call my name


「……ごめんなさい。イオスさんの上着、濡らしちゃった」
「別にいいよそんなこと。……鼻水つけた?」
「――っ!? つ、つけてませんっ!」

 涙の跡の残る頬を撫でてやりながら、イオスは顔を赤らめる少女を笑う。
 ようやく泣きやんだは、ふう、と息を吐いてイオスを見上げる。その表情はどこか憑きものが落ちたかのように晴れやかだった。

「ありがとうございます。……聞いてもらえて、嬉しかったです」
「僕のほうこそ。君のことを知れて、嬉しかったよ。
話してくれてありがとう。
……やっぱり、好きな人のことは、すべてを知っていたいからね」

 そう言って、イオスはまるで少年のように屈託のない笑みを浮かべる。
 大好きなその笑顔は、まるで春の日差しのように優しくを包み込んで。つられてふわりと微笑んだだったが、ゆるく弧を描いた筈の桜色の口許から、ふっと笑みが消えた。
 太陽が雲に隠されてしまったかのように急に陰りを帯びた少女の表情に、イオスは一抹の不安を覚える。

「……?」
「……どうして」

 ずっと握りしめていたイオスの服の裾からそっと手を離して。は震える声で呟いた。

「どうしてイオスさんは、そんな風に簡単に、私のことを好きだって、言えるんですか?」

 声に出してしまってから、はその言葉の残酷さに気付き、はっと顔を上げる。
 思った通り、イオスの紫玉の瞳が悲しげに揺らぐのを見て、少女は慌てて首を横に振った。

「違うんです。イオスさんの気持ちを疑ってるわけじゃないの。
そうじゃないの、そうじゃなくて……そうじゃなくて・・・…!」

  混乱し、両手で顔を覆って幼子のように首を振り続けるの両肩を、そっとイオスの手が包んだ。

「……

 この少女は、人の顔色を窺うあまり、自分の正直な気持ちを伝えるのが上手くない。
 それを、イオスは彼女の数少ない欠点だと密かに嘆いていたのだが、 その原因は彼女の過去にあるのだとようやくわかったイオスは、ゆっくりと、あやすように何度も震える彼女の背中を撫でた。
 ずっとずっと、自分の言葉を押し込め続けてきた。重い枷をからめて沈めていた彼女のたくさんの想いを、イオスはこの手で解放してやりたいと強く願った。

「大丈夫だよ。ゆっくりでいいんだ、 焦らないで。
僕はここにいるから。どんなことでも、最後まで聞くから。
君が何を言っても ……この手を離さないから」

 そう言って、イオスは少女のちいさな手のひらをきつく握りしめる。
 少し痛いくらいのその感覚が、今のにはとても心地よかった。

 耳元で紡がれるイオスの声。悪夢に怯える子供の耳に届く、それは子守唄のような救いの呪文。

 そのぬくもりを全身でかみしめて。やがて、はぽつりぽつりと話しだした。

「私、怖いんです。
どうしてあなたが、私なんかのことを好きになってくれたんだろうって。
いつまで、私のことを、好きでいてくれるんだろうって……」

 の手が、イオスの手をぎゅっと握り返す。
 その仕草は、そうしなければ彼が消えてしまうとでも言うような、すがりつくような必死さを帯びていた。

「イオスさんは、世界でいちばん優しくて、きれいで。
本当なら、私なんかに手が届く人じゃないんです。
……本当に私、今が、夢みたいなの」

 そう言って、は力なくうなだれる。

 振り返えらずにはいられない美しい容姿。敵国で一人生き抜いてきた強い心。誰より気高く、けれど仲間を想い涙する優しさを忘れない、あたたかいひと。

 皆に慕われているイオス。必要とされているイオス。そんな彼が、何故自分のような地味で何の取り柄もないような存在を心に留めてくれたのか、それがは未だに信じられなかった。

