく理解した。
……誰も。助けてなど、くれないのだ。
まだ何かを言い合っている両親の声が、まるでどこか遠い場所のノイズのようにはっきりと聞き取れない。
ぼんやりと揺れる視界の中、は、自分の心が急速に冷えてゆくのを感じていた。
――ずっと。父も母も、自分が頑張ればいつかは認めてくれるのだと、そう信じていた。
だが、彼等が求めているのは努力ではなく、結果だけ。過程などどうでも良いのだ。
心の隅で、もしかしたらと気付いていたこと。けれどずっとずっと必死に気付かないふりをしていた現実が、とうとう少女の目の前に形をもって現れ、彼女を押しつぶす。
どれだけ頑張っても、何をしても。望むものは手に入らない。
結局。両親は、学歴という見返りがなければ、自分のことなどどうでも良いのだ。
……親として。ひとり娘をただ愛してはくれないのだ――……。
桜のつぼみがほころび始める春の日に、少女は、自分には何もないことを知った。
友達もいない。家族も、いない。誰から求められることもない。
望まれない、価値のない存在――……。
「ごめん、なさい……」
何ヶ月ぶりかに家族全員がそろったリビング。
家族団欒の象徴である筈のその場所で、最後にはそう呟いた。
◆◆◆
少女の横顔を茜色の光がやわらかに照らす。
語られる過去とは裏腹に、その表情は驚くほど穏やかだった。
口許に笑みさえ浮かべて、は自嘲するように肩をすくめてみせた。
「……別に、例えば……食べるものや住む場所に、生きることそのものに不自由していたわけじゃなくて。
むしろ、何の苦労もせずに育ってきて、とても恵まれていて。
だから、自分がとてつもなく贅沢で我儘なんだって、わかっているんです」
でもね、と。ここで初めて、少女の顔がゆがんだ。
「だけど、私、どうしてもわからなくて。
なんで、お父さんもお母さんも、たったひとことでいいから、私に優しい言葉とか、かけてくれないんだろうって……。
二人の期待に応えられなかった私が悪いんだってわかってるけど、だけど私なりに精いっぱい頑張ってきて、いつかは認めてくれるはずって必死に頑張ってきて、なのに二人とも、私のことなんて、何も見てくれなくて……」
次第にふるえてゆく声。
嗚咽が漏れることを恐れ、白い手が赤くなるほどにきつく、少女は己の口許を抑えつける。
そうして肩だけをふるわせ、誰にも悟られないように静かに泣く。
ちいさなその背中が、イオスの胸をしめつけた。
……どうして。この子はこんな泣き方しか出来ないのだろう。
「……」
たまらなくなって、イオスは思わず少女の肩に手をかける。
力を込め、無理矢理に振り向かせると、目線がぶつかったの瞳からは堰を切ったように大粒の涙があふれだした。
「……ずっと、わからなかった、の」
優しいイオスの瞳が、大丈夫だよと言っているようで。の唇がわなないた。
「な、なんで、ね。
か、家族、なのに。
どうしてわたしは、見返りがなければ、愛してもらうことが出来ないんだろうって――……! 」
怒られても良かった。団欒なんてなくてもよかった。
それでも、ほんの少しでいい。たった一言でいい。血のつながった娘として愛していることを教えて欲しかった。あたたかい腕で抱きしめて欲しかった。
血を受け継ぎ生を受けたその瞬間から、無償で注がれる筈の両親からの愛情。いたわり、いつくしみ。
何故、自分だけがそれを受けることが出来ないのか、それは自分が悪いのか、誰が悪いのか、考えても考えても分からなくて、やがて少女は己の価値を見失った。
期待し傷つくことを恐れた彼女は、己の意見を封じ込め、偽りの笑顔を張り付かせることを覚えた。
心の内を明かせる友人もいなかった。……話しても、どうせ理解などしてもらえないからだ。
波風を立てずに、教室の中でだけ、ゆるやかに笑い合う。それだけでじゅうぶんだった。
そうして常に虚無を抱える日々の中、もう誰にも期待しないと決めていた筈の少女は、彼女に唯一笑いかけてくれた委員会の先輩に恋をしてしまった。
まっすぐに自分を見つめ、とびきりの笑顔を向けてくれたその人に、愛情をもらえるかもしれないと期待した。けれどやはり願いは叶わなくて、どこまでいっても自分は愛されないのだと、ひとりぼっちなのだと思い知る。
――けれど。本当はずっと、誰かにわかってほしかった。さみしい心を埋めて欲しかった。
わたしを愛してと、いつだってそう、泣き叫びたくて――……。
頬に幾筋もの涙の跡を刻みながら、それでもは口をきつく引き結んだまま声を堪えている。 まだ、泣くことはいけないことなのだと、自分は泣いてはいけないのだと、全身でそう訴えている。
つめたい風に飛ばされまいと、華奢な二本の足で必死に立っているその身体を、イオスはきつく胸に抱き寄せた。
「――泣いて、いいよ」
耳元でそっと囁かれた言葉に、ははっと双眸を見開いた。
硬直する身体をあたためるように、イオスは少女の身体を深く深く抱きしめる。
自分に何が起こったのかわからなくて、少女は混乱の余り気が遠くなりそうだった。
記憶がぐしゃぐしゃに混ざり合って、今目の前にいる人が誰なのかさえわからなくなる。
自分をこんな風に抱きしめてくれる人なんているわけがないと誰かが囁く。
だが、再び孤独の悪夢に身を委ねかける少女を、はっきりとした声がすくいあげた。
「」
夢ではない、鼓膜をふるわせるイオスの――声。
名前を呼ばれたその瞬間、の中で、ずっと堪えていたものがとうとう音を立てて崩れた。
あたたかい腕。自分を呼んでくれる声。
ずっとずっと望んでいたものが、今、ここにある――……。
ふるえる指先を懸命に動かして、少女はそっと、イオスの服の裾を掴む。
辿りついた彼の身体の温かさが、手のひらから伝わってきて。 やっぱり、夢ではなくて。……そして。
「う――うわああああああああああああん!」
夕日が沈む、少し前。
紺と橙と白い月が滲む空の下。
は十七年分の悲しみをすべて洗い流すかのように――声をあげて、泣いた。