 生まれた世界ですら誰にも愛されなかった自分が、こんなにも眩しく輝く人に愛されたという奇跡。

 言葉だけではない。触れる指が、伝わるぬくもりが、間違いなくこれは真実で現実なのだと教えてくれている。けれど、だからこそ――この夢のような幸せが長く続くとは思えなくて、その果ての日を、は怖れた。


 ――夢は、いつかは覚めてしまうものだから。


「この世界に来て、私はイオスさんからたくさんの大切なものをもらって。
だけど私には……あなたにあげられるものが、何もない」

 彼を繋ぎとめる魅力を、術を持たない己を、は心から呪わしく思った。

「こわいの。
どうしたら、あなたがずっとそばにいてくれるんだろうって。どうしたら、あなたがずっと、私を好きでいてくれるんだろうって、わからなくて、不安で。
……いつか、あなたが、私から離れてしまう日が来るかもしれないって……今が幸せすぎて、その日が来るのが、たまらなくこわいの……!」

 どうして、と理由を求めても明確な答えなど得られない。それが恋というものだ。
 未来を怖れても仕方がないのだと、それもわかっている。
 けれどは、どうしても理由や確証と呼べる何かが欲しかった。――手に入れて、それにすがりたかった。

 童話の中のお姫様だって、午前0時になれば魔法がとけてしまう。
 時計の針が進んでも幸せが逃げない方法。それを今、は喉から手が出るほど知りたかった。そうしなければ、進んでしまう日々が怖くて耐えられなくなりそうだった。

 イオスとの恋が叶ったことで、はついにこの世界から離れられなくなってしまった。
 それは同時に、イオスがいなければ、彼女がこの世界で成り立たないということを意味する。……あまりにも、依存しているのだ。
 幸せを知れば知るほど、それを失った時自分がどうなってしまうのか、彼がいないリィンバウムで自分はどうやって生きてゆくことになるのか――考えれば考えるほど、恐怖は底なし沼のようにを飲み込んでゆく。


 いつかは失ってしまう幸せなら、いっそ知らない方が良いのだと、耳元で誰かが囁くのだ。


 初めて愛を得た少女は、眩しすぎる宝物を前にどうしてよいのかわからず、泣きながら途方に暮れていた。






◆◆◆





 彼女はまだ子供なのだ、とイオスは思った。
 それは決して侮蔑の意味ではない。最も身近にいる人間から愛を教わらなかったこの少女は、愛情というものの扱い方を知らない。そういう意味での「子供」だ。
 その姿は、巣に取り残された哀れな雛鳥にも似ていた。

 イオスとて、決して恋愛経験が豊富なわけではない。 誰かに講釈を述べるほど、愛という不安定な感情を理解しているわけでもない。
 けれど、誰かを愛すること、愛されることは、人が生きる上でかけがえのない幸せをもたらしてくれる大切なものであることを知っている。それだけは、わかる。

 何も怖れることはないのだと。愛を得たなら、抱きしめて笑えば良いのだと。それを、彼女に教えてあげたかった。


 決意を込めて、イオスは深く息を吸った。


「――僕は君に、何も求めないよ」

 ふいに告げられた言葉に、ははっと顔を上げる。
 怪訝な色を宿す少女の瞳をまっすぐに見つめながら、イオスは続けた。

「たとえば――もし君が、今の姿や声や知識や……記憶を失ったとしても、それでも僕の気持ちはかわらないと、ここに誓う。
僕はこの感情に、何の代価も求めない。ただ好きだから、愛し続けると誓う。それだけだよ」

 飾りのないイオスの言葉が少女の心を優しく包み込む。
 そのまま身を委ねてしまえば楽なのに、けれどの胸の奥底にある冷え切った過去の記憶が、それをよしとしなかった。

 ――愛に、代価を求めない。それは嬉しくもあり、同時にの心に不安を生んだ。
 今まで代価ばかりを求められてきた彼女にとって、無償の愛の存在を信じることは容易ではない。
 いっそ、代価という理由があった方が、未来を考える上では気が楽になるような錯覚すら覚える。

 避けられない疑問を、は最後の勇気を振り絞り、正直に口に乗せた。

「……どうして? どうしてそんな風に言い切れるんですか?
人の気持ちなんて変わってしまうものです。ずっと同じでいられる保証なんか、ない」

 イオスの唇が一瞬、彼女の言葉に呼応するかのように何かを言いかけて、けれど声を発することなく閉じられる。
 再び口を開いた彼の声は、とても落ち着いたものだった。

「……変わらないよ。
僕の気持ちは、変わらない」

 決死の覚悟で告げた言葉を否定され、は絶句する。
 硬直する彼女を見下ろしながら、イオスは小さくため息をついた。

 ――本人にはそんな気持ちは全くないのだろうが、彼女がイオスに投げかけた問いは、ある意味とても残酷なものだった。
 人の気持ちが変わると言うのなら、のイオスへの愛情も、いつかはうつろうと言っているようなものだからだ。
 イオスも思わずそれを問い返しかけて。だが、やめた。
 そんな言葉の応酬では凍りついた彼女の心を溶かすことなど出来ないとわかっていたからだ。


 厚く重く、悲しい氷。
 イオスが望むのはそれを壊すことではない。――溶かしてやることなのだ。


「……確かに、君の言う通り、保証なんてない。証明することは出来ない。
でも、例え形として見えなくても、確かなものはあるんだよ。
……何度でも言うよ。僕は君が好きだ。これからもずっと好きだ。理由なんていらない。僕が好きだから、愛しいと思うから、それは絶対のものなんだ。もう、理屈じゃない」

 優しい雨のように降り注ぐ彼の言葉を聞きながら、は泣き出しそうになるのを必死に堪えた。
 ――自分が今この瞬間、世界で一番幸せな人間であることを彼女はじゅうぶんにわかっていた。
 自分が納得するまで、イオスは何度でも愛していると言ってくれるのだろう。彼の想いの全てを自分に見せてくれるのだろう。
 けれど、それにどうやって答えたら良いのか――応えて良いのかが、はどうしてもわからない。

 
 戸惑い表情を揺らす少女の頬をそっと撫でて、イオスは何故か、唐突に、微笑んだ。
 その優しい笑顔にの瞳は釘づけになる。


「僕はね、
こんな風に……手を伸ばせば、君のあたたかい身体があって、君がいつでも僕の名前を呼んで笑ってくれれば……。
……君がただ生きてこの世界に……僕のそばにいてくれれば、他には何も望まない。
君を好きになって、これからも好きでいる。これを超える幸せなんて、ないよ」


 イオスの長く美しい指が、少女の黒髪を優しく梳いてゆく。愛しくてたまらないとでも言うように、何度も、何度も。触れたその先から、自分の想いが伝わることを願うかのように。


「……君は未来が怖いと言った。
でもね、
過去でも、未来でもない。今君の目の前にいる僕が言うことが、一番確かな真実ではないのかな?
……もう戻れない過去よりも。まだ感じることの出来ない未来よりも。僕は今、二人で一緒にいられるこの瞬間を、何より大切にしたいと願うよ。
……その僕が言うことが……信じられない?」


 イオスの言葉の終わりを待たずに、堪え切れなくなったは彼の胸へと飛び込んだ。
 しがみついてきた彼女を、イオスは深く抱きしめる。

(――そうか。……そうなんだ……)

 そのぬくもりを感じた時、はようやく理解した。
 過去に囚われることも、未来を怖れることも、何の意味もないのだ。
 自分が愛しているのは、愛されたいと願うのは、過去でも未来でもなく、今ここにいるイオスだ。その彼を見ようともせずに、何故自分は来るかもわからない日のことばかりを怖れていたのだろう。

 別れが怖いのは、きっと、誰だって同じだ。
 けれど、それ以上に今を愛おしく思うから、恋人達は寄り添いあうのではないのだろうか。
 ……人が、愛に代価を求めるのだとしたら。それはきっと、相手がくれるぬくもりのことを言うのだ。
 だからこうして、触れずにはいられなくなる。――今の、自分のように。
 その証拠に、彼も今、自分を抱きしめてくれている。――これが、愛の形ではないのか。


 こんな簡単なことが、どうして自分はわからなかったのだろう。


 幸せを、素直に受け止めて。本能のままに抱き締めればいい。自分の気持ちにただ正直になればいい。
 愛の確かめ方は、それだけだったのに。


「ごめんなさい。……ごめんなさい、イオスさん。ごめんなさい……!」

 しゃくりあげながらあやまり出した少女のつむじにひとつキスを落として、イオスは笑った。

「……違うだろう、

 たしなめられ、一瞬きょとんとした少女は。
 涙の光る瞳を細めて、ふわりと微笑んだ。




「――ありがとう……」






◆◆◆

 



 
 互いの輪郭を縁取る茜色の光が今にも消えそうなことに気づいて、は頬に残る涙の跡を拭う。
 気がつけば、夕日は今にも西の山陰に沈もうとしていた。ずいぶんと話し込んでしまったらしい。

「そろそろ行きましょう。ルヴァイド様を待たせちゃいけませんから……」

 そう言って身を翻した少女の手首をイオスが掴み、引き止めた。
 どうしたのだろうと、は驚き瞬きを繰り返す。

「イオス、さん?」
「待って。
――あとひとつだけ、お願いがあるんだ」

 不思議そうに小首をかしげる少女を見下ろすイオスの瞳が、わずかの間だけ閉じられる。
 再び開かれたイオスの眼差しが、あまりにまっすぐに自分を見つめていたので、の胸がどきりと跳ねた。


――君への告白、もう一度、やり直させてくれないか?」
「え……?」

 思いがけない申し出に、の頬が一気に熱くなる。
 だが、イオスは真剣だった。

「あの夜から、あまりに色々なことがあって……。
このままじゃ、……何より大切なことが埋もれてしまいそうで、嫌なんだ」

 イオスの言葉に、はああ、と嘆息した。
 ――確かに。無我夢中で彼の胸に飛び込んだあの夜から、自分達の運命は風に翻弄される落ち葉のように揺れて廻って擦り切れて、触れあった喜びを反芻する暇もなかった。

 彼がもう一度、自分達のはじまりをやり直そうとしてくれているのだと。その気持ちをしっかりと受け止めたは、背筋を伸ばし、まっすぐにイオスを見上げた。


 視線がまざりあう。もう、逸らしたりはしない。



……君が、好きだ」


 まっすぐなその言葉に、の胸がつまった。
 幸せすぎて、泣きたくないのに、泣きそうになる。
 微笑んで返事をしたいのに、唇が震えた。

「……本当に、私で、いいんですか?」
「ああ。
……君じゃなきゃ、駄目なんだ」

 彼女が繰り返してしまった愚かな問いにも、イオスは迷うことなく答えを返す。
 それから彼は、感極まったように、切なげに瞳を細めた。

「君は、自分の世界より、僕を選んでくれた。
僕は本当に――……世界一、幸せだと思う」

 一言一言をかみしめるようにそう呟いたイオスに、はふるふると首を横に振った。
 堪え切れなくなった涙が瞳から溢れ出す。けれど、その涙はとてもあたたかく、心地よかった。

「幸せなのは、私です。
あなたが、好きです。だから、あなたがいるこの世界が、私の世界なんです……!」

 イオスの瞳が、一瞬だけ、濡れたように揺れる。
 慌てて瞬きをした彼は、照れくさそうに笑う。それから、少女の頬の涙を拭い、その手を彼女へと差し出した。


「これからも、ずっと……。僕のそばに、いてくれる?」


 伸ばされた手を、少女は迷うことなく取って、うなづいた。



「……はい……!」




 地面に映るふたつの長い影がひとつに重なる。
 夜の帳が下りるその瞬間に、小さな恋人達は永遠の愛を誓い合った。


 
 東の空に現れた一番星がひとつ、ふたりを祝福するかのように輝いて――黒い闇雲の影に、消えた。
 

 
 
  第20夜 END